『算盤』って読めますか?

ささたけ はじめ

※これは限りなく事実に近い創作である。

 その日私は、仕事の帰りに本屋へと立ち寄った。


 ――今日はどんな本を買おうかな?


 書籍を購入することは、私の人生においてもっとも有意義なお金の使い方である。食費を削ってでも本を買いたいと思う私にとっては、書籍選びはとても心が躍る行為なのだ。


 芥川賞を受賞した、若手女性作家のあの本か。

 直木賞候補にもなった、あのアイドルの本か。

 たまにはやけに分厚いレンガ本に没頭するのも悪くはないな。

 それとも夏目や芥川などの古典に戻るのもありか。

 もしくは新しい異世界でも探してみようか。


 いつもの小説コーナーを見て回る。実に至福の時間である。

 思えば、読書というのはひとりソロで行うにはうってつけの趣味だ。

 本が一冊ありさえすれば、その他の用具を必要とせず、さらに場所や時間の制限も(基本的には)ない。これはまさしく「キング・オブ・ソロホビー」とでも呼ぶべきものだ――などと考えていたら、ふと小さな疑問が思い浮かんだ。

 

 ――「ソロホビー」なる言葉は存在するのだろうか?


 しかし、その疑問の解決は簡単である。


 ――そうだな、せっかく本屋にいるのだから辞書でも引いてみようか。


 そう思い、私は壁面にある辞書コーナーへと向かって移動した。

 そして実用書コーナーを横切ったとき、ある一冊が私の目に留まった。


 『論語と算盤』


 ――なんだろう?


 タイトルが気になった私は、立ち止まって本を手に取り確認してみる。

 なるほど、どうやら次の一万円札の肖像モデルである渋沢栄一が著した本であるらしい。

 内容としては、彼の経営哲学を語った談話禄であるようだ。

 

 ――時流に乗って偉人の思考を学ぶのも面白いか。


 こんな機会でもなければ、決して手に取ることはなかっただろう。これはある意味で運命である。

 ところで、海外では『読書』という言葉は一般的に『実用書による学習』のことを指すものであるそうだ。小説を読むことは『読書』ではなく『娯楽』とみなされるらしい。

 高名な投資家の某氏も、一日の大半は読書により新たな知識の収集に努めているというし――ここはひとつ、私も億万長者の仲間入りを目指してこの本を読んでみようではないか。

 そんな思いで『論語と算盤』を購入しようと思ったのだが――ひとつ不可解な点があった。


 ――『算盤』ってなんて読むんだ?


 『さんばん』だろうか? でも『さんばん』ってなんだ?

 サード長嶋か? いやそれは『3番』だ。しかも古い。昭和のネタだ。


 ――そうだな、せっかく本屋にいるのだから辞書でも引いてみようか。


 再びそう思った私は、改めて壁面の辞書コーナーを目指した。

 ちなみに断っておくと、この段階でもはや『ソロホビー』なる用語は私の頭の中から消え去ってしまっている。


 それはともかく『さんばん』で辞書を引いてみたところ――。

 【散髪】【散発】【ざんばら髪】【斬髪】【三ばん】【残飯】

 『算盤』は載っていない。どうやら読みは『さんばん』ではないらしい。

 余談だが、『さんばん』読みである【三ばん】とは、選挙で勝つのに必要な「地盤・看板(知名度)・カバン(資金)」の「みっつのばん」のことであるらしい。なるほど、やはり辞書はためになる。

 だがしかし。

 私が知りたいのはそんなことではない。

 『算盤』の読みかたなのだ。

 しかし読みから辿れぬ私は、今度は漢字そのものから探ってみることにした。すると――


 【算(サン かぞえる)】

①かぞえる。数。「算出・算術・算定・起算・計算」

②はかる。考える。「算段・誤算・勝算・打算」

③一会計年度の収入と支出の計算。「決算・予算」

④そろばん。さんぎ。「珠算・御破算」「(そろばん)」


 ――やっと見つけた!


 なぜかご丁寧に最終項へ記載のうえ、これだけが強調して書いてあるものだから、まるで私が探しているのを察知しているかのようなもったいぶりようだった。ロマンチストの私はこの偶然に運命を感じずにはいられず、この辞書を購入しようと思い立ち、意気揚々とレジへ向かう――ところで、ふと思い立った。


 ――せっかくだから、この辞書で『算盤そろばん』を調べてみるか。

 さっそくパラパラと辞書をめくり、お目当ての『算盤そろばん』を見つけた私は、そこで飛び込んできた文字に自分の目を疑った。


 【算盤 (そろばん さんばんでも可) 十露盤】


 さんばんでも可。

 さんばんでも可。

 でも――


 いいのかよ!

 じゃあ『さんばん』の項目に入れてくれよ!

 なんで『三ばん』はあるのに『算盤さんばん』は無いんだよ!

 「選挙で勝つのに必要なみっつのばん」なんて調べないだろ、普通は!

 この辞書おかしいよ!


 思わず心の中でツッコんでしまった私は、運命の相手と思った伴侶の不貞を知った気分になり、その辞書を元の棚へ戻してしまった。もちろん『論語と算盤』も巻き添えに戻してやった。


 ――運命の相手などいない。やはり独りが一番そろばんだ。


 軽くなった両手を振って、私は店を出た。

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