第2話 深海コンビニへ行こう
番組がエンディングに入り、壮大な音楽とスタッフロールが流れ出した。
「いやーおもしろかったねぇ」先輩は大きな伸びをした。
僕も「そうですね~」と返す。
「私ウミケムシが好きだな、あのちっちゃいやつ。毒はあるけど、すごい綺麗だよね。ふつうの毛虫は苦手だけど、あれだったら全然いけるよね」
先輩は僕に同意を求めるようにしてこちらを見る。
僕が思うにウミケムシはさっき見た番組の中でもかなりグロテスクな部類の生き物に属すると思うけど、それでも先輩はそれをいたく気に入ったらしかった。
「僕はあれですね、ゴエモンコシオリエビ。あいつがおもしろかったですね」
ゴエモンコシオリエビは海底火山の熱水噴出孔の周辺に生息している真っ白な甲殻類で、自分に生えている毛の中にエサとなるバクテリアを繁殖させて共生しているのだという。いかにもヘンテコリンなやつだけど、僕はそいつの自給自足している姿がしおらしくて好きだった。
「へぇ、コータローもなかなか変わってるねぇ」
……ウミケムシが好きだと語る人には言われたくない。
「なんか集中してたらお腹すいちゃった」
先輩は楽しげな笑みを浮かべながら言う。
「もうすぐ日付変わりますもんね」
「え、もうそんな時間なの?」
先輩は驚いて壁の時計を仰ぎ見た。午後十一時五十分を指している。
「私ポテチか何か食べたいなー」
夜中にそんなもの食べてたら太りますよ、という言葉をぐっと飲み込んだ。
「今おやつ的なもの切らしてるんですよ。まだ眠たくないんですか?」
「うん、それが全然なの。なんでだろーね、やっぱり他人の家だから緊張してるのかな」
「それはないですね」
全く緊張する様子のない先輩をあしらいつつ、しかし僕も不思議と全然眠たくなかった。
「ねぇお腹すいちゃった。ポテチじゃなくてもいいからさ、何か食べるものないの?」
「何にもないですよ。というか、勝手に人の家に押し入って宿泊する上に食べ物まで漁るつもりなんですか?」
僕は冷ややかな目を先輩に向ける。
「もーいちいちうるさいねぇ、そんな心が狭いからキミには彼女ができないんだぞー」
「それとこれとは別問題です。それに、さっきは心が広いって言ってたくせに!」
僕はそう反論したけど、先輩はお得意の聞こえないフリをすると炬燵から這い出て「おりゃ」と冷蔵庫を許可なく開いた。
そして「ほんとだ、何もない」とがっかりした。
もう立派な社会人なのにこの子どもっぽさはどうにかした方がいいと思う。
「その日買った物はその日に食べる主義なんです」
自炊しているなら食べ物の貯蔵もあるんだろうけれど、学校の近所に激安な総菜屋を見つけてから、僕は自炊をしなくなった。あるのはお米だけだ。
「何か食べるもの調達してきましょうか」
「どこ行くの?」
「学校近くのコンビニですよ。今の時間帯はあそこしか開いてないですから」
去年できたそのコンビニはここらでは唯一24時間営業の店で、主にうちの大学生の夜食調達場になっていた。
僕がそう答えると先輩は「じゃあ私も行く」と立ち上がった。
「寒いですよ? けっこう遠いですし、一人で大丈夫ですよ」
「いいの、一人で待ってるのは嫌だもの」
とはいえ、自転車に乗って行くつもりだったので先輩と一緒だと寒い中を歩く羽目になってしまう。
「それにコータローがいなくなると、つまらないから私、家中を探索しちゃうか・も・よ」
「……」
僕の提案をえげつない方法で制した先輩は、手袋をはめてさっさとコートを羽織りだした。
「それにほら、なんか深夜のコンビニってさ、わけもなくワクワクしない?」
しかしながら、僕もその意見には心から同意した。
闇の中にポツンと灯る淡白なLEDの光とか、眠気や疲労と戦っている店員の姿、陳列された雑誌やお菓子なんか、日中は気にも留めないようなものたちをふと手にとってみたくなる。
深海に棲むチョウチンアンコウの光に惹かれる小魚のように、あのコンビニの光を見ると近づきたくなるんだ。
先輩もきっと同じようなことを感じているに違いない。
僕はコートを羽織ながら、そんな思考をめぐらせた。
下宿を出てしばらく歩くと学校まで続く道に入る。
この道は街灯もまばらで、電球が切れている場所は闇に閉ざされている。
本当に真っ暗になるので、冬場は次の街頭まで陽気なアニメの歌を歌って怖さをごまかしていたりする。しかし、学校方面に行くにはこの道しかなく、この暗い道のせいで女の子達が僕のいる下宿に来ることは少ない。決して僕達が女の子と縁遠いわけではない。決して。
僕たちは背を縮こまらせて寒さに耐えながら歩いた。幸い雪は止んでいた。
街灯に照らされて先輩の吐いた白い息が闇へと流れていく。
振り返ると下宿の蛍光灯の光が遠くに見え、とんでもなく長い距離を歩いたような錯覚に襲われた。
「あ、ウミケムシ」
突然、先輩が闇を見て言った。誘うように笑って僕のほうを見る。
「ほらほら、あそこ」
即興で僕に演技をけしかけたんだ。
指を差す先輩の声の出し方や身体の動き、頭のてっぺんから足先までもが全て、舞台に立つときのそれだった。
雰囲気が別人のそれになって、僕の知らない人がいきなり隣に現れたかのような感覚に陥る。
「かなり大きい、新種かもしれない」
僕は咄嗟に、なんとかそれに応じる。
「いや、きっとあれは王様だね」
「王様?」
「そう、ウミケムシ王国の王様だよ」
先輩の思い付いたアイデアの中に少しずつ僕は足を踏み入れていく。
「なんてこった、深海には僕たちが知らないそんな文明が発達していたのか」
「ほら、コータローも王様についていってみようよ、きっとおもしろい場所に行くに違いないよ!」
先輩は僕の手を引っ張ったが、僕は立ち止まる。
「確かにおもしろいかもしれない! でも……ウミケムシ王国にはあんまり行きたくないよ。ちょっとグロそうだもの」
正直に言う。やつらがウジャウジャいるところなんて想像もしたくない。
「いや、おつきのケムシもいないし、王様はきっとお忍びでどこか遊びにいくんだよ」
「なるほど、それは気になる」
「でしょう? ほらほら、置いて行かれちゃうよ!」
先輩は僕の手を引っ張る。それと同時に先輩の描いている妄想の世界にぐんと引きずり込まれる。
「これはウミケムシ王国のスキャンダルを捕えるチャンスかもしれないね」
闇の中を進みながら先輩が不敵な笑みを浮かべて言う。
「そんなことしてどうするの?」
「もちろん、王様の弱みを握って王国の財宝を頂くのよ」
「なるほど!」
「しーっ! 気づかれないようにこっそり後をつけないとね」
僕らは泥棒のような忍び足で進む。
ふと深海で足音を隠すのって意味があるのか? という問いが自分の中から湧き上がってきたけれど、それは無視する。
しばらく歩いていると、さっきまでやんでいた雪が空からはらはらと落ちてきた。
「あ、雪だ」
僕はセリフじゃなく、そう言葉をこぼす。
「マリンスノーだよ」
落ちてくる雪を両手で受け止め「雪のように見えるけど、本当はプランクトンの死骸なの」と呟く。
「そうだ、ふたりでマリンスノーで雪だるまを作ろう」
「マリンスノーマンだ」
僕と先輩は空想の大きな雪玉を転がす。
「手は深海サンゴにしよう」
「目は貝殻にしよう」
僕らは歩きながらスノーマンを作っていく。
「よし、できた!」
「うん、我ながらいい出来栄えだ」
先輩は腕組みをして言う。
「そういえばウミケムシ王はどこに行ってしまったんだろう」
「本当だ、つい夢中になってしまった」
「そうだ、スノーマンお願い、ウミケムシ王のところまで連れてって」
僕は出来上がった雪だるまを追いかける。
僕と先輩には確かにそこに動く雪だるまを捉えていた。
「どこに行くのかな?」
そう言ってこちらを見てくる。
「きっと深海コンビニだよ」
「深海コンビニ?」
先輩は面白い物を見つけたような顔をする。
「そう、深海にあるものならなんでも揃うよ」
「素敵! お酒も売ってるかなぁ」
「もちろん! きっと難破した船に乗っていた世界各国のおいしいお酒が置いてあるに違いない」
「やったー! さぁ行こう!」
先輩は屈託のない笑顔で走り出す。
僕も後を追う。僕らの足音と息遣いが闇の中に溶けていく。
いつの間にか、僕は現実から解き放たれていた。
「あ、さっきの王様だ」
息を切らした先輩が言う。
「ウミケムシの王様も、深海コンビニで週刊マンガを立ち読みするに違いないよ」
「案外王様も庶民的だね」
僕たちはLEDの光を煌々と放つコンビニの前にいた。
自動ドアが開く。
「深海の旅の果てに」
「僕たちは深海コンビニに辿り着いた」
先輩を見る。
先輩も僕を見ていた。
そして、どちらともなくニヤリと笑った。
かつて先輩の在学中、僕たちはたまにこうして何の脈略も無い即興劇をした。
誰に見せるでもない、誰のためでもない、大したストーリー性もなく思いついたことをそのまま言うとりとめのないごっこ遊びのような劇。
