六. 十六夜

 狼人の力を得た魔女王は、灰色の風のようだった。

 かろうじて理性をつなぎとめ、向かい来る黒い敵を屠っていく。魔女王が通った跡には人ならざる者の骸が転がる。

 灰色の風は、意思に反して獣に変えられた者たちにとっての慈悲であった。

 狼人化した者は、終わることのない渇きと絶望的な痛みに苛まれる。その苦痛は容易く理性を壊し、記憶をも消し去る。

 ヴィヴィアン・ウィッチクイーンは、七百年にわたって苦痛をその身に味わってきた。

 だからこそ、牙を剥き、充血した眼から泪を流しながら、爪を振るう彼らを理解する。彼らは与えられた任務などどうでもよく、ただ、苦痛を終わらせてくれる者を探しているだけだ。

 あふれ出る殺意は懇願であり、己をそのようにした者たちへの怒りであり、人生を破壊された哀しみだった。

 だからこそ、ウィッチクイーンは躊躇しない。

 彼らの歎きと苦痛を受けとめ、彼らの願いを聞き入れるため、自らも爪を血で濡らす。一刻も早く彼らを解放するため、その一撃は必殺にして無慈悲。

 彼らの無念など、果たしてやることもできないが、それが魔女の王と恐れられた彼女の唯一の、責務だった。

 終わりのない狼人たちの襲撃に、灰色の風も切れ味が落ち、毛並みにはどちらのものかわからない血がこびりついていた。激しい苦痛に、簡易な治癒すら行使できない。

(城から離れるんだよ……ここには……)

 ヴィヴィアンの頭にはただそれだけがあった。理由はもはやよく思い出せないが、自分の姿を見せてはならないだれかがいることは確かだった。いまの彼女なら、そのだれかを容易く切り裂いてしまうだろう。

 城の入り口までもう遠くはない。天井から奇襲をかけてきた小柄な狼人を左へ一閃し、駆け抜けようとし、ふいにぐらりとバランスを崩した。瞬刻前の衝撃から、ヴィヴィアンは爆薬を使われたと察知。力の入らない右脚は、その負傷によるものだろう。煙に混じり、黒いシミのような群れが散っていく。ヴィヴィアンにはそれを気にかける余裕はない。

 すでに十にちかいの狼人を撃破したヴィヴィアンの体は、限界にちかい。ふてぶてしい顔がふいに思い浮かんだが、もう彼に始末を依頼する必要はないだろう。

「グォオオオオオオッ‼」

 入り組んだ城の壁をもう一つ、突き破ったさき。玄関ホールに、巨躯は立っていた。

 体高は三メートルを越し、背後で木片と化した城門が散乱している。これが最後の敵か、とヴィヴィアンは薄れゆく理性の中、安堵していた。巨大なこの狼人と差し違えたとき、すべてが終わる。

