第二章 ままならない心

一、 父の誕生日

 十一月六日金曜日の今日、僕らは放課後に一棟の裏に集まることになっていた。理由は一つ、広瀬さんと河原さんに「クロウ」のことを話すこと。女子生徒の飛び降り自殺未遂の際、二人に「クロウ」イコール僕、高宮悠一だとばれてしまったからだ。おかげで昨日はあんまり眠れなかった。保健室では昏々と眠り続けていたというのに。そのせいか、それともまだ疲れが残っているのか、少し眠い。しかしそうも言っていられない。朝河原さんに「放課後に、一棟の裏ね」と言われてしまったからには、行くほかない。

 今は昼休みだ。事の次第をどのように説明しようかを考えていた僕は、とりあえず読みかけの文庫本を広げた。広げはしたが内容は全く頭に入らず、そればかりか転機となった父の四十歳の誕生日のことを思い返していた。


  ◇


 転機になったのは十月二日。あの日はいつも通り、学校に行き、いつも通り帰ってきた。父の帰宅時間ですらいつもと変わらない平々凡々な一日だった。父の誕生日だったことを除いて。

 小さいころは肩たたき券のような子供じみたプレゼントを渡していた。が、今は父の好物の刺身とケーキを食べて、お祝いを言って終えるような、ちょっといいことがある日でしかなかった。母は何かプレゼントしたかもしれないが、少なくとも僕はそんなところは見ていない。

 いつもと違ったのは、ケーキを食べている最中に、父に「食べ終わったら、わたしの部屋に来なさい」と言われたことだった。普段、父の部屋には入らない。しかも父は、母と違って僕に対してあれこれと口を出してくる方ではない。何かを言うときは、よほど大きな何かをやらかしたときだけだ。知らないうちに、重大な何かを犯したかもしれないと、戦々恐々としながら、父の部屋に向かった。

 父の部屋は僕の部屋の真向かいだ。階段を上がり、廊下の突き当り向かって右側の扉をノックする。先に部屋にいた父が僕を招き入れ、ドアに鍵をかけた。よほど重要な話らしい。何を言われるかわからない恐怖から逃れるため、僕は早くも口火を切った。

「それで、何の話?」

「まあまあ、とりあえず座りなさい。とても重要な話ではあるけど、説教ではないから」

父に勧められて、机の横にあるオットマンに座る。父は僕と向かい合うようにキャスター付きの椅子に座った。

 説教ではないと言われ、少し落ち着いた僕は、座って少し、部屋の中を眺める。相変わらず雑然とした部屋だ。机の上には平積みになった書類や本。入り口から向かって左側の壁は壁ごと造りつけの本棚になっているが、文庫本、ハードカバー、新書、雑誌といろいろな種類の本が判型ごとに仕分けされ並べられていた。おそらく順番も決めてあるのだろう。ラックの上にも本が少々。仕事用のカバンに、出かけるときに使うサコッシュが入り口から向かって右奥、机の横のタンスの近くに置いてあった。以前入った時よりさらに本が増えている。本好きは明らかに父の遺伝だと思いつつ、目線を父に戻す。

 フレームレスのスクエア型眼鏡をかけた父は、いつも微笑んでいるように見える糸目をさらに細くしながら話し始めた。

「さて、ここに呼んだのはねえ、悠一。母さんにも聞かれたくない、大事な話をするためなんだ。ここで聞いたことは、そうそう話すべきではないことだ。よっぽどの時は仕方がないかもしれないけれどね。話すのなら、この人なら大丈夫だと思う人にだけ話すんだよ」

前置きが長い。しかし、むやみに話すべきではないことは大いに伝わったため、とりあえず首肯する。すると、父は一回こちらを見てうなずいた後、手元に目をやり、手のひらに載っている銀色の指輪を差し出した。

「これは?」

「説明は後で、先に左手の人差し指につけなさい」

父から指輪を受け取り観察する。ゴツめの銀色の指輪だ。石座(マウント)に彫られているのは右を向いて翼を広げた鳥だ。右目には赤い石がはまっている。気になることはあるが、言われた通りにはめてみる。指輪が大きすぎてぶかぶかするどころではない。下に向けただけですぐに抜けてしまうほど緩い。

