第二話 青天の霹靂

 突然秀英が、彼の右隣に座っているカルロスに掴みかかった。いつの間にシートベルトを外していたのだろう。

「えっ!」

 大切な取引相手に突然襲いかかった部下を見て、クリスは思わず声をあげる。

 カルロスも当然彼を引き離そうと抵抗したが、秀英は巧みな早技で、カルロスの足首の裾を捲って何かを取り出した。


「なんです? これは」

 秀英は取り出した拳銃を握り締め、カルロスを睨む。そしてコックピットに目を向けた。

「おかしいと思ったんだ。上はラフなシャツなのに、下は足首まで隠れる暑苦しいズボンだから」

「やだなあ。この国では護身のために皆持ち歩いてますよ」

 カルロスは苦笑いをしながら秀英を宥める。しかし秀英は拳銃を構え、銃口を正面に向けた。

 その照準は右の機長席に向けているようだ。間髪いれずカルロスが秀英の右手に掴みかかり、銃を奪い返そうとする。

 すると、岩のように沈黙を保っていた機長が低く呟いた。


「もういい、やれ」


 どこか聞いたことのある訛りの英語だ、と感じた。機長は隣の副操縦士に向かって言っていたらしく、その途端に副操縦士が体ごと振り向いた。その手にはやはり、拳銃が握られていた。


「秀英、これは……」


 クリスは呟いたが、声になっていたかどうか分からない。自分と秀英の身を守らなくてはいけないと分かっていても、体が動かなかった。


「貴方のことは守ります」


 秀英がそう言った次の瞬間、パンパン、と大きな破裂音が二度、ヘリの轟音をかき消すように貫いた。同時に金属が壊れるような音もした。クリスは身を縮めて思わず目を閉じていた。

 一発はコックピットの計器類に当たったらしく、機械の警告音が鳴り響く。

 秀英はクリスを庇うように、彼女を背にしてコックピットの者達と向き合っていた。

 恐る恐るその向こうを覗くと、カルロスがぐったりとしていた。その胸から血が激しく溢れ出す。カルロスは拳銃を二丁持っていたのか、右手から、いつの間にか手にしていた拳銃がゆっくりと離れて落ちる。

 幸い秀英に怪我はない様子だ。彼は再びコックピットへ向けて照準を定めようとする。

 マフィアに狙われてきたクリスが、修羅場に直面したのはこれが初めてではない。ようやく置かれている状況を理解した。多分、彼らは自分達を狙うアジャルクシャンあたりのマフィアなのだ。秀英はそれに気付いたからアジャルクシャンのマフィアの話をしてカマをかけた。

 少なくとも機長と副操縦士がグルだ。きっとカルロスも何らかの関わりがある。


 考える隙もなく、今度は機体が大きく揺れた。秀英が右側の機長席に向かって続け様に二発発砲したが、突然の揺れのせいか狙いを外し、前方のガラスに命中した。


 機体が大きく左旋回したため、キャビンに座っているクリスも秀英も右側へ押しやられた。

 この状況を脱するために動かなくては、と思い、カルロスが落とした二丁目の拳銃を拾おうと手を伸ばす。しかし、重圧がかかるせいで手がそこへ届かない。


「グスタボ、何のつもりだ」

「奴は内通者です」


 ヘッドセットを通じて操縦士達の会話が聞こえてくる。

 機体は前後左右、上下に大きく揺れ始め、身動きの自由が効かなくなった。どうやら自分達を撹乱するため、あえて急旋回や急降下を繰り返し、荒っぽい操縦をしているのだ。


「クリスさん、逃げて! あいつはルーベンノファミリーです!」


 秀英が叫びながら、クリスのシートベルトのバックルに手を掛ける。逃げろと言われてもヘリの機内のどこに逃げ場があるというのか。クリスは思ったが、少なくとも今が自分の命に関わる危機的な事態だということは分かっている。

 秀英の視線の先を見ると、左側のハッチに”緊急脱出用”と書かれたオレンジ色のレバーが見えた。


「ふざけるなよ」

「まさか」

「裏切り者はどっちだ」


 何やら揉めているような会話が入ってくるが、耳を傾ける余裕はない。

 上下左右に揺られる中、何とかレバーにしがみ付き、矢印の方向へ引いた。そのままハッチを開けると、轟音と共に風が吹き込んでくる。


 シートベルトのバックルは既に秀英が外していた。そのため、ヘリコプターが右旋回すると同時にクリスの体は否応なしに左へ押し出され、空いたハッチから空中へ投げ出されたのだった。


「グスタボ、お前!」


 投げ出される直前、怒気を含んだ声と共に、機長が隣の副操縦士に掴みかかるのが見えた気がした。


 機体の揺れで、もはや方向感覚はおかしくなっていた。クリスは無防備な状態で上も下もわからないまま、重力と慣性力のなすがままだった。自分を支えるものが何もない恐怖は、まるで永遠のように感じられた。

 クリスの体は、雲ひとつない晴天と丸い大海原の狭間に、吸い込まれていった。





 どれくらいの間だろう。眩しい太陽の下、彼女は横たわっていた。オリーブ色の長い髪は濡れて乱雑に広がり、衣服からは水が滴っていた。温かい砂浜を背中に感じ、寄せては返す波の音を延々と聞いていた。


 まだ信じられない。最も頼りになるはずだった秀英が、もうこの世にいないかもしれないなどと。

 彼はいつも、誰よりもクリスを気遣っていた。そして最後まで守ろうとした。


 だけど、本当は私が守るべきだったのに……!


 社員を守るのが社長の役目だ。いつも自分にそう言い聞かせていた。それなのに、なんて無力なのだろう。男達が拳銃を構えているのを見て何もできず、秀英に促されるまま外へ出た。


 時間が経つにつれて徐々に冷静さを取り戻したクリスは、落ち込んで呆然としている場合ではないと気付く。

 まずは今の状況を把握することにした。体を起こし、ゆっくりと立ち上がって海を見る。どこかぶつけたせいか、あるいは無理な動きをしたせいか、肋骨や背中が痛い。だが飛行中のヘリから振り落とされたのに大した怪我をしなかったのは、きっと荒い操縦で撹乱されている間に機体の高度がかなり下がっていたからだろう。

 白い砂浜に打ち寄せる波が足元を濡らした。ヘリは完全に沈んでしまったらしく、機体は影も形もない。海上に人の姿を探すが、透明なスカイブルーの海がただ広がるだけだ。


 どうやって助けを呼ぶかが問題だ。ふと思い出せば、持っていた荷物は全てヘリの中に置いたままである。ポケットの中を探ってみるが、携帯電話も吹っ飛んで行ったのだろう、何もない。着ているものと言えば、ベストに青のタンクトップ、そしてジーンズ。それが全てだった。


 果たしてこの島は無人島なのだろうか。海岸線は湾になっていて、五百メートルほどが見渡せるが、人工物らしきものはない。大海原に浮かぶ小さな島であることを考えると、人がいる可能性は限りなく低い。それでも僅かな望みをかけて、人の痕跡を探すことにする。

 クリスは浜辺に背を向けた。白い砂地の奥には赤茶色の岩が連なるのが見える。更に奥には、緑の木々が茂っていた。島の大きさを知りたいので、真っ直ぐ対岸を目指そうと中へ分け入っていく。

 歩くのが困難なほど鬱蒼としてはいなかった。草は少なく、地面には錆びたような色の土が剥き出しになっている。木々のほとんどはクリスの身長くらいでまばらだ。所々に背の高い木も生えている。

 島の中央は小高い丘になっており、奥へ進むほど足元の傾斜が急になっていた。そして木々の密度も高くなった。

 暑い中を歩いたせいで、汗が額から流れ落ちる。緊張もあって喉はカラカラだ。


 二十分ほど歩いただろうか。林が開けたところに小さな窪地があり、その中央に透明な水が溜まっていた。クリスはその池の前へ歩み寄ると膝を突き、両手で水をすくって口に含んだ。—真水だ。

 流れ込む川も流れ出す川もないから、雨水が溜まったのだろうか。水で喉を潤せたことにひとまず安堵した。


 更に少し歩くと丘の頂上を超えたらしく、下り坂に変わった。やがて木々の間から対岸の海が見えた。これまでのところ全く人が住んでいる様子はなく、人工物の痕跡もない。クリスは僅かな望みに賭けて岸へ近づいた。対岸もまた湾になっていたが、最初に流れ着いた砂浜とは違って岩礁が多く見受けられる。


「家だ!」

 海沿いの岩礁の上に、家影のようなものを見つけたクリスは思わず舞い上がった。それは家というよりも小屋と呼ぶのが相応しい、小さな木造の建物だったが、それでも人がいる可能性が生まれたことに心から安堵する。

 喜んで近寄ろうとした矢先、すぐにクリスは足を止め、草の陰に屈んだ。小屋の側に人影が見えたのだ。地元住民であることを願ったが、風貌を見る限りそうではないようだ。

 その男はたった今海から上がったかのように、全身が濡れていた。クリーム色のような金髪で三十代くらい。その手には拳銃がある。

 ヘリの操縦士達が着ていたのと同じ飛行服を着ているから、コックピットにいた二人のうちどちらかだろう。ヘリでは二人とも帽子とサングラスをしていたから、どんな顔だったかは覚えていない。

 目の前にいる男は帽子とサングラスは無いが、体格からして、右側で操縦していたあの機長らしいことが窺えた。墜落にもかかわらず生きていたのだ。


 男は拳銃を両手で下に構えて周囲を警戒していた。いつ動いたのか分からないほど静かにスムーズに、気づけば小屋の扉の前へ移動していた。ゆっくりと取手を回したかと思うと、目にも止まらぬ速さで扉を開けて小屋に足を踏み入れ、拳銃を構えた。

 小屋の中からは何の反応もなかった。クリスのいる場所から見る限り、中は殺風景で人影はない。男は人がいないことを確認したのか、構えた腕を降ろし小屋から出た。一連の動作は無駄がなく滑らかで、単なるヘリのパイロットでないことは明らかだった。


 不意に男が林の方を見た。獲物を狩る鷹のような目だ。心臓が凍りつく。—見られた?

 クリスは地面に伏せて草陰に身を隠していた。金髪の男は目を凝らして獲物を探すように、視線を左右にぐるりと一周させた。今少しでも動けば確実に視界に捉えられる。探しているのは自分だ。そして、見つかれば確実に殺される。クリスと秀英を狙ってきたマフィアに違いないのだから。

 右手に銃を手にした男は、クリスのいる方へ向かって足を進めた。心臓が激しく鳴り出した。

 —見つかったのだろうか。いや、まだだ。

 彼は慎重に周囲を警戒しながらゆっくりと足を進めている。しかし、その足は確実にクリスがいる方向へ向いている。このまま進んでくれば鉢合わせになる。だが、動けばなおさら視界に捉えられてしまう。


 どこか遠くから微かに響いた、パキリ、と木の割れる音に、男が一瞬注意を取られ後ろを向いた。

 その隙にクリスは藪の中に体を捻り込んだ。背の低い木が、地上を覆うように丸く葉を付けている。上手く入り込み、体を丸めた。腕や顔が葉に当たってチクチク痛いが我慢する。

 男は気付かず草藪の横を通り過ぎて行った。ホッと胸を撫で下ろす。クリスの小柄な体型と、オリーブ色の髪色が幸いした。こんな状況を意図してこの色にしたのでは全くなかったが、思いがけず擬態の効果を発揮したらしい。


 通り過ぎるとき、初めて男の横顔がはっきりと見えた。見覚えのある顔立ちに、見覚えのある頬の刺青。

 再び恐怖に凍り付く。—知っている。あの男を知っている。散々自分達を苦しめ、恐怖に突き落としてきたルーベンノファミリー—その中でもボスに次ぐ実力者、通称ノアと呼ばれている男だ。

 そう、あんな風にスラブ訛りの低い声で言う。


「どんな死に方がいい? 死にたくない? 大丈夫だ、すぐに死にたくなる」


 嫌な記憶を思い出し、クリスは身震いした。

 なぜ秀英がそれに気付けたのか分からない。だが彼が正しかった。襲撃者はルーベンノファミリーだったのだ。副操縦士も、カルロスもその仲間だ。最初から計られていた。


 そういえば、秀英はどうしてあのとき……。


 分からないことばかりだ。頭にモヤがかかった感じがして気持ちが悪い。だが、冷静に考えを整理する余裕はなかった。

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