第5話 天国から地獄へ?

 ふと何かの気配を感じ暗闇に目を向けると、背筋が凍るような化け物の姿が浮かび上がった。

 恐ろしさのあまり体は動かず、助けを呼ぶこともできない。

 怪物は鬼のような形相で睨み付け、僕の左足を踏みつぶす。

 激痛が走り、声にならない悲鳴をあげた僕は──夢から覚めた。

 空が白みかけたばかりの薄暗い中、ふん、と鼻を鳴らして立ち去るブラウニーの姿が、おぼろげに見えた。

 

 この世界にきて、はや7日目。

 もうロゼットと寝るのにも慣れてきて、我知らず彼女に足を絡ませている時がある。

 そんな朝は、彼女に恋慕する青年が、優しく起こしてくれるのだ。

 僕の足を思い切り蹴飛ばしてね。

 ロゼットと僕の顔が触れてた時は、容赦なく首を捻られ、マジで寝首を掻かれたかと思ったよ。

 おかげでその日は筋が痛くて首が回らなかった。

 まだ起きるには早いので、仰向けのまま天を眺め、これまでのことを思い返した。

 

 3日目からは、体調がほぼ回復し、散策や食料の調達、水浴もできるようになった。

 赤い実だけではさすがに体がもたないので、芋みたいな野菜を主食にしている。

 味はともかく、腹持ちがいい。

 暇を見つけては子供たちがやってくるので、僕は気が休まる時がないほどだ。

 それでも蔑ろにせず、できる限り彼らの相手をしたので、今では僕に信頼を寄せてくれている。

 もしかしたら僕って、保父さんや子供番組のお兄さんに、向いてるんじゃないか?

 自分の隠れた才能に気づいてちょっと自惚れるも、この世界では大して役に立ちそうにない。

 っていうか、もし転生で与えられた能力が、コレだったら神様あんまりだ!

 どうせならチートな能力、みんなを敵から守れるような、凄い魔法とかなら良かったのに。

 元の世界から1つだけ持ってきた文明の利器がある。

 それはズボンのポケットに入っていたスマホ。

 もともと引きこもっていて必要なかったので持っていなかったんだけど、イースター島へ旅することが決まってから、親父が買い与えてくれたものだ。

 はじめから親父は途中下車するつもりだったらしく、一人になった僕が少しでも困らないようにと、最新式でかなりハイスペックなものを選んでくれた。

 耐衝撃性能抜群で、ミノタウロスに襲われても壊れなかったし、ソーラー機能で充電もできる。

 ネットや通話はできないけど、それ以外の機能はほぼ使えた。

 元の世界に戻った時に、親父と唯一連絡をとれる大切なものなので隠しておきたかったのだけど、愛娘の成長を記録したいという誘惑に勝てなかった。

 夢中でココアの写真を撮り続けていたら、当然みんなにもバレて撮らされることになったのだが、メモリは十分にあるので問題はない。

 ココアへの愛情は、日を追うごとに深くなり、それに応じて憂いも増した。

 いずれ魔族が僕を迎えに来る。

 本来なら己の身を憂慮すべきなのかもしれないけど、それよりも愛娘との別れが、彼女の行く末が心配でしかたないのだ。

 この過酷な世界で、幼い女の子が無事に生きながらえるのは、極めて困難にちがいない。

 ここ数日の早朝──ブラウニーに叩き起こされた後──なにか彼女を守る手だてはないかと考えを巡らせていた。

 そして、みんなも魔族の元で暮らすことが、最善だという結論に至った。

 人族が敵に襲われることもないし、愛娘とも別れずにすむので、まさに一石二鳥である。

 だが実際には魔族の住処が人族に適しているかわからないし、魔族ヤツらが僕の願いを聞き入れてくれるとは限らない。

 現地の確認をして、魔族に取り入る必要がある。

 

 ロゼットとココアは、いつも夕方の食料調達を終えると、他の子たちと一緒に湖で水浴をする。

 きゃっきゃっとはしゃぐ子供たちを眺めていると、ジェノワーズさんがやってきて、僕の隣に腰かけた。

 族長は微笑ましげに天使たちを愛でながら、

 

「お礼を言わせてほしい。あんなに子供たちが明るくなったのは、君のおかげだ。俺たち親は、みんな心から喜んでいる。本当にありがとう」

「いえ。少しでもお役に立てたのなら幸いです。僕の方こそ、皆さんの世話になって、特にロゼットは献身的に尽くしてくれたので、感謝しています」

「それをロゼットが聞いたら、すごく喜ぶと思うよ。彼女にとって君は特別な存在、救世主なのだから」

「救世主!? この僕が?」

 

 突拍子もないことを言われ、思わず素っ頓狂な声で聞き返した。

 