「ねえ父さん、これじゃあ…」

僕が指輪から目を離し、父に話しかけようとすると、左手の人差し指が締まった感覚がした。目を向けると、ぶかぶかだったはずの指輪がしっかりはまっている。

「…え」

思わず指輪を抜こうとするが抜けない。むしろ、抜こうとすると皮膚表面が引っ張られて痛い。指輪自体が皮膚にへばりついているようだ。僕の声も焦りで少し大きくなる。

「父さん、ちょっと、これどうなってるの」

見ると、父は口元に些細な、しかしその実しっかりとした笑みを浮かべていた。そして小さな声でつぶやく。

「ふふふ、これで、わたしの役目も終わりか」

「はあ?」

「さてと、説明しようか。まずその指輪は」

こちらのことはお構いなしに話しはじめた。前々からマイペースな人だとは思っていたが、ただ単に人のことを頓着しないだけかもしれない。いや、その方が厄介だ。

「代々、その時代の当主が継いできた指輪だ」

「当主って、そんな家じゃないでしょ。それに、父さんは代替わりするような歳でもないし」

「いや、そういう家系だし、そういう歳なんだよ」

「は?冗談やめてよ父さん」

もはや話が通じる気がしない。うちは二階建ての一軒家を持っているし、父は県の職員、母は専業主婦と貧乏ではないが、お金持ちというほど裕福ではない。それに、銘家でもないし、誰々さんが祖先にいるというものでもない。少なくともそんな話は聞かないし、「早くお嫁さんをもらって跡継ぎを」みたいな話もない。中の上くらいの家庭に、「当主」とか「継ぐ」とか、夢物語もいいところだ。

「それが冗談でもないんだなあ。その指輪が証拠そのものだから」

「証拠、ねえ…」

父の表情は変わらない。元々表情が読みにくい糸目は、いつもの通り愛想のよい微笑を浮かべるだけで、本心は見えない。

 僕は自分の左手にはまった指輪に視線を落とす。ぶかぶかだった指輪がぴったりとはまり、肌に張り付いたように抜けない。普通の指輪ではない。でも、それが何の証拠になるのか。それよりか、これを外す方法が知りたい。指輪がはまっていることによる違和感はないが、こんな指輪が嵌ったまま数日過ごすのはまっぴらごめんだ。

「これをはめられるのは限られた人間だけでね。特定の血筋にいる者のみがはめられる。いわば試金石のような性質を持つのさ。だから、悠一の指にしっかりとはまったということは、その家系の人間ってことさ」

「…」

「ついでに、一回はめるとその人物が満四十歳になるその瞬間まで外れない」

「…え」

それは、つまり、

「僕が四十歳になるまで、ずっとこのまま?」

「うん」

父はこともなげに頷いた。

絶句。だから説明をする前にはめさせたのか、ひどいだまし討ちだ。

「わたしもやっと今日の夕方に外れたよ。でもまあ、後継ぎには早く身に着けてもらいたいものだしね?」

変わらなかった微笑が、いたずらが成功した悪ガキみたいに一瞬妖しく変わったのを僕は見逃さなかった。しかし、父の話では一旦はまったらどうしようもないようだ。辛い。これからどうしよう。学校で騒ぎになったらどうすればいいんだ。

「そんな情けない顔をするものではないよ。その指輪を身に着けられるのは世界でたった一人だ。人によっては喉から手が出るほど欲しい代物だよ」

「『人によっては』でしょ。僕はいらなかったよ」

僕は恨めしそうな顔を父に向けた。

「まあまあ、なにも意味がないものでもないから。その指輪の石座マウントの周囲を時計回りに右手の人差し指でなぞってごらん」

気が進まないが、言われた通りにしてみる。すると、視界が少し暗くなった。

「ん?んん⁉」

「自分の体、見回してみなさい」

自分の体に視線を落とすと、何やら黒いスーツのような服を着ている。そして、視界が暗くなった原因は眼鏡のようだ。フレームの外側の光量は先ほどまでと変わらない。眼鏡を取って見ると、視界の光量が戻ったが、視力が悪いせいでぼやけてよく見えない。だが、今の今までかけていたそれは、普段かけているメタルフレームのウェリントンではなく、スクエア型のセルフレームのサングラスのようだった。