 隻眼の赤く禍々しい目が、しかとヴィヴィアンを捉えた。

「コドモハ、ドコダァアア‼」

 獣の咆哮に、確かに言葉があった。

 その言葉に、ヴィヴィアンの安堵が恐れに変わる。


「小僧、あのお方を……」

 はっ、はっ、と息を切らすルーカン。担がれたウィリアムには、激しく揺れる視界で定かでない。が、どうやら城の入り口へ向かっているようだった。

 正面を向いたまま、真顔の魔法使いが続ける。

「ヴィヴィアンを愛しているか?」

「きもちわるい……なんのこと?」

 荷物のように揺られるルーカンの肩で、吐き気を堪えたウィリアムが手足をジタバタさせた。

「とぼけているのか? これだからガキは……くそっ」

 ウィリアムをキッと睨んだルーカンの目が脇へ逸れた。その唇がかすかに動くも言葉は聞き取れない。

 ルーカンの視線を追うまでもなく、間近に血のニオイと獣の匂いをウィリアムが感じたときには、湾曲したかぎ爪が目の前まで迫っていた。

「ガキンッ!」と、金属の触れるような音がするなり、狼人のうなり声がぴたりと止まる。凍てつく冷気を感じると、かぎ爪は白い氷に覆われていた。

「地獄で安らかになっ!」

 勢いをつけ、足を振りあげるルーカン。彫刻と化した氷の人狼がガラス細工のように砕け散った。

「い、いまのオオカミ人間? ヴィヴィのトラップ?」

「いやちがう」

 ルーカンが首を横に振る。地下道で聞いた遠吠えにハッと振り返る顔は、白髪と同じ色になっていた。

「いまのって、さっき……」

「ああ。コイツらはヴィヴィアンを狙う連中だ。それとおそらく、おまえもだ」

「え、ぼく?」

 状況が飲みこめないウィリアムを担いだまま、ルーカンが初めてその名前を呼んだ。

「よく聞け、ウィリアム・ヴォルフガング」

 通りがかった部屋のドアを蹴破り、間髪を入れずに光るなにかを投げこむ。すぐさま閃光が走ると、白い冷気が足元を伝った。

 部屋に入ったルーカンは無造作にウィリアムをおろし、後ろ手にドアを氷付けにした。

 室内は銀世界で、氷結したソファやベッドが彫刻みたく、煌めいている。シャンデリアが月明かりを反射し、凍った窓を透かして橙の焔が幻想的な世界を作り出していた。幸いなことに、氷漬けになった狼人はいなかったが、歯が噛み合わないほどに寒い。

 狼人の襲撃をうけていないらしいこの部屋はウィリアムも最近、来たことがあった。廊下を少し行けば、大広間のような玄関ホールに出られる。

 だが、窓際から見える光景は一変していた。

 左右に突き出していた尖塔は崩れ落ち、巨大な穴が屋根に空いて煙をあげている。東館は特に被害が激しく、石造りの屋根がほとんど残らないまでに崩れ落ちていた。

「隕石……?」とウィレムが思った理由は、中庭に巨大な岩石のような黒い塊がいくつもめりこんでいたからだ。中庭の中央へ着地した隕石のせいで、噴水はこっぱみじんに砕け、生け垣の迷路はクレーターに埋もれ、原形を留めていない。

「ルカ? なにがおこってるの? ねえ、ヴィヴィは?」

 床に打ちつけた痛みと、寒さで腕をさすりながら、ウィリアムは辺りを警戒して見回すルーカンの破れたズボンを引っ張った。

 とっさに足が動きかけたが、見上げる幼子のまなざしは真剣だった。こんな状況でも継母を気づかい、その身を案じている。

「いいか、小僧」

 片膝を立ててしゃがみ、ルーカンが視線の高さをあわせた。

「溶けた水を頭からかぶるんだ。その水を持ってヴィヴィアンを探せ。それで彼女は、治るはずだ」

 ガクガクと震えるウィリアムがルーカンを見つめてくる。さすがの九歳も、魔法使いが自分をからかっているとは思わなかった。

「ヴィヴィ、水でなおるの?」

 また物悲しげな遠吠えが聞こえた。ルーカンが短く息をつく。

「実のところ、オレにもわからん。女王本人にもわからんくらいだ。しもべのオレがわかるはずもない」

 自嘲気味に笑うルーカンを無垢な瞳がキョトンと見つめる。

「いまのは忘れろ。ともかく。昨年、ヴィヴィアンはある本を見つけた。その本によれば、十歳の満月の夜に子どもが自分から差し出した水が、呪い……病気に、効くんだそうだ。つまり、おまえな」