「およそ10年ほど前から、後天的に魔力を獲得した獰猛な種族が、この世界を蹂躙し始めたんだよ。当然人族の村も次々と襲われ、状況は悪化の一途をたどった。追い詰められた我々は、危険を承知で魔族の領地に足を踏み入れたんだ。誰もが大切な我が子を守りたい一心で生き延びてきたけど、身も心も限界に達していた。そんな絶望的な状況の中、突如として百合君が現われ事態は一変したんだ。ロゼットが君に希望を見いだしたとしても、不思議ではないだろ」

「そんな……僕は何もしてないですし、何もできません。特別な能力があるわけでもないし、体力だって誰よりも劣る、なんの取り柄もないつまらない存在です。敵に襲われたら誰よりも真っ先に殺されるのは、自分だと自覚しています」

 

 僕は、とんでもないとばかりに、大きく手を振り否定した。

 

「そんなに謙遜しなくても、我々からすれば、君はとても知的で魅力のある青年だよ。それに魔族が人族を救うなんてあり得ないのに、瀕死の君を助けたじゃないか。それだけでも君が特別な存在だとわかる」

 

 あなたたちと比べたら、文明社会で育ったから知的なのかもしれないけど、それだけで期待されても困る。

 魔族が僕を助けたのだって、異世界からきた超激レア物だからという姫様の単なる好奇心によるもので、みんなを救えるような優れた存在ではないのだ。

 

「買い被りすぎです。そりゃあ、どんなことがあっても、ココアを守るつもりではいますけどね」

「もう君は、いっぱしの父親だな。出逢って間もないのに、君にそこまで想われて、あの子は幸せ者だよ。本当にありがとう」

「そんな。救われたのは僕の方なんです。僕は物心ついた頃から他人に拒絶され、辛い人生を送ってきました。それなのに僕を慕ってきたココアを、拒絶し傷つけてしまったのです。事の重大さに気づいた僕は、罪悪感と彼女を失いたくない一心で、ありったけの愛情を注いできました。いきなり知らない世界に放り込まれて怪物に殺されかけた僕は、もしココアがいなかったら不安で押しつぶされていたでしょう。ココアよりもずっと僕の方が彼女を必要とし、縋りついているんです。情けない話ですけど」

 

 そこに水浴びを終えた姉妹がやってきて、幼い天使が嬉しそうに赤い実を一粒差し出してきた。

 

「はい、とーたん。おみやげ」

 

 僕はふにゃりと相好を崩し、その小さな指ごとパクリとくわえた。

 

「う~ん、おいち~。ほっぺた落ちそうだよ~」

 

 愛娘を専用の特等席──僕の膝の上に座らせる。

 

「君はたしか、テッペキとかいったっけ? 他人が触れたものは食べられないって聞いたけど?」

「潔癖です。そうなんですけど、これは相手に対する気持ちの問題というか……つまりココアへの愛情が、潔癖をはるかに凌駕しているんです。っていうか、失礼なこと言わないでください。ココアは汚くないですから。それにココアがくれたものは美味しさ百万倍。ココア最高、マジ天使! ココア、だ~い好き」

 

 僕は愛娘をぎゅっと抱きしめ頬ずりする。

 

「ココアも、とーたん、だいすきー」

 

 彼女は嬉しそうに返してくれた。

 親バカの娘自慢を聞かされ、呆れ顔で見ていたジェノワーズさんは、

 

「ロゼット、それをオレにも一つくれないか」

 

 受け取った赤い実を、そのまま僕の方に突き出し、

 

「はい。あ~ん」

「結構です。せっかく浄化された口の中が、穢れちゃいます。それに僕を餌付けできるのは、ココアだけですから」

 

 僕は眉をひそめて、ぴしゃりと撥ねつけた。

 

「そんな素気無く断らなくても……こっちは君のこと信頼してるのに、俺だって傷つくんだよ。しくしく」

 

 地面になにかを描きながら、いじける族長。

 

「同情なんてしませんよ。わざとやって僕を揶揄っているんでしょ」

「あ、バレた? 目の前であてつけられたから、ちょっと意地悪したくなったんだよね」

 

 そう言えばジェノワーズさんも、姉妹を実子のように可愛がっていたんだよな。

 僕に娘を取られた気がして、少し寂しくなったのかもしれない。

 なんか悪い事したな。

 ロゼットが、赤い実を一粒つまんだまま、なにか言いたげに僕を見ている?

 髪の毛で目が隠れているから、よく分からないけど。

 

「ん? なに?」

「えっと……その……」

 

 彼女は行き場を失った粒を、ぽいっと自分の口に放り込んで、

 

「ほんと、これ美味しいですね」

 

 どこかぎこちなく微笑んだ。

 いつも食べているのに……。

 

「もしかして僕に食べさせようとしたの?」

「えっ? いや、その……」

 

 顔を赤く染めて、動揺した様子のロゼット。

 どうやら図星だったらしいな。

 素直な子だから、分かりやすい。

 だけど彼女も僕を揶揄おうとしたのだろうか?

 それとも僕がどう思っているか確かめようとした?

 すると族長が僕の視界を遮るように眼前に来て、

 

「んじゃ、これはココアにあげるな。はい、あ~ん」

 

 と、赤い実を差し出した。

 僕は慌てて彼の手を押し返し、

 

「止めてください。ココアを餌付けるのは」

「ココアはへッピキじゃないんだから、構わないだろ」

「潔癖です。純真無垢な僕の天使を、穢させはしませんよ」

「はぁ? さっきから俺を何だと思ってんだ。幼女の指を舐め回す変態野郎のくせに」

「それは娘への愛情表現です。っていうか、加えただけで舐め回してませんから!」

 

 お互いムキになって言い合っていると、

 

「どうやら全快したようじゃな」

 

 聞き覚えのある女の子の可愛らしい声に、空気が凍り付いた。

 いずれこの時がくるのは覚悟していたけど、それでも一瞬心臓が止まりそうになる。

 おずおずと振り向けば、声の主である姫様とキャンディというオレンジ色の髪をした魔人が立っていた。

 

「待たせたの。迎えに来たぞ」

「わかりました。でも、みんなの安全を保障してくれなければ、僕は一緒に行きません」

 

 ココアを膝の上から降ろした僕は、立ち上がって魔族と相対した。

 

「妾は約束を違えたりはせぬ。もし人族に危害を加えるつもりなら、フラムを連れてきておるわ。妾もキャンディも戦闘力は皆無じゃからの。さぁ、行くぞ。こっちに来るのじゃ」

 

 そんなこと告白していいの?

 それって彼女たちは、普通のか弱い女の子ってことだよね。

 今なら姫様を人質にできるのではないかと、両掌を前にして捕える構えで近づくも、姿を消すことができる相手では不可能だと寸前で気づく。

 うおおおおおおおぉ!

 めっちゃヤバかったああああああぁ!

 敵と見なせば人族でも殺める奴らなのだ。

 僕の軽率な行動で、ココアを危険にさらすところだった。

 慎重な対応を心掛け、魔族の機嫌を損なわぬよう、最大限の配慮をせねばならない。

 ぜえぜえと喘ぎ頭を抱え猛省する僕を、姫様が訝しげな目で、

 

「なにをしておる?」

「いえ。あの、少しだけ待ってください。みんなにお別れの挨拶をしたいので」

「時間はないのじゃ。とっとと済ませてこい」

「ありがとうございます」

 

 僕は深く一礼して、急いでみんなのところへ向かおうとすると、ココアが足に縋りついてきた。

 

「とーたん。どこか行っちゃうの? やだ! 行っちゃ、やだ!」

「ちょっと行ってくるだけだよ。必ず戻ってくるから、いい子でお留守番していてね」

 

 優しく諭すも、激しく泣き叫び駄々をこねる愛娘を、宥められない。

 早くしろと言わんばかりに、不快そうな表情で魔族が睨んでいる。

 やむを得ず無理矢理ココアを引きはがして、ロゼットに預けた。

 みんなのところへ駆け寄ると、今度は子供たちが泣きついてきて、大人たちは心配げな表情を浮かべた。

 彼らの不安を払拭しようと、僕は満面の笑みで、

 

「必ず戻ってきます。皆さんが魔族のもとで安心して暮らせるように手配しますので、それまでココアをよろしくお願いします」

 

 僕の企てを魔族に聞かれるとマズイので、小声で手短に伝えた。

 するとゼストさんが歩み寄り、いきなり僕にヘッドロック。

 またですか!?

 

「ったりめーだ。姉妹は俺たちの家族なんだからな。つーか、ココアを不幸にしたらどうなるか、覚えているよな。あんなに泣かせやがって。そんなにウ〇コの腸詰めを、口にぶち込められたいのか」

「そんなもの、まだあるんですか?」

「食わされたくなかったら、一刻も早く迎えにこい。むろん無事でだ。でなきゃ、ココアが悲しむだろ。これ以上、辛い思いをさせるんじゃねぇぞ」

「そうだぞ、兄弟。もうお前は俺たちの家族なんだからな」「必ず無事で戻ってきてね」

 

 ゼストさんに続いて、他の大人たちも次々と声を掛けて僕を気遣ってくれた。

 ヘッドロックを解除したゼストさんは、僕の背中を軽く押して送り出す。

 ロゼットは蒼白になり、狂ったように暴れる妹を必死に抱きかかえ、どうしたらいいかわからないといった表情を浮かべている。

 僕は彼女をココアごと抱擁し、

 

「必ず戻ってくる。詳しくはゼストさんに聞いて」

 

 と耳元で囁いた。

 愛娘の慟哭に、父親を求める叫びに、僕は胸が抉られる思いになって、強い決意が揺るぐ。

 突き放すように姉妹から離れ、族長に目礼すると、逃げるように魔族の元へ駆け寄った。

 キャンディの差し出した手を取った瞬間、目の前が強烈な光に包まれ真っ白になる。

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