第2話 The worse luck now, the better another time. Ⅱ
暗夜。月の光は遮られ、森は一人の遭難者に牙を剥く。ざわりと風が吹くたびに、木々は少女を嘲笑うかのように揺れて行く道を塞ぐのだ。
ひしゃげた馬車はカンテラの炎に包まれ炭となる。木も、人も、馬も、荷物も、なにもかも燃やしてただの無機物になる。
少女はその様子をじっと眺めていた。
おまえが幸運だと? そうだな。珍しい竜を手に入れられてよかったな。だがおまえの幸運はそれで尽きた。
興味はない。黒ずんだ肉塊に一瞥もせず、彼女は森をさまよった。
足が痛い。草木は足裏を突き刺し、足かせが新たな痣を作る。
寒い。布一枚羽織っただけだ。空気が冷たくて仕方がない。
物悲しそうに腹が鳴った。何日食べていないんだろう。お腹いっぱいに食べてみたかったなあ。
ふらり、ふらりと木や岩に頭をぶつける。
木の根が少女の足元をすくった。派手な音を立てて砂利と枯れた草の上を転がる。鎖が大木に絡まって身動きが取れなくなった。
もう、ダメ、だな。
竜の子どもには走馬灯すら現れず、明かりを消すように、パチンと視界は閉じられた。
『泣けよ』
うるさい。
『こいつ生意気だ。どうする』
やめて、いたいことしないで。
『竜って人間より丈夫なんだろ? 切るなり撃つなりすりゃあいい。なに? それでも泣かないって? じゃあ最後の手段だ。こうやって——』
こんな涙なんか、宝石なんか流さない体に生まれたかった。もう感情なんてなくなっちゃえばいいのに。
「ごめんなさい、ゆるしてください!」
「うわ!?」
自分自身の叫びと知らない男の声。
慌てて飛び起きて、周りを確認する。
柔らかいベッドに、降り注ぐ光。少し黄ばんだカーテンは、外の光と暖かい香りの風を通してさわさわと揺れている。
「起きたかい。うなされてたみたいだけど、ずいぶん夢見が悪いんだな」
灰色の髪に明るいアースアイ。鮮やかな蒼い瞳は中心の瞳孔を縁取るように、黄色に近い茶色をアクセントに加えている。
少し疲れた顔をした男は少女を見つめて、安心した表情で眺めた。
「な、なんのつもり、だ」
薄手のタオルケットを跳ね除けて、スプリングを頼りに起き上がる。近くにあったソファを盾にして、男に向き直った。
「なんのって、森の入り口に落ちてたから」
彼はティーポットの蓋を開け、湯気が立ち上るそれを覗き込みながら答えた。途端にふんわりと嗅いだことのない香りが漂ってくる。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
ん、と低い声で男は言った。小さなティーカップには湯気の立つ液体が注がれている。ずい、と押し付けて——受け取らないと踏んだのか、少女が手を伸ばせば届く距離に置いた。
そして、先ほど彼女が眠っていたベッドに腰掛けた。
互いに視線を逸らさない。男は黙って足を組み、膝に頬杖をつく。竜の子どもはソファに爪を立てると、肩を怒らせて視線を泳がせる。
「あ、ぬ、ぬの……あたま」
自身が大きなシャツに包まれていることに気がついた。忌々しい宝石のツノが丸出しだった。慌てて近くに落ちていたタオルケットを頭からかぶる。
「竜の子ども、か。逃げ出してきたのかい」
彼は少女の頭と鱗の生えた手足を見て、飄々とした雰囲気で話しかけてきた。再度立ち上がって戸棚に手をかける。消毒液の匂いとともに、白い箱を取り出す。
「こっち来な。そろそろ包帯変えないと」
「ふざ、けるな。お、おまえも、宝石がほしいんだろ。しってるんだからな」
男はきょとんとほうける。ややあって開いた口から絞り出すように言葉をこぼす。
「まさかその歳で泥棒か」
「ちがう」
間を入れず否定する。彼はほっと息をつくと、それじゃあ、とつぶやき、サッと少女を抱きかかえた。
びくりと子どもの体が硬直する。必要以上に硬くなる彼女に不信感を感じつつも、男は廊下を進み、脱衣所へと足を進める。
「ここが服を脱ぐ場所」
途端に逆光がフラッシュバックした。暗い部屋。ぎらりと冷たく林立する刃物たち。全ては少女の柔らかな四肢を切り裂いて。
「で、これが頭を洗うやつ。この中に入っているのがお湯だから、薬草入ってて傷も……どうした」
青白い顔をする彼女の背中をさすり、男は目を丸くした。
「どこか痛いのかい? それとも、体調が悪い?」
言葉を返そうにも、喉を通りすぎる空気の音が邪魔をする。全身が石になったように、表情も凍りついて、それでも心は泣き叫んでいる。この男も、やっぱり。
「水が嫌いなのか?」
ぬるいお湯を少女の頬に飛ばした。それがスイッチになったのか、彼女はゆっくりと口を動かす。
「もういい、すきにしろ。……して、ください。にっ、にげない、から」
彼は肩をすくめた。視線を落として動こうとしない子どもの行動を待つ。だが石像のように立ち尽くす様子を見て、渋々と服を脱がせ風呂場の椅子に座らせた。
「ほら上向いて、怖いなら目ェつむって」
湯で汚れた全身を濡らし、ゴワゴワの髪の毛に水を染み込ませ、髪を優しく泡立てていく。続いて傷まみれの体を洗ってやり、ちょうどいい温度の風呂桶に浸け込んだ。
「寝るなよ。ちょっとしみるけど、我慢してしばらく浸かってな」
男はさらに疲れた顔をして、風呂場を後にした。
彼女は面食らった。誰も彼も、少女の体を弄って痛いことをする。零れた涙の宝石を掴んでニタニタと笑うのだ。あいつもきっとそうに違いない。きっとこの後、いつものようにひどいことをされるに違いない。しかし、この安らかな香りのするお湯は不思議と心を落ち着かせた。
連なった形の葉っぱ。赤い木の実。ツンとくる自然の香り。熱すぎず冷たすぎない温度の湯は、傷口を優しく撫であげて、軋む関節を和らげる。目一杯匂いを吸い込んで、暴れる心臓を落ち着かせた。
「そろそろ上がりな。のぼせるから」
扉からひょっこりと顔を出した男は、柔らかいタオルで少女の全身を拭いてやった。子どもにとっては大きすぎるシャツを着せて、彼女の首の名がつく器官に目を這わす。枷は外れていたが、青紫に変色した部位を見て眉根を寄せ、化膿した傷口を見るや否や抱きかかえてリビングへと向かう。
彼は少女の傷口、痣になったところになにやら粘り気のあるものを塗りたくり、包帯で固定した。
「メシ、竜ってなにを食べるかわかんないから、おじさんとおんなじやつでいい?」
白い皿には黒っぽいパン、少々深めの木皿にはキノコとジャガイモのスープが注がれている。
竜の子どもは机の上に並べられた料理と男を交互に見やった。白く柔らかそうな耳が忙しなく動く。
「食わんのか?」
「くう」
パンを千切ろうとして、硬いことに気がついた。ぷるぷると腕が震える。男は吹き出すと、少女が持つパンを代わりに千切ってやった。スープに浸して、口元へ持っていく。彼女の目がキラリと光った。
数分で全て平らげる。物欲しそうに虚空を見つめて動かなくなった子どもに、男は果実を剥いてやった。ジューシーな果肉に、シャリシャリとした食感。甘酸っぱい味が舌の上で踊り始める。
「オレさ」
彼はおもむろに口を開いた。少女はビクリと肩を跳ねさせると、口を結んで声の主を睨め付ける。
「そんな睨むなって。オレの名前はレイジ。おまえさんの名前は?」
レイジは目尻を下げて自己紹介をする。対する少女は、嫌悪感を剥き出しにしてそっぽを向いた。
「しらない」
低い声でこぼす。彼女を買ってきた人間は、揃って竜の子、だの宝石の子、だのと名前をつけなかったのだ。
「知らないって。一つ聞いていいか?」
「いい、わかってる」
有無を言わせず、彼女はレイジを強く睨みつける。
「はやくしろ。ここでするんだろう」
「なんの話だよ?」
レイジは首をかしげる。食べ終わった食器を簡単に洗い流して、床に置きっぱなしになっていたティーカップを片す。新しい飲み物を注いで、少女の前に置いた。
「わたしの宝石がめあてなんじゃないのか」
「宝石? どっかに持っているのか? やっぱりおまえさん泥棒だなぁ? アレだろ、どこかに盗みに入ってお仕置きされて森に捨てられたとかだろう」
レイジはわざとおちゃらけた声色で言った。なんとか彼女の緊張を解こうとしているらしい。だが、それは逆効果に過ぎなかった。
「おい、なにすんだよ」
レイジの顔に近づく。驚いた彼の目が視界いっぱいに広がる。膝に座り、続いて首に腕を回して——今までの男の中でも一番たくましい体をしていたが——かぶりを振って気にせず、瞳を閉じて舌を出した。
「なるほどな。まずは落ち着け。オレにそんなふざけた趣味はない。とにかく離れろ」
ぐい、と顎を背けさせられる。大きな手のひらは彼女の顔を掴むなど造作もない。
今度は竜の子どもが首をかしげる番となった。体が目当てじゃないとしたら、コイツは一体なんのために、わたしを家に招き入れたんだろう。
「二度とするな」
レイジは双眸を歪めると、少女の視線をガッチリと結び付けた。
「こうすればいつも痛くされなかった。なんなんだ? おまえは」
レイジは大きなため息をついた。そして後頭部を掻くと、彼女を横に座らせて神妙な顔つきで考え事を始める。
「白いな」
ぼそりとつぶやくと、少女のボサボサに伸びた髪を優しく手ぐしで梳いた。洗ったお陰か、灰色に汚れていた髪の毛は、今や白銀に輝いている。
「そうだ、ジネヴラだ。うん、それがいい」
竜の子どもは、いや、ジネヴラは怪訝な表情を浮かべる。
「じねぶら?」
「ジネヴラ。おまえさんの名前は、今日からジネヴラ」
レイジは心底嬉しそうに笑った。
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