十一、飛翔
翌日、私は奈緒が朝練を終えて教室に入ってくるのを待っていた。昨日なんだかんだ細かい話はできなかったので、その話と、今後の方針を話したいと思ったのだ。ただ待っているのもつまらないので読みかけの文庫本を読む。『吸血鬼は牙が嫌い』がそろそろ佳境に差し掛かっている。主人公とヒロインのすれ違いをハラハラドキドキしながら読み進めていると、「嘘つけ」という大声が耳に入ってきた。びっくりして、思考を小説から現実に戻す。後ろを振り返ると、声の主がいた。声の主は佐野君だったようだ。隣に和木坂君もいる。二人が机に座った誰かに向かって話しているようだ。机の位置的に、高宮君だろうか。二人が壁になってよく見えない。
「どう考えても仮病だっただろうが」
「違う、よ」
「いやいや、嘘言っちゃだめでしょ、昨日昇降口から走って出ていくとこ、俺見てたんだよね」
和木坂君がこともなげに言う。ああ、実は怪我していないのに、怪我していたふりをしていたってことか。でも、高宮君は保健室に寄っていないし、怪我を理由にさぼったり早退したりしなかった。仮病だったとしても高宮君に利はない。
「は、走れるくらいまで、良くなってただけだよ」
高宮君はどことなく歯切れが悪い。
「どーだか。ホントはさぼろうとしてたけど、仮病だってばれたんだろ」
佐野君は高宮君を、仮病を使おうとした悪い奴だと思っているようだ。いや、わざと大きい声で話しているから、そう思わせたいだけかもしれない。
どうしよう、高宮君は保健室を素通りしていたことを話すべきだろうか。迷っていると、教室に奈緒が入ってきた。
「何事?なんかでかい声聞こえたけど」
「ああ、河原、はよー。こいつが仮病使おうとしてたことわかったから、シメてたとこ」
奈緒の問いに佐野君が答える。シメていたのか。
「は?どういうこと?」
和木坂君が先ほどの高宮君が昇降口から走って出ていくところを見た話をした。そして、仮病でさぼろうとしていたのだろうということも話した。
「いや、それはないと思うよ」
と奈緒。
「なんでだよ」
と佐野君。
「だって、女子更衣室に行くまでの間、なんとなーく麻結と一緒に様子うかがって歩いてたら、高宮、保健室の方行かなかったもん。ねえ、麻結?」
と奈緒がこちら振り向きざまに言う。私は、突然話を振られたので、
「へ、え、う、うん」
という非常に自信なさげな返答になってしまった。
「本当?」と和木坂君。
「うん、左脚をかばってたから、心配で様子を見ていたの。でも、保健室に寄る気配がないから、大丈夫かなって思って。帰りのホームルームの後、普通に歩いてたから、てっきり思ってたより怪我が軽かったのかなって思ったんだけど…」
私が答えた後、クラス内に沈黙が落ちる。不思議と廊下も静かだ。
「もう、チャイム鳴ってるぞー。早く座れ」
三浦先生が入ってきた。廊下も静かだったのは、とっくに朝のホームルームの時間になっていたかららしい。慌てて席に着く。クラスメイト全員が着席したのを確認した三浦先生は伝達事項を話し始めた。
◇
授業が進んでいく。二時間目の科目は国語だ。国語の酒井先生は三月に結婚したばかりらしい。ギリギリ三十代前に入籍できたと自己紹介時に話していたが、お子さんは欲しいと思っているのだろうか。なんとなく、自分が卒業するまでは学校にいてほしいと思うのはわがままだろうか。昨年担任だったというのもあるし、それ以上にとても気が合う先生だ。卒業までいてほしいと思ってしまう。
教科書をクラスメイトが順繰りに読んでいく。すると、周りが騒がしくなった。
「何あれ」
誰かが声を上げる。クラスメイトが「なんだ」とか「何事」とか口々に言いながら、席を立ったり、窓の外を見始めた。酒井先生が「席について」と声をかけるが生徒たちは聞かない。私は一番廊下側の席だったので反応が遅れた。私も席を立つのに気後れしながら、窓際に移動し、外を見る。するとこの教室のある二棟の隣の、三棟の屋上に人影が見えた。女子生徒だ。