 握りしめた拳を震わせ、優男の魔法使いが白い息を吐いた。

「ヴィヴィアンは、おまえが嫌なら連れて逃げろと、オレに命じている。彼女の命令にオレは逆らえない。だがな……」

「ぼく、やるよ」

 少年の凍えた、けれども確かな声に魔法使いが顔をあげる。

 目をあわせ、少年はもう一度、意思を込めて頷いてみせた。

「だってヴィヴィと約束したから。ぼくは約束をやぶったりしない」

「だが危険だぞ」

「うん、こわい。でもぼく、ヴィヴィが頼ってくれてうれしかった。初めはあんなにうそつきで、意地っぱりで、いっつもぼくをからかうくせに、信じてくれる。だからぼくも、信じるよ」

〈トゥルース・ファインダー〉の少年には、継母が他にも隠し事をしているとわかっていた。けれど、それは噓というより、まだ話せていないだけなのだろう。

 ウィリアムはそんな継母の話をもっと聞きたかった。

「ルカ、なにしたらいいの」

「これを持っていけ」

 ルーカンはそういうと、天井を見あげて唇を動かした。

 パキッと音がして、シャンデリアのビーズが一粒、落ちてくる。雫の形をした手のひら大のクリスタルをつかむと、ルーカンが人指し指でなでていく。リーダーシップの〈ユニーカ〉がガラスの構成を変え、ビーズの中心に空洞を作る。

 今度は、傍の氷を拳で割ってウィリアムへ手渡した。

「溶かすぞ」

 両手で受け取った氷が、風船が弾けるように爆ぜてウィリアムの顔や体まで水浸しにする。目を瞬くウィリアムを横目にルーカンが手を振る。と、服の染みから水滴が浮き出てビーズに吸い込まれていった。

「ただの水では効果がない。十歳になるおまえの想いが染みこんだ水だ」

 説明したルーカンがビーズを差し出す。受けとったウィリアムがクリスタルを目の前にかざす。封をされた水が月明かりにゆれていた。

「ヴィヴィアンを見つけたらビーズを投げつけろ。割れやすいから慎重にな」

「でも、どこにいるの?」

「そうだな……」と見あげるウィリアムに、立ち上がったルーカンが息をはく。白い吐息がふわっと広がって、どこからともなく消えていく。

「城から出るには正面の門しかない。部屋を出たら、左へまっすぐ走れ。そうすればホールだ」

 握った拳を開け閉めし、白髪の魔法使いは普段の見下した顔をにやりとしてみせた。

「いまのヴィヴィアンは、普段と見た目がちがっている。だがまあ、おまえなら見分けるだろう。恐いだろうが、おじけづくなよ?」

 ルーカンの体から見えない波のような圧力が広がっていく。ルーカンが蓄えた魔力を解放しているのだ。ウィリアムですら息苦しさを感じるほどだ。

 ほとばしる力が一瞬止み、まるで時間が止まったように静寂が二人を包む。

 ウィリアムに背を向け、ルーカンが獰猛に笑った。そんな姿を小僧に見せるわけにはいかない。

「母をまもれ。たのんだぞ……ウィリアム」

 魔法使いが高々と咆えた。

 低いグリズリーのような咆哮が凍った部屋をふるわせ、氷がピキピキと音をたてて割れていく。

 ドアのほうへ、ルーカンが腕をつきだし、途端、分厚い氷がダストへ変わる。

「いけっ!」

 咆哮を聞きつけ、遠吠えが次第にちかづいてくる。絨毯を踏みならす足音は、ひとつやふたつではない。

 部屋を出たウィリアムに背を向け、ルーカンが廊下に立ちはだかる。

 走りだそうとし、ウィリアムがその広い背中を見あげる。

「ルカ……」

「ハッ! オレを見くびるな、小僧!」

 廊下の先に姿をみせる狼人。雄叫びをあげ、ルーカンが駆けていく。

 同時に走り出したウィリアムの耳に、獣に負けず劣らないルーカンの声と、狼人のうなり声が入り乱れる。どちらが優勢なのか、ウィリアムにはわからない。いまはただ、ルーカンの稼いでくれた時間をムダにしたくなかった。

