第一話 地中海の波間

 オフィスでは今日も人々が忙しなく、時にリラックスしてコーヒー片手に談笑しながら毎日の仕事に勤しんでいた。それなりに良い待遇を受け、気のおけない同僚に恵まれた社員達の表情は明るい。—たった今、強張った面持ちで会議室から出てきた彼女を除いては。

 数年で急速に事業を拡大し好調な業績を誇るBEC社で、一番苦労を抱えているのは、間違いなく創業者でありCEOの彼女だろう。会社は大きくなったものの、彼女自身はまだ若かった。

 オリーブ色に染めた髪を束ね、華奢な体に慣れないジャケットを羽織った彼女—クリスは、宙を睨むように俯き、廊下に佇んだ。クリスと名乗っているが、日本人である。覚えてもらいやすいように欧米風の名前を名乗ることは、国際社会ではそう珍しいことではない。


 いまや複数の国を股にかけるBEC社の事業は、インフラ設備や不動産開発を主軸にしつつ、多岐にわたる。中でもここ、東ヨーロッパに位置するアジャルクシャン連邦共和国での事業は収益の大きな割合を占めていた。

 しかし先日、BEC社がタックスヘイブンを利用して租税回避を行っていると、アジャルクシャン国内のマスコミに非難された。そして追い討ちをかけるように、連邦の国税局長から暗に納税を催促されたところである。

 租税回避は違法ではないが、意図的に納税を避けているのだから、その国の当局に悪印象を与えることは間違いない。


「クリス、あまりアジャルクシャン当局の機嫌を損ねない方がいい。さもなければ、政府は法改正で無理にでも税を支払わせようとしてくる。アジャルクシャンの市場は我々にとって大きい」


 そう声をかけたのは、眼鏡をかけ髭を生やした中年の男、ラクシュミーだ。クリスよりも一回りほど上だが、副社長としてクリスの右腕を担う。


「納税するくらいなら別の公共事業に投資した方がマシだ。この国の役人は税金を私腹に入れるだけだ。民のためになんか使わない!」


 思わず本音を漏らした彼女を、ラクシュミーは焦って周囲を見渡し、厳しい口調で制した。

「クリス! 言葉に気を付けろと何度言ったら分かるんだ。たとえ社内でも君の発言はリークされるんだぞ!」


 クリスは言わんとすることに気付いて、萎縮しながら小さく頷いた。社内だからといって、どこに耳があるか分からない。不用意な発言がメディアにリークされることもある。


「それと、我が社のインフラ部門がサルシア共和国に賄賂を渡していた件だが、今回は君が記者会見で謝罪すべきだ。公の場に出るのが嫌なのは知ってるが、これがトップとしての責任だ。いつまでも私が代わりに表に出るんじゃ、株主も世間も納得しない」

「はい、分かりました……」


 ラクシュミーは険しい表情を少しも崩さず、終始厳しい口調で伝えるべき用件を伝え終わるとどこかへ消えて行った。

 クリスには才があり、先見の明もあったが、急成長した会社を統治するには経験が追いついていなかった。経験は副社長のラクシュミーの方が圧倒的に上で、いつも彼に助言を仰いでいた。それどころか、対外的な交渉も、従業員をまとめることも、彼でなければできない。力不足を痛感していた。


 誰もいない執務室の扉を閉めると、ようやく疲労を顔に出すことが許される。クリスは崩れ落ちるように椅子に腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。事業は好調で、余るほどの富に恵まれている。しかし日常は、華やかな生活とはかけ離れていた。

 いくら経験不足でも、彼女こそが最高経営責任者であり、会社で起きたことの責任は最終的に自身が負う。


 —運輸部門のドライバー達が待遇改善を訴えて大規模なストを起こしています!

 —就業中に事故に遭った社員の家族が、BEC社への訴訟に踏み切りました!

 —BEC傘下の企業で、幹部によるセクハラ疑惑!


 これまでにどれほど非難されてきただろう。『Make it a better place(より良い世界にしよう)』という理念を掲げてやってきたが、現実はその理想から程遠い。

 特に風当たりが強かったのは、紛争地域で社員宿舎がゲリラの襲撃に巻き込まれ、社員に死者が出た時だ。


 —息子はあんたの身代わりに死んだんだよ! ギャングに屈しないって言う、あんたの会社の馬鹿げたポリシーのせいで!


 クリスは遺族の元へ足を運び、正座して地面に頭を付けるという、日本式の最大級の謝罪を行った。それでも唾や罵声を浴びせられ、その様子はメディアにも報道された。

 そう、彼女の仕事は華やかでも格好良くもない。



 執務室のドアをノックする音が聞こえ、見慣れた男が顔を覗かせた。長身で端正なアジア系の顔立ちに、短く整えられた黒髪から清潔感が漂う。事業開発室長の劉秀英リュウシュウインだ。

 秀英はいつものように屈託のない笑みを浮かべ、カップに入ったコーヒーを差し出す。

「はい。暗ーい顔してどうしたんですか? ハハッ、またラクシュミーに小言を言われたんですね」


 クリスと正反対の明るい空気を醸し出す彼は、冗談ぽくありきたりの台詞を言った。


「良いニュースと悪いニュースがありますが、どちらを先に聞きたいですか?」

「これ以上悪いニュースを持って来ないでくれ」

「じゃあ良いニュースから」


 口を挟む気力はなく、彼が一方的に話すのを聞いた。


「リゾートアイランド買収の件ですが、アデンアンドアゾフ社から良い返事が来ました。視察はいつでも歓迎だと」

「それは良かった。今月には出発したい。アデンアンドアゾフのカルロスにそう伝えてくれるか?」

「はい」


 秀英が進めていた北アフリカでの事業開拓は好調らしく、クリスはほっと胸を撫で下ろした。


「悪いニュースですが、僕は視察の後に三日ほど休暇を取ります」


 そういえば、そろそろ本格的に夏が訪れる。従業員達も皆休暇の予定を立て始め、社屋が閑散とし始める頃だ。クリスは首を傾げた。


「それのどこが悪いニュースなんだ? たった三日の休暇だろ」

「三日も僕が会社にいません」

 秀英は大袈裟に残念そうに首を振る。

「別に困らない」

「いいえ。その間に貴方がラクシュミーから説教されたり、マスコミから無能な社長だとか、税金逃れをする卑怯な社長だとか酷い記事を書かれたりしても、貴方の支えになれる人がいないということなんです」


 全てはここ最近、実際にあったことだ。なぜ嫌なことを思い出させるのか、とクリスは口元を尖らせる。


「ですから、貴方も休暇をとって視察先のリゾートアイランドで過ごしましょう」

「なぜ? いや、というかそんな暇はない」

「一観光客として体験するのも、顧客の心を理解するには大切なことですよ。買収予定地での休暇なら、きっとカルロスも喜びますよ」


 彼の言うことも一理ないわけではない。


「時間が余れば考えとく」

「よし! 早速秘書のジェシカに言って、貴方の休暇を調整してもらってきますね。楽しみですね。ビーチにスパに、美味しい地中海料理……」


 結局勢いに押し切られてしまったクリスは、浮かれる彼の背中を見送った。

 分かっている。休みも取らず働いて、重圧に疲れ果てている自分を気遣ってくれたのだということを。秀英は一年と半年前に入社して以来クリスの側で働いてきたから、疲弊に気付いているのだろう。

 秀英はああして誰にでも分け隔てなく接し、周囲への気配りもできるから誰からも慕われている。成績も優秀だ。一年半の付き合いだが、今やクリスにとって無くてはならない部下になっていた。




 二週間後、クリスは憂鬱の絶えない社屋をほんの少し離れ、地中海へ旅立った。BEC社の拠点があるヨーロッパから離れると、それだけで少し開放的な気分になる。

 それに、アジャルクシャンでは油断できなくても、ここでなら”奴ら”の心配をしなくていい。そう思っていた。


 空港から一歩踏み出した途端、熱く乾いた空気に包まれる。クリスはジーンズにベストを羽織った、とても大企業のCEOには見えないラフな服装で降り立った。その隣に、黒いシャツを着た秀英が付き添う。

 取引相手のカルロスが二人を出迎えてくれた。体格が良く日焼けした、快活な中年の男だった。カラフルな半袖のシャツから、真っ赤に日焼けした腕が覗いている。会うのは初めてだが、テレビ電話越しからでも伝わってくる人当たりの良さは、実際に会ってもそのままだ。


「遥々ようこそ。早速島へ向かいましょう。あのヘリで四十分ほどのフライトです」


 目的地のリゾートは地中海、チュニジアの沿岸に浮かぶ島だ。オリエンタルな異国情緒を味わう暇もなく、首都のチュニス・カルタゴ国際空港からヘリに乗り換える。

 キャビンの右端にカルロス、中央に秀英、左端にクリスの順で腰掛ける。シートベルトとヘッドセットを付けて準備をした。前方のコックピットには、操縦士二人が座っているのが見える。


「お疲れでしょうが、島に着けば美味しいチュニジア料理と地中海料理を山ほど用意してますよ。最高級の部屋も用意してます。ゆっくり休んでください」

「楽しみだなあ! 僕ら視察だけじゃなく、思いっ切りリゾートを満喫するつもりで来ましたから。ねえ、クリスさん?」

「ああ」

「余裕があればぜひシュノーケルやダイビングも。おかげで私は見ての通り、こんなに焼けてしまって。ハハハッ。夜はビーチバーも盛り上がりますよ」

「それじゃ飽きませんね!」



 クリスは窓の外の景色にぼんやりと見入っていた。忙しないオフィスから解放されたせいだろう、心が穏やかになっていく。どこまでも続く水平線。太陽が波間を照らし、穏やかな水面がキラキラと輝く。眼下に広がる絶景に酔いしれていた。



 離陸して数十分経った頃だろうか。クリスはふと、妙に場違いな話題に話が及んだことに気が付いた。


「地中海を経由して、アフリカとヨーロッパを結ぶルートを持てば、ヨーロッパのマフィアにとってはさぞ便利だと思いませんか?」

 右隣の秀英が言う。カルロスに向かって話しているようだ。

「はあ」

 カルロスは困惑した様子で首を傾げる。


「アジャルクシャンのマフィアがそのルートを築こうと目論んでいると聞きました。せっかく僕らが北アフリカに事業を広めようとしてるのに、ここへ来てまでマフィアに邪魔されちゃ堪ったもんじゃないんですよ」

「おい秀英、そんな話止めろ。彼らには関係ないだろ」


 クリスは小声で彼を小突いた。それは内輪の話だ。確かにBEC社はこれまで、アジャルクシャン連邦に蔓延るマフィアと対立してきた。

 アジャルクシャン連邦共和国は汚職と貧困により、昔から闇組織が市場を支配している。あの国で経済活動を行えば、マフィアとの接触は避けられないのだ。しかしクリスはみかじめ料の支払いを拒否し、その上取引から彼らを徹底的に排除した。だから何度か襲撃も受けた。

 だが、それはBEC社の問題だ。外部に話す必要はない。アデンアンドアゾフ社が反社会勢力と無関係なのは、社のセキュリティチームが確認済みだ。

 しかし秀英は、口を出さなくていいと言わんばかりに手でクリスを遮った。何か意図があるとでもいうのだろうか。


「機長さん、良いヘリですね。カモフですか。いつの間にチュニジアにまで拠点を作ったんです?」

「どうも。うちの会社はここで何十年も商売やってますよ」


 機長の代わりに副機長が、朗らかに何の変哲もない返答をする。微妙に噛み合わない会話が奇妙に聞こえる。

 自分以外の皆はこの会話の意図を理解しているのだろうかと、クリスは目の前にいる人々の顔を交互に見やった。カルロスは困惑した様子だが、先ほどまでにはなかった緊張の色がはっきりと見て取れる。前方右側に座っている機長は正面を見つめたまま、地蔵のように無言でいる。同じく左側の副機長は、振り向いて一瞬後列に目をやった。

 いつも穏やかな秀英の目は、やけに鋭くコックピットを睨んでいる。

 空気がおかしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る