第3話 スバル
先輩が家に来た日から二週間が経った。
冬休みが終わって僕はいつものように大学で講義を受けたり『スバル』での活動をしたり、いつものなんとなく過ぎていく日々に戻っていった。
同じ学年の奴らは就職活動とやらをぼちぼち始めているようで、僕も周りの波に乗っかるようにエントリーシートやら何やらに手を染めだした。
正直なところ、就職活動や講義に意識を回している方が『スバル』にいるよりもずっと気が楽だった。
たまに部室に行くと必ず「次回の脚本はまだか」と問い詰められるのが嫌だったし、毎週月曜日の昼休みにあるミーティングは、ギスギスした空気からか嫌に静かすぎて僕はその重々しい感じが嫌いだった。
とはいえ、僕の書く脚本は次回の講演で最後になる予定だ。それを機に僕は引退しようと考えている。
その次からの脚本は一回生の木戸くんにまかせてある。高校の演劇部でも脚本を書いたことがあるらしいし、まぁ大丈夫だろう。 今回も彼にまかせればよかったのだけれど、おそらく僕が人生で携われる最後の公演だと考えると、そこに自分の居場所が無いのはあまりにも寂しすぎた。
だからもう少し頑張ろうと思う。もう少しで終わるんだから。
僕は部室のドアを開けた。
窓際にはパイプ椅子に座った橋本さんがいた。彼女は僕と同じ三回生で現在の部長だ。
こちらを見つけると、立ち上がって僕のところまで来て「いらっしゃいコータロー、脚本の進捗はどう?」と肩を叩いてきた。
「まぁまぁかな。うん、ぼちぼちって感じ」
僕の曖昧な返事に橋本さんは一瞬怪訝な顔をした。が、すぐに笑顔に戻る。
「コータロー最後の脚本かもしれないもんね、期待してるよ」
そう言われて進捗状況を思い出すと、微妙な愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「おい橋本、あんまりコータローをいじめてやるなよ」
そこに絡んできたのは現在の部長の高山だ。
ここでおかしいと思った人は正しい。橋本さんと高山、うちのサークルには現部長が二人いるのだから。
こんなにややこしい演劇サークルがかつて存在しただろうか。この二人こそが『スバル』を二分する今の頭領というわけだ。
「なによ~、別にいじめてなんかいないわよ」
橋本さんはにこやかにそう言うけど、目の奥は笑っていなかった。
「じゃあさ、木戸にも脚本書かせてるくせに、『期待してるよ』ってどういうことだよ」
それは初耳だ。橋本さんはきっと僕の脚本の進捗が芳しくないから保険をかけたんだろう。しかしそれは部長としては当然の判断だと思う。
「それは一回生の木戸くんのためじゃない、脚本を書く練習よ」
「だってさ」
高山は呆れたような笑みを浮かべ、同意を求めるように僕のほうを見る。彼は情に厚くて上下関係にも厳しいところがあるから、僕が脚本を書くのが「スジ」だと考えているのだと思う。
「あんたってほんと性格悪いね」
「お前もな。俺だったらコータローに一任するけどな」
見てるこっちがしんどいから頼むからけんかしないでほしい。
このままだとどんどん二人の言い争いはエスカレートしてしまう。
「いやぁごめんね、いつも脚本書くの遅くて。とにかくできるだけ早く仕上げられるよう頑張るよ。もし、間に合わなかったら、その時は木戸くんのでいこう。保険はあったほうがいいよ、うん。それがいいよ、ね?」
そう言ったけれど、その言葉がどのように二人に伝わったのかは分からなかった。
周りにいた同回生の奴らは「またやってるわ」というような顔でスマートフォンから目をあげて僕らのやりとりを眺めているだけだった。
去年まではこの演劇サークル独特の忙しささえもが楽しかった。皆で意見を出し合ったり、たまにはケンカのようになったりもしたけれど、それでも最後には公演の成功に向けて頑張る皆の姿を見るのが好きだった。
でも今は……。
金曜日の夜、家でたむろしている奴らを脚本の締め切りを理由に追い出した後、僕はコタツに入ってノートパソコンと格闘していたが、ついに行き詰って後ろに倒れた。
もうほんとに締め切りまで日が無いというのに、焦れば焦るほど何のアイデアも出なくなる。
