第3話 Man cannot live by bread alone. Ⅰ
人はパンのみて生きるにあらず
体をすっぽりと覆い隠すローブを羽織っているためか、歩きにくくて仕方がない。フードで視界が狭められて、人とぶつかりそうになる。
ジネヴラはレイジの後ろを数歩だけ遅れて歩いていた。ときおり馬車が通るのを舐めつけて、今日はいい魚があるよ、野菜も珍しいものが手に入った、と客引きをする店主たちを眺める。
レイジは逸れないようにと少女の細すぎる手首を優しく掴み、小さな歩調に合わせてゆっくりと道を進んだ。
「ほら、ジネヴラの好きなものを選べばいい」
レイジは服がたくさん並ぶ呉服屋に入ると、開口一番そう言った。ジネヴラはというと男の顔を穴が空くほど見つめて、ふいとそっぽを向いた。
「服がないと困るだろうが。ほら、こういうのはどうだい?」
彼が見せつけたのは、ピンクのワンピースにたくさんのフリルがあしらわれた大変かわいらしい服だ。ジネヴラは見ようともしない。気を取り直してレイジは別の服を手に取り、少女の前で振る。
「いらない。へやの中にとじこめておけば、こんなものつかわないだろう」
レイジは慌ててジネヴラの口を塞いだ。キョロキョロと周りを見渡して、聞かれていないことを確認する。
「声がでかい! オレはね、ジネヴラにそんなひどいことはしないし、危害を加えるつもりはないの。あ、危害ってわかる?」
ジネヴラはレイジの拘束から逃れると、壁にかけられた白い布へと姿を隠す。
「その服、かわいいでしょう。気に入ったかい?」
呉服屋の店主はどこからともなく現れると、レイジたちに向かって言葉を発した。
「やあ、お父さん。娘さんにプレゼント? そのワンピースは締め付けが少なくてね、動きやすいって評判なんだ。生地も柔らかくて洗濯しやすいし。どうだい? 今ならベルトとブーツつきで安くしとくよ」
ゆるやかな広袖のワンピースはふわりと裾をひるがえした。
パチパチと算盤を弾きつつ、彼は人当たりのいい笑顔でレイジを見つめる。
レイジは軽く肩をすくめて、じゃあそれを貰おうかな、と金を差し出した。
暴れる少女をなんとかいなし、買ったばかりのワンピースとブーツを履かせる。ローブは脱ごうとしなかったため、上からもう一度羽織らせることにした。
せっかくかわいい服を買ったのに、それじゃあ見えないじゃんかよ。
「頭を見せるのが嫌なのかい? 気にしなくても、ツノ生えてたり耳が獣の形をしてるやつなんてたくさんいるぞ。この国はそういう差別が少ないからな。それに、竜ってのは幸運の証だから、むしろ歓迎されるんじゃないのか」
レイジはあたりを見渡しながらこう言った。実際、出店でいい匂いを撒き散らす串肉屋の男には、大きなツノが生えていたし、楽しそうに腕を組んで歩く二人組の女の方には、柔らかな草食獣を思わせる耳と硬い蹄が付いていた。
「ツノが折れてるのが恥ずかしい? また生えてくるって! あ、ドラゴンってツノ生え変わるのか? なぁ、ジネヴラ。……ジネヴラ?」
後ろを振り返ると、鼻を垂らし、きょとんとした子どもと目があった。
「おじさん、変なの」
少年は、けたけたと馬鹿にしたように笑うと、串肉を頬張り母親と思しき女性の手を取った。
「まずいぞ」
レイジは頭を抱えると、来た道を戻り、古ぼけた背の低いローブを探し始めた。
「ぜったいウソだ」
ジネヴラは人の波をかいくぐり、細い路地の入り口に座りこむ。
危害を加えない、そういった者は何人もいたが結局あのザマだ。
鞭で叩かれ、首を絞められて、蹴り飛ばされる。火で炙られたり、髪の毛を引きちぎったりもした。涙が転げ落ちれば、歓喜の声をあげてさらに行動はエスカレートする。わたしのことを宝石が飛び出す肉の塊としか思っていないんだ。泣かなくなったと踏んだのか、前の主人は少女のツノをへし折るとオークションで売り飛ばした。
石畳の上を歩く。初めて履いたブーツは足を締め付けて不思議な気持ちになる。だが、尖った石を踏みしめることはない。下を見ながら歩く必要はなくなった。
流れる川をぼんやりと眺めて、橋の手すりにもたれかかる。船が水面を進む様子を珍しそうに観察しながら、ふっと息をつく。
「幸運の証だって。ばかだな、あいつ」
幸せなことなんて一度もなかった。生まれてこなければよかったなんて何度思っただろう。
ジネヴラはフードの裾を引っ張る。また綺麗に生えてくれるだろうか。小さな子どもの脳天にそびえる片方のツノは、中ほどでポッキリと折られている。
海風に遊ばれたフードを握り、目深にかぶり直す。背の高い人々の足元をかいくぐりながら、ジネヴラは初めて自身の足で外の世界を歩いていく。
ちょっとだけワクワクするのは、認めるけど。
ふと、目に付いたのは海辺のレストランだった。立て看板にはメニューと思しき文字やイラストがつらつらと書き込まれ、目立つように飾りもつけられている。腹の虫を呼び起こす香りも風とともに漂ってきた。
匂いの元と思われるオープンキッチンを覗き込んだ。が、背の低いジネヴラでは背伸びをしてもキッチンの天井しか見えない。なんとかよじ登ろうと、窓の縁に手をかけて足で壁を蹴るが、じたばたと情けない音しかならなかった。
「おや? 危ないよ。ほら」
突然、体が浮いた。何者かがジネヴラの脇に手を通し、持ち上げたのだ。驚いた彼女が勢いよく振り向くと、小綺麗な格好をした初老の紳士が微笑んだ。
「美味しそうだね。ほら、あそこのお兄さん、美味しいピザを作っているよ。こっちで焼いてる肉はパニーニ用だ」
「ぱにー、に?」
離せと怒鳴ろうとしたが、初めて聞く不思議な単語にジネヴラは首を傾げた。聞いたこともないが、なんだかとてもステキな名前だ。かわいらしくて、ワクワクして、とっても幸せな響きがする。
「温かいサンドイッチなようなものさ。奥に見えるのは魚と、あれはエビだね。エビとアボカドとサーモンっていうオレンジの魚をパンに挟んで食べるんだ」
「えび、
腕っ節の良い男がちらりとこちらを見たが、気にせず肉を焼いている。肉が細かな脂を飛ばし、食欲を奮い立たせる音を巻き起こす。ジネヴラの心は見たこともない料理に釘付けだ。
「一つ買ってあげようか」
男性はカウンターで客待ちをしていた店員に声をかけると、ジネヴラにメニューを差し出した。
「ほら、さっき言ってた魚のやつはこれ。ちょっと酸っぱいよ。お肉のやつは、コレかな。気をつけて食べないと中身が落ちてしまう。ほかには……」
丁寧にイラストを指差しながら彼はメニューを説明していく。ジネヴラはというと、生唾を飲み込みつつ肉の香りに鼻をひくつかせていた。
「いま、におってるやつ。それがいい」
「お肉のだね? 少し待っていなさい」
彼は頷き、店員に金を渡すと熱々のパニーニと引き換えてきた。
肉汁がとろけて、日光に当たり輝いている。太陽と同じ色をした鮮やかなチーズも同じく溶け落ちて、今にもこぼれ出てしまいそうだ。
ジネヴラは瞳を輝かせる。ずっしりと手のひらに沈むパニーニ。自然と唾液が口内に溢れ出す。
「お行儀よくどこかに座って食べようか。あの辺とか」
「こらあなた。また知らない子に物を買い与えて」
呆れた声色が男性をとがめる。ジネヴラは動きを止めるとパニーニを握りしめた。
「全くもう。誘拐したと思われますよ。ごめんなさいね、お嬢さん。あら、お父さんやお母さんは?」
「あ……」
上品な香水の匂いをまとった初老の女性は、ジネヴラを覗き込むと優しくほほ笑みを浮かべる。
ジネヴラは大慌てでその場を後にした。あいさつも礼も言わずに、ただひたすら全力で逃げた。
「おやおや。さようなら、小さなお嬢さん! きみにも幸運がありますように!」
最後まで優雅に、帽子のツバを少々上に上げて彼らは少女の背中を見送った。
ジネヴラはフードが脱げないように片手で押さえながら、そしてもう片方の手でパニーニを大事に包みこみながら器用に走り回る。
港でウミネコが鳴く。ここには人がいない。
ジネヴラは船の止まっていないふ頭に足を投げ出し、貰ったパニーニを見つめていた。
初めて全力で走った気がする。じわりとにじんだ汗を拭い、肺の中へ酸素を送り込む。
『きみにも幸運がありますように』
どういう意味だ? わたしにそんなことを言っても仕方がないだろうに。なぜあの男は見ず知らずの子どもに食べ物を買い与えた?
この気持ちは何と言ったらいいのだろうか。
かぶりを振って、包まれた紙をそっとめくる。まだ少し温かい食べ物が顔を覗かせた。意を決して口に含む。外はパリッと、中はもっちり、という王道のパンの食感と共にレタス、玉ねぎ、チーズ、肉と次々にいろんな味が飛び込んできた。
集まってきたウミネコがじっとこちらを見つめる。じろりと視線で威嚇して、初めて食べるパニーニをゆっくりじっくり堪能した。
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