「どうなって…」

「指輪をはめている者が先ほどの動きをすると『変身』できるのさ。人によって服装は様々のようだがね。それと、なにも服が変わっただけではない。少しジャンプしてみなさい」

言われた通り、少しだけジャンプしてみる。体が軽い。軽く跳んだだけなのに、普段の全力ジャンプ以上の高さが跳べた。

「…すごい」

「この格好の時は普段よりも身体能力が上がるはずだよ」

軽く感動を覚えながら何度かぴょんぴょん跳んでみる。体から重りがなくなったみたいだ。先ほどまで指輪のことを嫌悪していた気持ちがどこかへ飛んでいくようだ。しばらくして、重要なことを聞いていないことに気が付いた。

「これ、どうすれば戻るの?」

「さっきやったみたいに、指輪の石座マウントのふちをなぞるんだ。ただし今度は反対向き、反時計回りにね」

言われた通りにしてみると、手に持ったままだったサングラスがいつもの眼鏡に戻っている。眼鏡をかけなおし、服装を改めて確認すると、先ほどまで来ていた紺色のパジャマに戻っていた。服装を確認していると体の重さを感じる。いつもの感覚に戻ったらしい。いや、それにしては体が重い。こんなに疲れていただろうか。

「デメリットは二つ、一つは外れない指輪、もう一つは、『変身』後、非常に疲れること」

父の言葉を聞きながら、なるほどと思う。言葉が容易に出てこない。頭もあまり回っていない。

「まあ、体力がつけば、そこまで反動はひどくなくなるはずだよ。悠一、体力がないからなあ」

最後の一言は聞かなかったことにしたいが、体力がないのは確かなので、反論できない。

「もう一つ、できることがある」

このまま説明を続けるつもりらしい。回転が緩くなった頭で父の言っていることを理解しようとする。

「身近にいる生き物の危機を知ることが出来る」

「…危機?」

「そう。察知すると指輪が少し締まって、指輪の石座マウントにある烏の目の部分にある赤い石が光るんだ。締まり具合がきつければきついほど、重大さが高く、赤い石の明滅するタイミングが速ければ速いほど距離が近い。また、赤い石が光っているだけで明滅していないときは自分がその方向を向いていない時だ」

一息に説明はされたものの、まだ理解が追い付かない。

「…生き物ってことは動物とかもってこと?」

「そう。動物や植物の時もあるね」

「『重大さ』っていうのは?」

「『規模が大きい』と言ってもいいかもね。例えば、同じ人と車の接触する交通事故でも、少し当たった程度でケガも何もないような事故と、死人が出たり、多重事故になっていたりすると事だろう?そういう、起こるであろう物事に対しての『程度』を知れるのさ」

「じゃあ、危険を予知できるってこと?」

「いいや?あくまで感覚的に知れる程度だよ。『予感』の方が近い。『虫の知らせ』が自身のごく近い人間のみに分かるものだとするならば、それが赤の他人の分までわかるようなものだね」

なんとなくは理解できた気がする。が、完全には程遠い。

僕の表情を読んだのか、父が言う。

「まあ、いずれ分かるだろうし、その時までのんびり待っていればいいよ」

のんきな話だ。自分の周りの何かが傷つくのを知るなんて、その時になったら動揺するどころじゃすまないだろうに。

「ある意味では、この指輪を付けたことで悠一は新しく生まれ変わったようなものさ。今まででは知りえないことも知れるわけだし、それ以外の意味でもね」

どういう意味だろうかと思っているうちに父は話を畳み始める。

「まあ、ざっくりとは今話したし、気になることがあったら今度は自分で調べてみなさい」

「調べる?」

「わたしの部屋の鍵のスペアを渡そう。それと、地下室の入り口も教える。粗方情報は揃っているから、今度からは地下室の資料を調べなさい」

そう言ってキャスター付きの椅子から立ち上がった父は、作り付けの本棚の一番奥、上から三段目の棚板を右手で掴み、手を動かした。すると、本棚がドアのようにこちら側に開いた。

「ついてきなさい」

僕もオットマンから立ち上がると父のもとに小走りで移動した。本棚、もとい隠し扉を確認すると、ちょうど父が手を入れたあたり、上から三段目の棚板の下側にくぼみがあり、掴めるようになっていることが確認できた。人差し指が当たるあたりに、押し込めそうな所がある。これがロックになっていたらしい。