それでも時にはふといいアイデアが出るものの、脚本を演じる部員の顔を思い浮かべて消去しを繰り返した。そしてついに辟易としてきた僕は、あの日、先輩と即興劇を演じた時のように何のしがらみのない自由な発想にたどり着きたいと素朴に思った。
でも僕はなんとなく、先輩が遊びに来たのは単なる一時的な『逃げ』であり、少なくとも向こう半年ぐらいは僕の前に現れることはないだろうと予想していた。
あの日、雪の中で踊っていた先輩の姿は、この人に敵うものはこの世に何一つないと、そう僕に感じさせたからだ。
思い起こしてみれば、過去にも先輩は事あるごとに僕や僕以外の誰かとお酒を飲み交わしにふらっと現れていた。僕らと笑って話して、そしていつの間にか元気になって去っていった。そしてそれは先輩が劇団や就職なんかのことで行き詰まったりした時だったように思う。
だから今、先輩が僕らの前に現れないということは別に僕らの助けを必要としていないということでもあり、それは少し寂しくもあるけれど喜ばしい事でもあった。
そう、喜ばしいことなのだ、これは。
「……コンビニでも行くか」
誰に言うでもなく呟くと僕はコタツからのっそりと立ち上がり、とりあえずケータイと財布をポケットに突っ込みダウンジャケットを着こんで家を出た。
それは脚本を書くことから逃げているだけだと分かっていたし、無駄なことだと思ってもいたけれど、気分転換が必要だと自分に言い訳をした。
コンビニへと続く暗い道を歩きながら、僕は思う。
もし、部長二人が喧嘩のようになったあの時、部室で誰かに助けを求めたりしてうまく仲裁することができていれば、何か違った結果になったのだろうか。
僕が小学生だった頃、何度か両親が大げんかをしたことがあった。その時も僕は勉強机の下に隠れていることしかできなかった。聞こえてくる罵声や悲鳴、ガラスが割れる音から逃げるように、泣きながら耳を塞いで覚えている限りのゲームの回復呪文を連呼し続けた。
もう何年も昔のことだけれど、今でもあの頃のことは覚えている。両親に対して恐怖を抱くようになったのその頃からだったかもしれない。
コンビニへと続く道を歩きながら真冬の夜の痛いほどの冷気を肺に入れると、暗澹とした気分を少しずつ洗い流してくれるような気がした。
今日も先輩が来た日と同じようにちらちらと雪が降っていた。
コンビニまで続く暗い道を歩いていると、遠くの電灯の下にスーパーのビニール袋を持った人影があることに気が付いた。
こんな時間にこの道を歩く人がいるのは珍しい。
距離が近づくと、人影はダッフルコート着ている女性だということが伺えた。
いやそんな、まさか。
「よっ、コータロー、こないだぶり!」
ミトンの手を振っているのは、まぎれもなく先輩だった。
「……まじですか」
なんだか予想外すぎて現実味が無かった。
「まじだよ。今日は雪見鍋にしよ、ほら、材料買ってきたの」
大根がはみ出たスーパーの袋を差し出してはにかんだ。
僕はそれを受け取る。
「よーし、いくぞー」
白い息を吐きながら歩く先輩の背中を見て、一体この人の身に何が起きているのかが気がかりでしょうがなかった。
拳を振り上げて楽しげに歩いているけれど、僕にはその一挙手一投足が演技の時のそれに思えて、何もかもが虚栄のように感じた。
しかしおそらく理由を訊いたところで「そりゃぁコータローが寂しそうにしてるから会いに来てあげてるんじゃない」と言われて終わりのような気がして僕は何も言えなかった。
家に上がり込んだ先輩は、早速晩御飯の用意に取り掛かった。僕が手伝おうとすると「いいのいいの、一人の方が段取りしやすいから、待ってて」と、きっぱり断られた。
しかし料理をする先輩の姿はとても楽しげで、手際よく鶏肉を切ったり、腕まくりをして力強くガリガリと大根をすりおろす姿は見ているだけで清々しい気持ちになった。
出来上がった鍋は真っ白な大根おろしで覆われていて、ふたを開けたとたん鼻に抜ける大根とダシのいい香りが部屋中に霧散した。
缶ビールで乾杯をしてから僕たちは鍋をつついた。ふわふわとした大根おろしの食感がおもしろくて先輩も僕もずんずんと箸が進んだ。
