十二、放課後、保健室

 放課後、私たちは保健室に向かった。女子生徒の方は怪我もなく、昼頃には目を覚ましたそうだ。念のため親御さんを呼び、彼女は帰されたと聞いた。しかし、高宮君の方は、怪我はなかったものの、ちっとも目覚める様子もなかった。放課後には親御さんが来る予定と担任の三浦先生から聞いた。親御さんが来られれば、家に帰るなり病院に行くなりするだろうし、いとまずは何とかなるだろう。しかし私たちはそれでも高宮君のもとに向かった。彼には聞きたいこともある。保健室に着いた私たちは静かに、しかしはっきりと扉をノックした。中から「どうぞ」といらえがあり、「失礼します」と声をかけながら、扉を開け、保健室に入った。

保健室に入ると、保健医の米澤先生が机に座り、書類と格闘しているところが目に入った。米澤先生は三十代くらいに見える整った容姿の先生だ。噂では本当の年齢は四十代とのことだが真相は不明だ。個人的には一つに結ったサラサラの黒髪ロングが羨ましくてならない。私のそれは黒髪ではあるけれど、毛先は傷んで茶色になってしまいがちだし、くせ毛なので、米澤先生のような髪は理想そのものである。

私は手元を忙しく動かしながらこちらに目線を向けた米澤先生に、高宮君の具合を聞いた。

「高宮君の様子、どうですか」

「ただ気を失っているだけなのだけれど、まだ目覚めないわね。脈拍や呼吸は正常通りだから、大事無いと思うのだけど」

米澤先生はこちらを見ながら一旦手を止めて話してくれた。

「そろそろ、親御さんが見えられると思うから、ひとまずは大丈夫よ。…やっぱり、クラスメイトは心配?それともそれ以上の何かがあるのかしら?」

米澤先生は茶化したように言う。そして急にトーンを落とし、目線を書類に落とし、

「まあ、何かがあったとしても、気にしないけどね。そう、気にしないわ」

と言った。絶対気にしてる。そういえば、米澤先生に関しては旦那さんや家族についての話題を聞いたことがない。もしかしたら、絶賛おひとり様中なのかもしれない。

「あ、そうだ。少し席を外すから、高宮君の様子を見てもらってもいいかしら。書類を置いてくるだけだから」

先程格闘していた書類がそうらしい。中々の枚数だ。いったい何の書類なのだろうか。ともあれ、高宮君の様子も見たいため、留守番は喜んで引き受けることにした。

「分かりました。しばらく居るつもりなので、ゆっくり行ってきてください」

「あら、ありがとう。じゃあお言葉に甘えて。あ、高宮君は窓側のベッドに寝かせているから。それじゃあよろしくね」

米澤先生は重そうな書類を抱えて足取り軽く保健室を出ていった。書類を置いていくだけであんなに楽しげに移動するものだろうか。何か別の用がある気がする。心浮き立つような何かが。まあ、私たちには関係のないことだが。

 仕切り代わりのカーテンを開けると、ベッドに横たわる高宮君の姿が見えた。カーテン越しの西日が彼を優しく照らす。私と奈緒は揃って彼の様子を眺める。普段はかけている眼鏡がかけられていないため、寝顔でありながら普段と違う印象を抱いた。普段、クラスメイトからはオタク、がり勉、陰キャ、コミュ障、そんなことを言われていた。しかし今は、色白、華奢、優しげといった印象を受けた。眼鏡の有無でここまで変わるのか。

 この人が私を抱え上げて、迫りくるトラックから助けてくれたのだろうか、にわかには信じがたい。いや、自分でも無意識の部分で信じたくないのかもしれない。探して、探して、探し回った末に見つけたその人が、運動が苦手でいかにも非力そうな、クラスメイトの男子だなんて。

 王子様みたいな、いかにも物語に出てくるような、性格のいいイケメンを夢見ていたわけではない。けれど、もう少しがっしりとした体躯の人だと思っていたのだ。何せ私を横抱きに抱き上げて移動できて、酔っぱらいを線路からホームに片手一本で引き上げられる人なのだから。

 中庭に倒れこんでいる高宮君を見て私は落胆した。がっかりしたとは思いたくなかった。でも、思いたくないと思ったのは、がっかりするのを失礼だと思ったからだ。自分で感情を打ち消そうとしている時点で、答えは出ている。私は高宮君が「クロウ」の正体だと、思いたくないし、認めたくなかったのだ。その考えが、感情が、彼にどんなに失礼でも、そう思ってしまった。高宮君の寝顔を見ながら自己嫌悪が止まらない。自分は、ひどい人間だ。自分のことを助けてくれた人に対して、なんてことを思うのだろう。

「麻結、大丈夫?」

奈緒がこちらをのぞき込んできた。眉が下がっている。心配させてしまった。

「大丈夫、大丈夫よ」

無理やり笑顔を作る。表情筋がこわばる感覚がする。苦笑いになっている気がする。笑顔にすらなっていないかもしれない。

 掛け布団が動いた。いや違う、高宮君が身じろぎしたようだ。

「うう、ん」

目が開く。普段より大きく見える瞳。そういえば、近視の眼鏡をかけていると目が小さく見えると聞いたことがある。ならば、今はその逆だ。いつもより高宮君のうるんだ眼が大きく見えた。

「大丈夫?気分はどう?」

私はとっさに高宮君に声をかけた。奈緒も高宮君の顔をのぞき込んでいる。

 高宮君はしばらくこちらを見たまま固まっていた。いや、虚空を見つめたままボーっとしているように見えた。すると突然、

「わああああ」

声を上げながら跳ね起きた。そして「うう」とうめいていた。気を失って寝ていたのに、いきなり飛び起きたりしたら誰でもそうなるだろう。

「あ、頭痛い…、気持ち悪…」

頭を押さえながら独り言を言う。気分は悪そうだが致命的な異常はなさそうだ。心配は心配ではあるが、ひとまずほっとした。

高宮君が傍らにあった眼鏡をかける。やっと見慣れた顔になった。眼鏡をかけ少し落ち着いたのか、

「ええと、ここ保健室だよね?今、何時?」

と高宮君が奈緒に聞く。

「放課後よ。麻結が心配してたから寄ったの。私も聞きたいことがあったし」

奈緒の返答に高宮君は呆然とした表情で

「放課後、うそ」

とつぶやく。

「嘘言ってどうするのよ」

奈緒が高宮君のつぶやきにツッコんだ後、

「米澤先生呼んでこよっか?」

と私に聞いた。

「『すぐ戻る』って言ってたから大丈夫じゃない?それより高宮君に聞きたいことあるし」

私は奈緒に返事をしつつ、高宮君に向き直った。

 高宮君がベッドの上で居住まいを正しつつ、私から目線を逸らした。

「単刀直入に聞くね。高宮君は『クロウ』なの?」

一瞬の静寂。破ったのはとても小さな呟きだ。

「ち、違う、よ」

声をひっくり返しながら答える。目線が定まらない。今言ったことが嘘だと言っているようなものだ。

「二時間目の途中、女子生徒が三棟の屋上から飛び降りたでしょ?そして、誰かが助けた。黒いスーツみたいな服を着た人が、大きな黒い翼でちゅうって、彼女を受け止めた」

高宮君は自分の手元を見つめている。顔を下に向けているため、前髪で表情は見えない。

「私たちは、階段の踊り場でそれを見た後、中庭に向かったの。そこで気を失っているくだんの女子生徒と、あなたを見つけた」

まだ、高宮君は顔を上げない。奈緒は黙って成り行きを見届けている。

「『クロウ』は同年代の男子で、ここら辺近辺に住んでいる人物であることは推測がついているの。それに、私は飛び降り騒ぎのときに教室から出ていく詰襟の後姿を見た。授業中に走って移動した私たちよりも早く中庭に行けるとしたらその人くらいだと思う」

私は続ける。

「それに、私たちは誰にも追い抜かされていない。なら、ほかの教室から私たちよりも早く出ていった人がいない限り、その詰襟の人が『クロウ』の可能性が高い。中庭にいたのは、私、奈緒と、高宮君だけ。それに、なによりたまたまそこにいたのだとしても、屋上から飛び降りようとした人より長く目覚めないのもおかしいわ」

「でもそれは、僕自身がそうだという理由にはならないよ。ただの状況証拠じゃないか」

高宮君が思っていたよりも大きな声で顔を上げて言う。

「そんな顔で反論されても、認めているようなものよ」

奈緒は冷静に高宮君の顔を見ながら言った。確かに、高宮君の顔は冷や汗でぬれ、こわばった顔をしていた。疑いようがない。

「ねえ高宮君。あの日、私は『こっちに黒いスーツ着た人来なかった?』って聞いたよね。なんで、なんで話してくれなかったの?」

 沈黙が保健室を支配する。ほんの数秒が数時間立ったように感じた。やおら、高宮君が口を開く、沈痛な面持ちで。問い詰めたのはこちらではあるが、胸が痛くなった。

「隠してて、騙して、ごめん。ごめんなさい。探されていることは分かっていたけど、がっかりされるのが目に見えていたし。それに、自分でも色々、よくわからないことが多くて、話せなかったんだ」

「どういうこと?」

奈緒が聞きかけると、保健室の扉が開く。

「ごめんねえ、二人とも。時間がかかっちゃって。高宮君のお母さま見えられたのだけど、様子どうかしら」

米澤先生が戻ってきたようだ。奈緒がカーテンから顔を出し、応対する。

「あ、起きたんで、少し話してました。えっとその人が」

私もカーテンから顔を出す。米澤先生、三浦先生ともう一人、茶色い品のいいワンピースを着た中年の女性の姿が見えた。この目、見覚えのある感じがする。

「ええ、高宮君のお母さまよ。先ほど見えられたの」

やはり。特に目が似ている。柔和な雰囲気がそっくりだ。

「こんにちは」

私たちは二人そろって挨拶をした。高宮君のお母さんも挨拶を返してくれる。そして、

「息子を見ていてくれたのね。ありがとう」とお礼を言われた。

「大したことしてないですよ」

奈緒はそう言うと、こちらに向き直り、

「それじゃ、あたしたちもこれで失礼しようか」

と言った。私は

「そうだね」

と返し、保健室を出ようとする。

「待って」

高宮君の声だ。

「その、ごめん、後でちゃんと話すから」

「分かった」

「はいはい」

私たちは「また明日」と「失礼しました」を言って外に出る。

「じゃ、部活行くね。じゃね」

奈緒が言う。

「うん、また明日」

と私。明日、明日になれば、すべてが分かるだろうか。


  *


 自宅に着き、一応ベッドに潜り、左手にはまった指輪を見つめる。明日、広瀬さんと河原さんにちゃんと説明ができるだろうか。分からない。そもそも信じてもらえるかすら分からない。

ふと、指輪の烏の右翼に小さな亀裂が入っているのを見つけた。こんな傷、いつつけたのだろうか。なんだか嫌な予感がする。物語上では誰かの湯飲みや茶わんなど日常で使うものが割れたりするのはその人に危険が迫っている証拠だったりする。自分の身に何か起こるのだろうか。

 いや、物語の世界と現実はイコールではない。考えすぎだ。今日は早く休もう。そう思い、僕は静かに目を閉じた。

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