 弱々しいロウソクの灯りを頼りに、城の玄関を目指し、雫型のクリスタルを両手に握りしめ、少年が駆けていく。


 塵ひとつなく磨きあげられた大理石の床は満月ともなれば、吹き抜けから月光がスポットライトのように降りそそぎ、城の表玄関を厳かに照らし出す。

 いまや光沢のマーブルは抉られ、引っかき傷がヤスリをかけたように無数に走っていた。

 普段、固く閉ざされたローズウッドの門は扉が外れ、木片が燃えている。辺りには焼けた黒い山が燻り、異臭を放っていた。

 その中央に、大小二つの人ならざる者が対峙している。

「グルルァッ‼」

 片目が潰れた一回り体の大きい狼人めがけ、体格で劣る灰色の狼人が突進する。速度はいくぶん落ちているが、瞬発力は驚異的だ。

 だが、渇いた血のこびりついた爪は黒い毛皮に届かない。爛れ、骨が覗く右脚が重荷となって灰色の狼人の動きを鈍くさせる。

「フンッ……‼」

 隻眼が残忍に笑い、突進をギリギリまで引きつけて躱す。体躯に似合わない俊敏性で黒狼が体を捻り、ワンテンポ遅い灰狼の右脚を踏み砕いた。

「―――‼」

 人とも獣ともつかない苦痛の叫びが大理石の床を震わせる。

 だが、それはフェイントでもあった。

「グワァブッ‼」

 足を砕いたことで勝利を確信した黒狼の隙を突き、灰狼が咆哮のまま、柱のような太腿に噛みつく。今度は、黒狼が痛みに咆えた。

 突進の勢いを借り、あらゆる現生種よりも鋭い牙がハムストリングスの大部分を剥ぎ取り、灰狼が距離を取る。火の粉が舞う口をペッと吐き、灰狼が隻眼を見すえる。吐き出した肉塊が煙を上げた。

 狼人が魔法を行使することはできない。それは、魔法の行使が世界を直接操作するに等しい集中力と精密性が要るからだ。苛烈な苦痛を身に纏う魔女王も、条件は変わらない。

 だが魔女王は無意識に魔法を行使していた。たとえ、それが『嚙みついたものを火だるまにする』程度だったとしても、敵にとっては脅威に他ならない。周囲に散らばる骸が不用意な接近戦の末路を物語っていた。

「ガキハドコダァ‼」

 何度目かわからない問いを発しながら、隻眼の黒狼、ヴォルフガング部隊長が灰狼へ踏みこむ。彼にはリスクを負ってでも灰狼、ターゲットであるウィッチクイーンへ近づかなければならない理由があった。深手のターゲットをさらに追い詰め、真のターゲットを探り出す。

 複雑なプランなどない。かつて戦場で研いだ直感だけが、この灰狼をなぶることで真のターゲットに近づくと告げている。だからこそ、部隊長は無意味だとしても、問いを叫び続けなければならない。彼がその問いを発するたび、目の前の灰狼が瞳を揺らす。

 そして部隊長の鼻はすでに、近づいてくるもう一つの匂いを嗅ぎつけていた。

「フンッ、フンフン」

 問いによって固まったように動かないターゲット。

 部隊長が片側しか動かない顔を歪ませる。


「はぁっ……はぁっ……」

 城の入り口を目指して走るウィリアムには、先から刃物がぶつかる音と、狼のうなり声が届いていた。猛獣が死闘を繰り広げるところへ急ぐ自分は変かもしれない。

「いかなきゃ……だって……」

 不思議とウィリアムに恐怖はなかった。恐くないわけではない。ただ、壊れない程度に握りしめているこのクリスタルを、届けなければならない責任感がウィリアムを突き動かしていた。

(まえもこんなこと、あったっけ)