まさか。嫌な想像が私の脳裏をかすめる。誰かが走って廊下に出ていく音が聞こえる。振り返ると、詰襟の背中が廊下に消えるところだった。私は後ろを振り返ることなく走り出した。
「麻結⁉」
奈緒の驚いた声と同時に走り出す音が後ろから聞こえた。
*
もう逃げない。もう二度と、人が傷つくところは見たくない。僕は廊下を走り抜けた。階段を駆け下りる。早く、早く。間に合え、間に合ってくれ。
走りながら右手人差し指で左手の指輪の
◇
私は男子生徒の詰襟を追いかけていた。その私を奈緒は追いかけて来てくれて、私たちは一緒に廊下を走り、階段を駆け下りていた。しかし、詰襟の背中を見失ってしまった。それでも階段を駆け下りようとしたところに「キャー」という悲鳴が聞こえた。踊り場の窓から中庭を見る。女子生徒が三棟の屋上から落ちていく。中庭に向かって、地面に向かって落ちていく。目を逸らしかけたとき、黒いものが彼女をとらえた。黒い大きな翼が生えたそれは彼女を空中でさらい、倒れこむようにしながら中庭の隅に突っ込んだ。早すぎて何が何だか視認できなった部分もあるが、私はその人物が黒いスーツのようなものを着ていることは分かった。彼らは無事だろうか。私はまた走り始めた。とっくに息が切れ重くなった足を無理やり動かしながら走った。奈緒は私の走る速度に合わせて並走してくれた。
◇
二棟と三棟の間の中庭の三棟に近い生垣に二人の姿はあった。手前側に倒れこんでいるのは屋上から飛び降りた女子生徒だった。横を向いた姿勢で、少し肘とひざを曲げた状態で倒れこんでいる。そして奥側にいたのは、詰襟の男子生徒。サラサラの黒髪の後頭部がこちらを向いている。こちらに足を向けた状態で、うつ伏せに倒れこんでいる彼は、同じクラスの高宮悠一君だった。
私たちはその状態を見て呆然と立ち尽くす。
「なんで、こいつが、ここに」
奈緒がひとりごとのようにつぶやく。私はその一言で我に返った。
「誰か、先生を呼んでこよう。私たちだけじゃどうにもできないし」
私は奈緒にそう声をかけながらとりあえず教室を目指そうとした。酒井先生が教室にいるだろうと思ったからだ。しかし、当の本人の姿が二棟の昇降口を目指そうと振り返った私の目線の先にいた。
「二人とも、こんなところ、に、いた、のね。だめ、でしょ、ちゃんと、教室に、待機、して、ないと」
酒井先生の息が完全に切れていた。どうやら教室を飛び出した私たちを追いかけてここまで走ってきたようだ。顔にも汗が伝い、茶色いボブの髪が少々顔に張り付いていた。私たちはなんだか申し訳なくなった。
「申し訳ありません」
「すみません」
私と奈緒は同時に謝った。
「はあ、もう二度と、このようなことは、ないように」
酒井先生の息が整ってきた。と同時に、酒井先生は私たちの後ろに倒れこむ二人にも気が付いた。
「そこの二人は、どうしたの」
「おそらく、女子生徒の方は先ほど三棟の屋上から飛び降りた人だと思います。男子生徒、高宮君の方は…、なんでこんなところで倒れているのか」
なんとなく、女子生徒を助けた「クロウ」のことは話さない方がいい気がして、私は言葉を濁した。おそらく、いや、ほぼ確実に「クロウ」=高宮君だろうが、確実ではない。また、下手に「クロウ」のことを話すと、いろいろとこじれるような、そんな予感がして私は「クロウ」についての情報は一切しゃべらないことに決めた。
「まあいいわ。応援の先生方を呼んでくるから、あなた達は教室で待機してなさい。クラスメイトも心配していると思うから」
私たちが消えたことを心配しているクラスメイトが何人いるかは分からない。それよりも私は二人の様子の方が気になった。しかしこれ以上勝手な行動はできない。私たちはひとまず教室に戻ることになった。
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