鍋をつつきながら先輩は、今朝の仕事前に泊まりの準備をした鞄を駅のコインロッカーに預け、仕事が終わるとすぐに銭湯に行ってからスーツを入れた鞄と入れ替えて来た、と今日の段取りを話してくれた。
そこまでして僕がいなかったらどうするつもりだったんだろう。
そしてその話にはやっぱり仕事やキミタカさんの話は一切出てこなかった。僕にプライベートなことを話すのを遠慮しているのか、話したくない内容なのかは定かでなかったけれど。
ご飯を食べ終わった先輩はすぐにあくびを連発して眠そうだった。
「コータロー、今日も泊めてねー」
ここまでされて僕に断るなんて選択肢はない。
「そりゃまぁいいですよ。でも、キミタカさんは先輩がここに来ること、何も言わないんですか?」
「んー、キミタカ? あぁ。コータローは安全だからなーってさ、笑ってたよ」
先輩は意外なことを訊かれたというような表情をして言った。
「……それだけですか?」
「それだけなんだよね、薄情だよねー」
先輩は困ったような顔をしながら苦笑していた。
いやいや、なんかもっと他に心配することがあるだろう。
どうして婚約した相手が、後輩とはいえ他の男の家に泊まりに行っているのか、もしかしたら今の生活に何か不満でもあるんじゃないかとか。キミタカさんは不安に思わないんだろうか。
「噂で聞いたんですけど、先輩たちって結婚するんですよね?」
「そうだよ。来年の春頃かなーって話してる」
「いいんですか? こんなところに来て」
「え? なんで?」
「なんで? ってそりゃ……」
先輩は言葉に詰まっている僕を前に缶ビールを持ってニヤニヤしながら「コータロったらやーらしー」とのたまった。
思わず僕は肩を下ろしてしまう。
「先輩達は僕を何だと思ってるんですか」
しかし肝心の先輩は考える素振りもなく「ん~? お人好しでかわいそうな後輩、かな」 と当たり前のことのように言う。
そしてそのままあくびをしてころんと横になった。
天真爛漫すぎる。
「あのー先輩、炬燵で寝ると風邪ひきますよ」
そう力なく言うと、返事がない代わりに寝息が聞こえてきた。
「こら、だめですよ、起きてください!」
僕は深い眠りに入る前の先輩を揺り起こし、ふらふらする体を支えてベットまで連れていった。先輩はそのまま前のめりに倒れこむようにしてベッドに寝てしまった。
平日の仕事終わりにはるばる僕の家まで来た疲労に加えて満腹とアルコールのせいで眠たくなってしまったのだろう。
むにゃむにゃ言う先輩に布団をかけると、僕は部屋の電気を切った。
手探りでケータイ探して手に取ると、キミタカさんに連絡しようと思った。
もしかすると先輩が嘘をついていて、黙ってここに来ているのかもしれないと思ったからだ。
でも、何故か僕の意に反して手は動かなかった。
ケータイを置くと、僕は炬燵に入った。
だんだんと闇に目が慣れてきて、辺りがよく見えるようになる。
それと同じように、僕はやっと自分自身の気持ちがわかるようになってきた。
僕はきっと、ずっと先輩に会いたかったんだ。
夜中にコンビニに行こうとしたのも、心のどこかで先輩に会えるような気がしていたからだし、キミタカさんに連絡をとらなかったのも、もしかしたら先輩が連れ戻されて、もう僕の前に現れないんじゃないかと思ってしまったからだ。
そこに恋愛感情はないのは確かなはずなのに、でもどうして、僕は先輩が近くにいてくれると安心できるんだろう。
考えても分からなかった。
これ以上深く考えて答えを出しても、それは僕の本心じゃなくなってしまうような気がして、考えるのをやめた。
翌朝、僕は炬燵の中に足だけを突っ込んだ状態で目覚めた。布団から出ていた上半身には僕のダウンジャケットが掛けられていた
前と同じように、メモを残して既に先輩の姿はなかった。
『昨日もありがと、鍋おいしかったね、また来るよ。
追伸:人にはコタツで寝るなって言っておいて、いけないんだ~』
そりゃ人のベッドで寝てた誰かのせいだ。と心の中でツッコミをいれる。
でも確かに、体が乾燥したからか、やけに喉がかわいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます