深海コンビニ
園長
第1話 先輩との再会
その夜は音という音を全て消し去ったかのように静かだった。
僕以外の生命体が地球上に存在していないかのようにさえ思えた。
テレビの隣に置かれたデジタル時計は、あと二日と少しで今年が終わることを告げている。大学は冬休みに入り、この下宿の友人たちは僕を残して皆こぞって帰省していた。
どこかレトロな雰囲気を漂わせたこの田舎の下宿も、いつもはこんなに静かじゃない。
隣に住んでる相川や他の部屋の同回生の奴らが週末になると決まって僕の部屋に常在していて、徹夜でゲームをしたり映画を見たり、たまにはゼミのレポートを書いたりしているからだ。
こんな狭い1Kなんかじゃなくどこか他の場所でやればいいのにと思うのだけど。適度に掃除された部屋と他人にあまり干渉しない僕の性格も相まって、入学以来、結局ここが皆のたまり場のようになってしまっていた。
それは僕のあまり望んでいない事で、自分でもどうしてそんな状況になってしまったのか分からないでいた。
高校生の時、部活にも入らず特に友達と呼べる存在もいなかった僕は、教室の隅で何をするでもなく机に座っていつも終業のチャイムが鳴るのを待っていた。
誰とも繋がりを持たなかったせいで、周囲から奇妙な目や同情の目で見られることも多かった。たまに優しい人が話しかけてきたりなんかして、でもそれにうまく会話を合わせられなくて、せっかく気を使って話しかけてきてくれたのに、面白い話ができなくて申し訳ない気持ちになったものだ。
別にいじめられていたわけではないけれど。あの頃の僕は、そこにいてもいなくても同じような、もし明日急に僕がいなくなっても誰も気にも留めないような、そんな存在だったのだと思う。なんとなくだけど、僕はいつも自分だけが異物のような、そんな居心地の悪さを感じていた。
地方の田舎の大学に下宿したのも、家族や知っている同級生がいない場所で可能な限り一人で静かに暮らしてみたかったからだ。
つまり僕は元来、一人でいるのが好きな人間なのだ。だからこの冬休みは願ってもない状況だ。昨日から誰にも会わず、誰に話しかけられることもなくなった。
窓の外を見ると、田んぼにうっすらと白い雪が積もっているのが見えた。時間はいつもよりもゆっくりと流れていて、たまに遠くの道路を走る車の音だけが鮮明に聞こえてくる。
今の僕にはその孤独さが、静けさが、心地よかった。
皆が帰ってくるまであと五日、僕は僕のやりたいように生きよう。朝起きるのも、ご飯を食べるのも睡眠時間も、自分がしたいと感じたようにしよう。そう思うと、どこか繋がれていた鎖から解放されたようで、妙に清々しい気持になった。
炬燵に入ってテレビの電源を入れてみる。ニュースを読む地方局のアナウンサーは、年末に行われる行事について淡々と伝えていた。
下宿の皆は今頃、家族や恋人や友達と楽しい年末の時間を過ごしているのだろう。
炬燵の天板に置いた両腕の上に頬を乗せると、自然に瞼が落ちてくるのが分かった。いつもはテレビをつけたまま寝ることはないんだけど、今日ぐらいはいいかという気持ちが眠気を後押しする。
僕は部屋が暗いと怖くて寝れない質なので、いつも明かりはつけたままだ。
視界がだんだんと暗くなって眠りに入りかけた時、突然インターホンが鳴って心臓が跳ね上がった。
僕以外に誰もいないはずの下宿に、もう夜の十時を過ぎているのに来客があるなんて。
誰だろう、もしかして空き巣だろうか? ……まさか。そうなら律儀にインターホンなんて鳴らさないし、そもそもこんないかにも貧乏そうな下宿に盗みになんか入らないだろう。
もしかしたら下宿の住人が何らかの理由で帰省することをやめて戻ってきたのかもしれない。可能性としてはそれが一番高そうだった。
もう一度呼び鈴が鳴る。聞き間違いじゃない。
僕は居留守がばれないよう静かに玄関まで移動し、おそるおそる鉄製のドアについている覗き窓を見た。
その丸い視界の中には僕がよく知っている懐かしい顔が、自分と同じようにドアの向こう側からこちらを覗きこんでいるのが見えた。
白いダッフルコート着て、こげ茶色の手袋をはめた手をグーパー動かして温めている。今は黒くなったセミロングの髪には雪が少し乗っかっていた。
彼女は今春まで大学の先輩だった人だ。
得体のしれない相手じゃなかったと分かって安堵したのと同時に疑問が浮かぶ。どうして先輩がわざわざ僕の家に、しかも年末のこんな時分にやってきたのだろうか。
三度目の呼び鈴が鳴り、あまり考える間もなく玄関のカギを開けた。
「久しぶり、元気してた? いやぁコータローは絶対に帰省してないと思ってたよ」
先輩は白い息を吐きながらそう言って得意気な顔をした。
「どうしたんですか? こんな夜中に」
「まぁまぁ、細かいこと気にしないで家に入れてよ。せっかくはるばるやってきたんだからさ」
確かにこの下宿は最寄のバス停まで歩きだと二十分近くかかる。先輩の頬は寒さで赤くなっていた。そんな姿を見て断れるはずはない。
「お、コタツあるじゃん」
先輩はコートを脱ぐとなんの断りもなしに炬燵に手足を入れる。
「はぁー、いやぁここは天国だねぇ」
いきなりくつろぎだす先輩にすこし面食らいながら「こんな時間に、いったい何しに来たんですか?」ともう一度訊いた。
先輩はニヤニヤしながら言う。
「んふふ、知りたい? でもねでもねー、ひ・み・つ」
これは答える気がないなと直感した。それにおそらく大した用事でも無いのだろう。
僕は先輩が座椅子の背もたれにかけたコートを取ってハンガーにかける。コートからは煙草のにおいがした。先輩は吸わなかったはずだ。
「来るなら連絡の一本も入れてくださいよ。もし僕が帰省してたらどうしたんですか?」
「コータローは、帰るつもりなんてあったの? 地元の友達と遊びに行くとか?」
見透かしたように言われて僕は言葉に詰まる。
「それは……なかったですけど」
「ほらやっぱり、連絡なんて必要ないじゃん」
この人はきっと、本当に僕がいない時のことなんて想定していなかったのだろう。
「全然変わってませんね、そういう無計画なところ」
「んー、まぁねー」
あっけらかんと言う先輩と向かい合うようにして炬燵に入った。
よく考えてみたら先輩とは卒業式以来、半年も連絡をとっていなかったことになるのか。
以前と変らないやりとりに、つい昨日まで先輩と会っていたような錯覚を感じる。
僕より二つ上のこの先輩はこの春に大学を卒業していた。噂によれば大学から少し離れた町で事務系の仕事をしているらしかった。今は彼氏と同棲していて、近々結婚するかもしれないという話も聞いていた。
先輩との接点はスバルという演劇サークルだった。
僕がそこに入団したとき、すでに彼女はその中心に位置する人物だった。カリスマといってもいいかもしれない。
監督をしながら演技指導もこなし、演出や音響なんかにも意見したり相談を受けるような、そんな人だった。
かといって独裁者というわけでもなかった。尋常でないほど個性豊かな、いわば自分勝手な団員達の能力をうまく引き出してまとめ上げて運営していた。
先輩が部長になってからはスバルの観客はじわじわと増えていき、他の劇団から共同で芝居をしようと提案をうけたりもするようになった。
だけど先輩がいなくなってしまった後は、ひどい有様だった。
部員たちの演技の方向性をめぐる争いはくだらない権力争いに発展し、たびたび喧嘩が生じるようになった。そんなギスギスした様子を見かねて、春は顔を覚えられないぐらいたくさんいたはずの一回生も今では片手で簡単に数えられるぐらいまでになってしまったし、他の団員達も練習に来る頻度が目に見えて減っていた。
先輩という大きな存在が劇団から抜けて、スバルは完全に方向性を見失っていた。
そもそも、大学の演劇サークルに入ってくる人間にはは大きく分けて二種類の人間がいて、それぞれに違う考え方を持っているために争いが絶えないのだ。
一つ目は高校生時代に演劇部に興味があったり携わっていたりして、サークルに入っても本気で芝居をしたいと思っている者……まぁこれが半分くらい。
二つ目は、ただ皆で集まってわいわい楽しくやりたいという、要は遊ぶことが目的な者。後の半分は大体これにあたる。
そして稀に、そういった者達に連れて来られて、よく分からない間にかサークルに入ってしまった者。つまりは僕のような人間もいる。
演劇というものに対して 真面目な者とそうでない者がいて、争いにならないはずはない。
入学したての四月、僕は下宿でたまたま隣に住むことになった相川に連れられて『スバル』の入団オーディションを受けた。そのときは演劇なんかに興味は無かったけど、友達が少なかった僕は気さくに関わりをもってくれた相川の誘いを無下に断れなかったのだ。
オーディション、なんて言ったら聞こえは良いけれど、万年人手不足で悩んでいる大学サークルの新人オーディションなんて形だけのもので、新人歓迎会のネタ作りのようなものだ。
そのオーディション方法は先輩たちの思いつきで毎年変わるのがしきたりだった。その年はA4のプリントにお題が書かれたものが机の上に置いてあって、それを自由に演じるというものだ。今考えるとすごい無茶なことをやっていたものだ。
僕らの番になり、緊張しながら紙を見ると「波」と汚らしい毛筆で書かれているだけだった。
先に演技をした相川は酔っ払っているのか踊っているのか分からないような演技をして晴れて団員になった。
一方、演劇なんて見たこともなかった僕はその時、何をすればいいか分からずに「僕は波だ、沖の方からやってきたぞー、浜辺の皆さんこんにちわー」という謎のセリフ(?)を波になったつもりで身振りをしつつ言ってみた。
パイプ椅子に座る劇団の先輩達の奇異なものを見るような視線が痛かったのは覚えている。
それを見た瞬間、どうして僕はこんなところでこんなことをしているんだ、まるでバカみたいじゃないか。という恥ずかしさがこみ上げ、だんだんとやるせなさに変わって、もうどうにでもなれと思った。今思えばその時、僕の脳は正常な働きをしていなかったのだろうと思う。
僕は感情にまかせて頭の中に浮かんできたセリフを次々に言った。そうしているうちに、波が魚たちと世界中を旅して回るうちに巨大なクジラになるという意味の分からないハチャメチャな物語を作っていた。次第にそっちばかりに気をとられていて、気づけば身体を動かしながら語り部のように話していた。
審査員の中にはもちろんこの先輩もいて、パイプ椅子に座っていた。
そして無責任な笑顔で言ったんだ。
「君おもしろいね、うちで脚本でも書いてみる?」
これが僕と先輩との出会いだった。
最初は自分に脚本なんて書けるわけがないと思った。小学生の時の作文だって書くのが嫌いだったし褒められたこともない。何度もそう断ったけれど、先輩に「磨けば絶対にその才能は光るよ」と力説されたり最終的に拝み倒されたりして僕は折れた。
その当時『スバル』の脚本は全て四回生の先輩が一人で書いていた。基本的にうちの劇団はオリジナルのものしか公演していない。というのも、技術が拙い大学の演劇サークルで客を入れようとしたら、脚本や演出は新鮮味やインパクトのあるものでなくてはならないから、という考えがあったからだ。
つまり脚本担当は劇団にとって相当に責任重大なポジションともいえる。でもその重責があるがために担い手も少なかったのだろう。
僕はその四回生の先輩から脚本の技術を一年間でみっちり教えられたけど、白状すると未だに自分の書いた脚本が自分でおもしろいと感じたことがない。正直に言えば自信が無かった。無いままに今までやってきていた。
「それで、ほんとに何のために来たんですか?」
「もう、それが半年振りに合った先輩に向かって言う言葉?」
先輩はわざとらしいふくれ面で文句を言う。
「そりゃ気になりますよ、年末のしかもこんな時間にいきなり先輩が来るなんて」
僕がそう訴えると先輩は僕を憂うようにして微笑んだ。
「一人で寂しい思いをしている後輩がいると思ってわざわざこんなところまで泊まりがけで遊びににやって来てあげたんじゃない。分かんないかなぁ? この後輩に対する愛の気持ちが」