「そろそろ下に降りるよ」

父に声をかけられ、慌てて隠し扉の向こう側に足を踏み入れる。「地下室」と言っていた通り、入っていきなり階段があった。人一人通れる程度の狭い階段だ。すれ違うことはできないだろう。降り口付近にスイッチがあるようで、父が明かりをつけてくれた。父が先導し、僕が後ろからついて降りる。明るいため恐怖心はないが、いかんせん狭い。特に空気が薄いわけでもないのに、息苦しく感じてしまいそうだ。家が木造でよかった。コンクリートや石造りの階段だったら、もっと狭く感じていたところだ。木のぬくもりの有難さをこんなところで知ることになるとは思わなかった。

 何度か小さな踊り場で折り返しながら下っていく。テレビの音がかすかに聞こえる。歌番組らしい。母が見ているのだろうか。聞き覚えのあるメロディを耳がとらえた。ああ分かった、蜻蛉玉の『クエスチョニング』だ。

 そうこうしているうちに、地下室に着いた。階段からの明かりはあるが先は見えない。換気や掃除もそれなりにされているのか、いかにもな埃っぽさは感じなかった。

入り口にこれまたスイッチがあるらしく、父が壁に手を添わせた。電気がつくと目の前に図書室のような複数の本棚が目に入った。

「うわ」

階段の狭さもなかなかだったが、こちらは本棚の圧迫感がある。本棚一つ一つにびっしり本が詰まっているわけではないものの、本棚同士の間が狭いため、さながら本に四方八方を囲まれているようだ。本屋や図書館に行きなれていない人間がこの空間に足を踏み入れたら、めまいがするかもしれない。僕は小説をそれなりに読むため、家の地下にこんな空間があったことに感動を覚えていた。

「これでも必死に集めたんだけどね、まだ足りないよ」

父が何か言っているがそれどころではない。あちこち歩きまわって、地下室全体の広さと本棚の棚数、本の冊数をざっくり見積もりに行く。

「そろそろ戻るよ」

声をかけられて慌てて父のもとに移動する。電気を消し、元の階段を上り、父の部屋に着いた。隠し扉を元に戻してから、父は言う。

「あの書庫には我々の血筋に関する書籍が集めてある。指輪のこともね。何か疑問があったら、あそこで調べなさい」

「父さんは教えてくれないの?」

「なんでも人に聞くものではないよ。自分で知るからものになるのさ。わたしがそうだったしね」

まあ、間違ってはいない、と思う。

「それに、悠一は本が好きだからね、喜んでもらえて何よりだよ」

先程の地下室での自分の行動を思い出し、なんだか恥ずかしくなった。僕はスペアキーを受け取った後、自身の感情を隠すようにすぐに自室に引っ込んだ。


  ◇


 起こったことを詳細に思い返していたら、昼休みは残り七分程度になっていた。あと二分ほどで予鈴が鳴ってしまう。僕は一ページも進んでいない文庫本を少しでも読み進めようと努力しながら、簡潔に人に伝える難しさを切実に感じていた。ただでさえ突拍子もないようなことなのだ。信じてもらえるかどうかすら怪しい。どうすればいいのか。悩んでいるうちに予鈴が鳴った。文庫本をしまい、席を立つ、清掃開始まであと四分ちょっとだ。


  *


 昨日の自殺未遂騒ぎからの「クロウ」の正体の発覚、世界がひっくり返ったような衝撃を感じながら私は登校した。登校してすぐに奈緒は、

「高宮に『放課後にね』って言っといた。『説明する』って言ってたし来るでしょ」

と言った。

 正直に言いたい。ちょっと待ってほしい。昨日の今日で心の整理が全くついていない。「クロウ」に対しての膨らんでいた期待感、そして正体を知った時の失望、失望したことを覆い隠そうと躍起になる良心。複数の感情がないまぜになって心の中はぐちゃぐちゃだ。

それに高宮君とは朝に目が合ってお互いぎこちない会釈を交わしたばかりだ。まともに会話できるかどうかわからない。

 刻一刻と放課後が迫っている。次の理科の授業が終われば、もう放課後だ。

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