 酸欠寸前の頭にぼうっと、記憶の光景が浮かぶ。

 新年を迎え、ウィリアムが家事を手伝うようになった頃。

 洗濯物に混じっていた女物をヴィヴィアンの部屋へ届けたときだ。珍しく取り乱した継母をウィリアムが笑うと、ふてくされたヴィヴィアンがウィリアムのパーカーをずり下げて戻らないようにした。視界を遮られてあたふたしていると、魔女の王は、らしからぬ楽しそうな声でずっと笑っていた。

(あの人はうそつきだし、魔女だし、いっぱい隠してる。でも……)

 今度の継母は、ウィリアムが養子かどうか、まったく気にもかけなかった。どんな里親も、里子とのあいだには見えない、けれど埋めようのない溝がある。生物学的親ではない以上、その溝をけっして埋めることはできない。愛情は溝に橋を架けることはできても、「親がいない」という溝は埋められない。

 溝を埋めようとするほど、親子の距離は離れていく。ほとんどの里親は気がつかないか、善意でそうする。その善意が里子を傷つけるとも知らず。

 ヴィヴィアンには、そんな善意が最初からなかった。そもそも、利用するためにウィリアムを引き取ったのだ。親子の関係など、彼女は歯牙にもかけない。ウィリアムは利用価値のある、一人の人間に過ぎない。ただ一人の人間として接する。初めての経験だった。

 だから、イタズラに悪意がないし、隠し事はまったく隠しきれていない。

 だからウィリアムは、ルーカンからクリスタルを受け取ったときに決心した。

 ヴィヴィアンが魔女だろうとだれだろうと、気にしない、と。

 人を振り回すことが大好きな彼女は、ヴィヴィアン以外の何者でもない。

 だからもう少し、隠し事だらけの、このママハハにつきあってみよう、と。

「……うそ」

 階段を下り、ホールが見えたところでウィリアムが立ち止まった。家の玄関の変わりように、脚がすくんで言葉が出ない。満月の月明かりが照らす大理石のホールは、古代の闘技場みたく様変わりしていた。

 床に大きな窪みができ、階段の一部は砕け途切れている。月光が赤い染みと、獣の体毛が入り交じった塊を不気味に浮かび上がらせている。

「うえっ……」

 吐き気を堪え、ウィリアムは急いで他に注意を向ける。継母の姿がどこにも見当たらない。

「あれが……ヴィヴィ……?」

 そこに、いつも長髪をなびかせ、堂々と立つ魔女王の姿はなかった。

 代わりに薄ら白い光の元、巨大な黒い狼人と向き合う灰色の狼がいた。黒い狼人と比べ、小柄なその体はグレイの毛並みが血で汚れ、右脚からは鮮血が流れ出ている。荒い息遣いとふらつく足取りが消耗を示している。

「グルァッ!」

 片側の目に傷がある、ひときわ巨大な個体がヴィヴィアンへ突撃する。

 灰色の狼人は、固まったように動かない。

「ヴィヴィっ!」

 少年の声が闘技場に木霊する。場違いなその声に刹那、黒い狼人さえが動きを止めた。

 呪いが解けたように灰色の狼人が背後を振り返った。

 階段から身を乗り出したウィリアムの姿に、一瞬、人の声へと戻る。

「ウィリアム……?」

「うしろっ!」

 ウィリアムが叫び、ヴィヴィアンが目の前に迫った影を捉えた。

 片目の人狼が奥歯までみせてほくそ笑んでいた。


「グラァッ!」

 ヴィヴィアンへフェイントを掛け、部隊長が跳躍する。

 予想通り、真のターゲットがあらわれた。手負いの灰狼は、もはやどうでもいい。階段までの間合いを一気につめた。

 階段まで、残り数メートル。

 戦闘の傷と狼人化の苦痛から、部隊長のわずかに残っていた理性もすでに失っていた。自分が少年を狙う理由も、声しか聞いたことのない男の、人間に戻りたければ生け捕りにせよ、という言葉も思い出せない。いまはただ、少年への強い執着と捕食衝動だけが体を突き動かしていた。