これに似た即興劇は演劇用語ではインプロヴィゼーション、略してインプロというものだということを僕はかなり後から知った。
インプロは人物設定も世界観の設定も決まっていない。その瞬間に起こったことをお互いに受け入れながら演じていくのが特徴だ。そこにはて「イエス・アンド」という基本概念がある。
相手の言動を受け入れて(イエス)それに沿う形で提案を付け加える(アンド)ということだ。
相手がどんな言葉を発そうと、どんな身振りやイメージをしようとも、全て受け入れ、さらにそれにイメージを膨らませて物語を創っていく。
この即興劇というやつは演じ手の想像力やアドリブ力が試される。
その反面で相手をありのままに受け入れるという基本姿勢があるので、失敗するという概念がない。どんなにちぐはぐなことをしても相手が受け入れればそのまま劇は続いていくからだ。
劇の中で相手を信頼し、それと同時に自分が信頼されているとも感じる。
僕は即興劇のそういうところが好きだった。
LEDに照らされた店内は、天井のスピーカーから今年流行ったアイドルの曲が流れていた。
先輩はカゴを取ると陳列棚の前にかがんで、いろんなお酒を次々に放り込んでいった。
僕が取ってきたポテチやおつまみも入っていっぱいになったカゴをレジに置き「いいよいいよ、社会人にまかせなさい」とお金を出してくれた。
店員の男の人は僕よりも少し年上に見える、学生だろうか。下を向いて髪が落ちないように耳にかけながらおでんを注文している先輩をちらちらと見ながら、トングで容器に入れていた。
会計を終えた先輩は僕の両手に重たいビニール袋を持たせて幸せそうな顔で外に出た。
コンビニを後にしてしばらく歩くと、先輩は「一本もーらい」と夏の青空に似た色の瓶を取り出して蓋を開けた。
そのまま喉の音を立てながら一気に半量程を減らし、目をぎゅっと瞑って背を縮こませて「くぅ~、寒い!」と身体を温めるようにして足踏みをした。
「冷たいのをそんな一気飲みするからですよ」
僕の忠告を無視した先輩は僕の持つ袋からおでんのパックを開け串に刺さったすじ肉を取り出してぱくついた。
「ん~! うまぁ~」
「家に帰るまで我慢してくださいよ」
「そんなお母さんみたいなこと言わないで、ほらほらコータローも食べなよ」
先輩が差し出したスジ肉はいい具合に湯気が立っていた。
両手が塞がっている僕は仕方なく目の前のすじ肉に食らいついた。
口の中に温かなダシの味がと広がって、飲み込むと体の芯にじわーと熱が染みこんだ。
「……おいひぃ」
思わずそう口走る僕に先輩は何故だか勝ち誇ったような笑みを見せた。
そして手に持った串を指揮棒のようにして優雅に振りながら鼻歌を歌う。
まだ全然酔っぱらっているわけではないのだろうけれど、この人のテンションは酔う前から高いから酔っていてもよく分からない。
しかしさすがは演劇部の元エース、適当に歌っているようでも音程がしっかりしている。
鼻歌は確か『韃靼人の踊り』という曲で、オペラか何かの挿入歌だったはずだ。
ガラスのように透き通った歌声は、冬の夜に溶け込んでいくようだった。
先輩はくるりとその場で回り、妖精のように軽やかに踊りだす。
ちらちらと降る雪の中を舞うその姿は自由そのもので、先輩は先輩そのもので、その背中に羽が生えているように僕には見えた。
次の日、カーテンに当たる明るい朝日を瞼に感じて目が覚めた。
寝慣れていないカーペットから起きあがると、体の節々が固くなっているのがわかった。
昨夜は先輩と三時頃まで飲んで、そのまま僕は床で寝てしまったんだった。
先輩は僕のベッドで寝ていたはずだけれど、ベッドの布団は綺麗にたたまれていた。
とにかく歯を磨こうとして台所へ行くと、机の上に真っ白な三つのおにぎりが皿の上に並んで置いてあった。
触ってみるとまだほんのりと暖かかったそれは、きっと先輩が握ったものだろう。
お皿の下にメモらしき紙が挟まっていたのを見つけて手に取る。
『おはよう、昨日は突然だったのに、泊めてくれてありがとね』
丸っこい字で簡潔に書かれたメモには、猫の小さなイラストが描いてあった。
そういえばあの人、いつもこの謎の絵を残してたな、と思い出して少し懐かしい気持ちになった。
いきなり来たかと思えば、ふといなくなっているのは、なるほど猫と先輩の共通項かもしれない。
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