エゴフレイズム・シンドローム
芦名 史緒
一章
第1話 The worse luck now, the better another time. Ⅰ
今は運が悪くとも、いつかは良くなる
からんころんと音を立て、転げ落ちてゆく涙をこれほど恨んだことはあるまい。
天空が広いと知ったのはいつだったか。いつも変わらず頭上にあった、四角の囲いから溢れ出る青色を見たとき、あそこへ飛んでいけたらと何度思っただろう。
誰の手も届かないあの場所へ行きたい。見下ろしてくる頭を見下ろしてやれたらとても清々しい気持ちに包まれるだろうに。
やってきた人間を視界に入れないよう視線を逸らして、壁のシミに目を這わす。乱雑に掴まれた髪が突っ張られて頭皮がジンジンと熱を持ち、突き飛ばされた拍子に軋んだ節々が悲鳴をあげた。足にできた傷口は化膿して嫌な匂いを放っている。先日殴られた左目はぼやけたままで、埃臭い世界を鈍く映しこむ。
片方だけ折られたツノのおかげで、体のバランスが取りづらい。
首から壁につながる鎖が軽く鳴る。ひとつ、ふたつ、みっつ。それ以上は数え方がわからない。ひとつ、ふたつ、みっつ。もう一度、ひとつ、そしてふたつ。
蒼白い光は覆い被さってきた男に遮られる。
光は、ついに見えなくなった。
「さて、皆さま。お待たせいたしました。本日のメインをご紹介いたします」
白いマントに身を包んだ司会者が右手を掲げる。音を立てながら運ばれてきた鉄格子の中身は、暗くてよく見えない。
「宝石の涙を零す竜種………世にも珍しい、
彼がそう言うと、鉄格子の中に光が当てられた。
俯き影になった表情からは、子どもの感情を汲み取ることをできなかった。
古い布で小さな体を覆い、両手足には重く冷たい枷がはめられている。首輪と思わしきところから繋がれた鎖も見える。
宝涙竜——。ツノは宝玉の原石。流す清らかな涙も宝石となる人ならざるもの。それらは『宝涙竜の涙原石』と呼ばれ、かなり高額で取引される。流す石は個体のツノに生えたモノに左右され、一番高価なのは『裏返った気持ちのときに出る』宝石だそうな。
生息地や詳しい生態も不明。中天の湖水や春錦の絨毯、星界の洞窟と呼ばれる地域に現れると言われるが、どれも伝説上の話である。
造形は人型や竜の姿に変えることはできるようだが、目立つ容姿をしているはずなのに野生の宝涙竜はとんと見かけない。
こうやって秘密裏に取引される個体も存在するが、大抵は劣悪な環境に耐えきれず命を落とすものがほとんどだった。
人々が期待の溢れる視線を投げ続ける中、男の掛け声とともに被さっていた布が払われた。
みな一様に騒めき、目を見開く。
ボサボサで伸ばしっぱなしの汚れた灰色の髪。細く、小さな体には無数の傷跡が這っている。ひじ、膝から下は鱗がところどころきらめき、指には鋭い爪が伸びていた。
耳は人の形ではない。長く垂れた耳、ヤギと同じような形をしたものが両端に生え、同じく灰の色をしている。細い体に不釣り合いな無骨な尻尾にも、鱗を無理やり剥がされた跡が見える。
極めつきは頭に生えている二対のツノ。それは美しい宝玉を模していたが、向かって右側上部のツノは中程で折られていた。
「どうやら事故に遭い、ツノが折れてしまったようです。最悪ならば普段の半額で良い、と出品者はおっしゃっておりました。みなさまご質問はございませんか」
客は思い思いの言葉を口にした。広いホールで老若男女問わず低い声が響く。
「ツノが折れてる」「その分安いからお買い得かもね」「傷だらけだ」「汚らしい」「涙は宝石だって?」
宝涙竜の少女はギャラリーを睨め付ける。長い前髪に隠れた瞳が、憎悪の炎を灯していた。
「本当に宝涙竜なのか? ただの竜種との混血だってこともありえる。ツノだけ宝石で、涙は液体だったりするからな」
一人の男が司会者に向かって質問を投げた。ここにいる全ての人間が、疑問に思っていたことを代弁した彼に向かって頷く。
「では実物をご覧ください」
司会者は側に控えていた人間に目配せした。
鞭を持った男たちが現れ、宝涙竜を、正しくは子どもが閉じ込められているオリの周りを囲む。
掛け声とともに空気を切り裂く音が会場を走り抜けた。鞭の先端が幼子の体に傷をつける。そのたびにバチリ、と耳に痛いつんざきが反響する。
——十秒。
成人男性二人がかりで小さな子どもに鞭を振るい続ける。司会者の男は冷や汗を拭った。
——三十秒。
子どもは泣くこともせず、地面に顔を伏せっている。
——一分。結局のところ、宝涙竜は声すらも上げず動くこともしなかった。
「最終手段ですね」
司会の男は苛立ちまぎれにこう言った。片手を上げ、鞭を持っていた二人に目配せする。彼らは投げ出されていた子どもの左手を引き寄せると、動けないように固定した。その間に司会の男は別の男を呼び出す。
「さあ、どうぞ」
男は少女の親指の勢いよく爪を剥がした。低いうめき声とともに、目元からはキラリと輝く何かがこぼれ落ちる。
バタバタと暴れる子どもの動きに合わせて錆びた鎖が鉄格子に当たって甲高い音を立てる。
一番前に座っていた女性は顔をしかめて口元に手を当てる。しかし、次の瞬間には驚きに目を見開いていた。
コロリと音を立てて転がった小粒の宝石。紫と青の混じった美しい石ころが、少女の目玉から流れ落ちたのだ。
「ほん、もの……!?」
「ええ、本物です。それでは気を取り直して」
司会の男は口元をキュッと結んだ。それが合図とも言うように、会場にいる人間たちは口々に数字を口にする。
「一千」
ひときわ低く、ねっとりとした声が騒音を消し去った。それきり誰も声を発することはなく、声の主は満足げに口角を上げる。
「決まりですね」
司会者の締めの言葉で、闇のオークションは閉廷と相成った。
「まさかあの宝涙竜を手にできるとはな。今日という日を感謝せねば」
小太りの男は、灰色の髪を持つ少女を無遠慮に眺める。両手を真新しい枷ではめられ、今にも折れてしまいそうな細い首には、仰々しい首輪と太い鎖が繋がっている。
伸びきった前髪からは、機械的に景色を反射する二つの丸いガラスが垣間見えていた。
「さあ帰るぞ。おまえの新しい家にな。たくさん泣いて、たくさん宝石を作ってくれよ。お宝ちゃん」
男は少女の首元から伸びる鎖を強引に引っ張ると、豪華な馬車へと引っ張った。
彼女に噛みつかれないよう、一定の距離を保って椅子に座る。合図をすると、すぐに馬車は動き出した。
「そうだな、おまえの新しい家のことでも話すか? それとも僕の話でもするか」
小太りの男はニンマリと笑うと、反応のない少女の横顔をジロジロと無遠慮に眺める。ボロボロのフードが影になり、彼女は起きているのか寝ているのかすら定かではない。
それでも彼は話を続けた。自分の家は由緒ある家系で、領主としての云々。特別におまえ専用の部屋をやろう、だがしっかり働いてもらうぞ、だの。
「なんとか言えよ。人がせっかく話しているのに失礼なやつめ。前の主人は常識すら教えなかったのか?」
ついに男はしびれを切らし、少女の肩を持って床に突き飛ばした。男が突然襲いかかってきたにも関わらず、少女は悲鳴すらあげない。細い呼吸をしていることが、小さな胸の上下で辛うじてわかる程度だ。
「ほら、泣けよ。宝石を出したら許してやる。泣けって。なあ?」
肩に置かれた手があごの下へ、キュッと喉が閉まり、彼女の体は若干縮み上がる。もう一方の手は簡易な服を結ぶ紐へかけられた。
「言葉が話せないのか?」
下卑た笑顔で少女の喉笛を押さえつける。
それでも子どもは抵抗をする気配を見せない。しかし、垂れていた耳がピンと張られて窓の外に向いていた。
——男は気づかなかったのだ。御者が顔を強張らせ、最期の悲鳴を上げていることに。
「な、なんだっ!?」
突如床が傾ぎ、世界はぐるぐると回り始める。崩れた地面、大きな落石、馬のいななき、外れる車輪、カンテラは燃えて谷底へ。
暗くて細い山道で、とあるちっぽけな男が消えていった。
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