大げさに腕を広げてそう言うけれど、こうやってこの人が演技っぽい仕草や大げさな身振りをする時は必ず口からでまかせを言うときで、そして本当のことを言う気が無いときであることを僕は知っていた。
「泊りがけで……って、大丈夫なんですか? その、いろいろと」
先輩の彼氏は僕もよく知っている間柄とはいえ、男の家に泊まるということに抵抗はないんだろうか、この人。
「だって、キミタカがあたしのこと相手にしてくれないんだもん。薄情なやつだよ、あいつは」
キミタカさんは先輩の彼氏の名前だ。
先輩は僕の家に来た理由を話そうとしなかったが、僕の勘では彼女は何かから逃げて来たんじゃないかと思った。仕事関係か婚約者のことか、それは分からないけれど。
昔から何か悩みを抱えた時にはこういう大胆な行動をしたりして周りを困らせるのが先輩の常套手段だったからだ。有り体に言えば、この人はそういう自分の弱みを打ち明けるのが不器用な人なのだ。
「まぁ泊まるのは……別にかまいませんけど」
「やった、さすが劇団一心の広い男! よっ男前! 断れない男!」
褒めているのかけなしているのか分からないようなことをのたまいながら、先輩は僕を持ち上げた。
「でもこの家、本当に何にも無いですよ? 何も楽しくないですよ?」
「いいよいいよ、テレビが見れたらそれでオッケー。それにほら、ちゃんと話し相手がいるじゃない」
僕を見て先輩は言った。
確かにそうだ、先輩と話すのなんて本当に久しぶりだし、お互いに話せることは沢山あるだろう。そう思った。
しかし次の一言で早々に僕はその考えが間違っていることに気付かされてしまった。
「『スバル』はどう? うまくいってる?」
「ええ、うまくいってますよ、先輩がいた頃とほとんど変わらない感じで……」
演劇で身に着けた笑みを浮かべて言った嘘っぱちだ。
でも、あなたが卒業してからはあまりうまくいってないです、なんて口が裂けても言えなかった。言えるはずもなかった。
実のところ今回の定期公演に向けた僕の脚本の製作も遅れ気味だった。物語のイメージが全く湧かなくなっていたんだ。
去年までは僕の書いた脚本に丁度合った役を団員に演じてもらっていたけれど、今の団員達に役を振るとそれだけで「あいつより自分の方があの役に合っている」だの「セリフ量に差がありすぎるから役を変えて欲しい」だのと争いが起きてしまうからだ。
風呂に入っていたり眠る前にぼーっとしているといいアイデアが浮かんでくること自体はある。しかし物語を紡いでもそれを動かしてくれる人がいない。
誰かの顔色を伺ってストーリーを書くということは思っていた以上に煩わしく、僕のモチベーションや行動力をじわじわと奪っていった。締め切りと、書かなくてはならないという重圧が、さらに僕を苦しめていた。
「そっか、順調そうでよかった。私『スバル』のいろんな所に手を出しすぎたと思ってたから」
ほっとしたような顔をする先輩を見て、僕の胸中は嘘をついた罪悪感でいっぱいになった。
僕がこの年末に一人になりたかった理由には、脚本のことを忘れたかったという思いもあったのに、まさかこんな形で思い出すことになるとは。
なんとか話題を逸らそうと、先輩のことばに愛想笑いを浮かべて相槌を打ちながら思案を巡らせた僕は、さりげなく飲み物を取ってくるついでにテレビの電源を入れた。
ちょうど年末の特番に混じって深海の生き物を扱った教育番組をやっていた。
思惑が悟られないようあまり興味なさげな顔でテレビを一瞥しておく。番組はヘンテコな生き物とその生態を紹介していた。
この人は宇宙とか深海とか、そういう未知の存在や未開の地の類に興味を惹かれやすいことを僕は知っている。
この番組は先輩の興味を惹くのにはうってつけだった。
横目で先輩を見ると案の定、食い入るようにしてテレビを見ていた。
どうか先輩がこれ以上スバルの話を持ち出しませんように。
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