 そして、風のように目の前へ滑りこんだ灰色のターゲットのことも。

「グゥワッ……」

 金属をも容易く断ち切る爪が少年に届くことはなかった。

 巨大なかぎ爪は、灰色の毛皮に深々と刺さっていた。傷口からあふれる血が灰狼の体を真紅に染め上げる。

 正面にある、どこか艶めかしいオオカミの顔がニヤリとした。

「―――――!」

 刹那、大気を震わす咆哮が、黒い狼人を吹き飛ばし、石造りの床へ深いクレーターを穿つ。

 あらゆるものを焼き尽く魔法の焔が古城の入り口を巻き込んで爆ぜ、壁のレンガが空高く弾丸のように飛ばされていく。

 ミサイルが打ち込まれたような一帯はほとんどが燃え尽き、水蒸気の白い煙が夜風にゆれる。

「ゲホッ……ゲホッ……」

 ホコリを払いながら立ち上がったウィリアムは、基部までえぐられた階段の根元に飛ばされていたが、奇跡的にすり傷と軽い火傷のみだった。

 様変わりした家の玄関を見る限り、とっさに腕で顔をかばったくらいで済む衝撃ではない。焔があがる直前、目の前にいた灰色の影が盾になってくれたことをウィリアムは覚えていた。灰色と赤の毛深い影だったが、長い髪のようなたてがみがあったのは間違いない。

「ヴィヴィ! ヴィヴィアンっ!」

 目を細めて辺りをうかがいながらウィリアムが歩き出すと、三メートルも離れていないところで火だるまがかすかに動いた。あちこちに同じ火だるまがくすぶっているが、どれも動く気配がない。

「ヴィ……ひっ!」

 腰を抜かしたウィリアムの前で、赤い眼をした人狼がうなるが、長くは続かなかった。

 体毛のほとんどが燃えてなくなっているが、開かない目と、事切れてなお睨みつける憎しみのこもった緋眼は、あのリーダー格の人狼に間違いなかった。

「ウィリ……アム……」

 うしろから自分を呼ぶ声にウィリアムがハッとして振り返る。通り過ぎた瓦礫の下から細い腕が覗いている。

「ヴィヴィ!」

 駆け寄ったウィリアムが石やレンガの破片を取り除いていく。一人でなんとか引っ張りだせたものの、ヴィヴィアンの傷はウィリアムがみてもひどい状態だった。

 歯を食いしばるウィリアムを見あげてヴィヴィアンが手をのばす。

「は、はずかしいわ……ママ、なにも着てないんですも、の……」

「しゃべっちゃダメ! ほら、魔法で……」

 着ていたパーカーをヴィヴィアンにかぶせるウィリアム。そのオオカミのキャラクター柄に、腫れて至る所から血をながす唇がククッと笑った。

「この柄、気にいったかい?……コイツを選んだときは、ドキッとしたもんだよ……ごほっ」

「だからしゃべらないで、はやく魔法でなおしてっ……」

 ヴィヴィアンの頭を腕にのせ、ウィリアムがその手をとる。ぬめっと生温かいものがヴィヴィアンの腹からウィリアムの手をつたう。

「ウィリアム……」

「ぐすっ……なに……」

「わるかったね、黙ってて。ママがオオカミ人間なんて、最悪だろ?」

「ううん」

 ウィリアムが首を横に振る。そんなことはどうでもよかった。

 目をぬぐってウィリアムがヴィヴィアンの頭を抱え直す。

 月明かりにウィリアムのパーカーへ染みが広がっていく。

「……そうかい。うれしいねえ。だけどウィリアム、アタシはもうひとつ、謝ることがあるんだよ」

「そうだっ! ルカの水!」

 はじかれたように顔を上げるウィリアム。ポケットを片っ端からまさぐるが、なにも見つからない。

 周囲を見回しても、夜闇に溶けこんだ燃えさしの中にクリスタルは見当たらない。

「うそうそうそっ……どこだ……ヴィヴィ、まってて。さがしてくる」

 そっと横たえようとするウィリアムの腕をヴィヴィアンが力なくつかむ。見る影もなくなった美貌がウィリアムの名前を呼んだ。

「……あいつが話したのかい?」

「ルカはぼくがさわった水で、ヴィヴィがなおるって言ってた。瓶にいれてもってきたんだけど……」

「ったく、あの野郎……カッコつけやがって」

 魔女の舌打ちはウィリアムに届かない。

 そのルーカンの気配がさきから感じられなかった。

 もはや、相棒の気配を探る力も、魔女に残ってはいなかった。

「ウィリアム……アタシと約束しておくれ」

 触れようとするほど、自分の血でウィリアムの頬が汚れていく。

 ヴィヴィアンが離しかけた手を、けれどウィリアムは強く握った。

「なに……?」

 伸びはじめた爪が皮膚に食い込むのもかまわず、ウィリアムが声を震わせる。

 ふっと、口元をゆるめ、魔女がウィリアムの手を握りかえした。

 普段の余裕っぷりを少しでもだそうと、声色をつよめる。すでに、腹から下の感覚がない。この調子なら、魔女のまま逝けそうだった。

「いいかい? アタシのことは忘れとくれ。アタシが死んだら、弁護士がおまえさんを探しにくる……なぁ~に、心配するんじゃない。あれは人間だよ。ちゃ~んと、おまえさんに相続権やらなんやら、説明してくれるよ。そうしないとアタシに呪われるって、いってあるしさ……いっつっ……!」

 長く話したせいで痛みがヴィヴィアンの体を駆けめぐる。ルーカンはこんな感覚が好きだったのかと、魔女の王はいまさらながら古い相棒を物好きだと苦笑する。

「ヴィヴィ⁉」

 ヴィヴィアンの目に、顔を歪めるウィリアムは見えなくなっていた。

 ただギュッと抱きしめてくるその温もりと、鼻をすする音は感じる。

 それだけで魔女の王は、冷えていく体がとてつもなく温かくなった気がした。ウィリアムと過ごした日々が頭を駆け、それまでの七百年のことは他人の記憶のようにおぼろげだ。

 これが走馬灯なのかと、数少ない未体験にウィッチクイーンの好奇心がくすぶられる。

 おかげで、わずかに思考が回った。土壇場で思いついたアイディアに魔女の王がくすりとする。

(さあて、ウィリアム。最後にひとつ、ショーといくかねえ)

 かすれゆく意識のなかで、魔女王が膨大な知識からシンプルな魔法の言葉をつむぐ。その魔法は大地からエネルギーを借り、時間を置いても発動するかわり、トリガーの素材がなければ効力を持たない。

 こっそりと、魔法の詞(ことば)を唱えたヴィヴィアンの唇が、今度はウィリアムに聞こえる言葉を奏でた。

「これで……ちーっとは……母親らしいこと……できたかねえ……」

「ヴィヴィ……⁉ ヴィヴィアン!」

 力をなくした手にウィリアムが懸命に呼びかける。

 だが、彼女は穏やかな笑顔をうかべたまま、身じろぎもしない。

「おいてかないで…………かあさん……」

 少年の目から涙がぽつりと、傷ついて動かない唇に滴る。

 雫は迷うようにしばらく留まると、すーっとヴィヴィアンの口に滑りこんだ。あとを追って、いくつもの雫がかすかに開いた隙間に消えていく。


 ほの暗い月夜の中、破壊された古城で、少年はむせび泣いた。

 静けさがあたらしい一日の訪れをつつみ、戦場で涙をながす彼の邪魔をするものはいない。

 胸に抱いた人の、かつては麗しかった唇から、霧のような白い煙がわずかに溢れ出ていくのに、彼は気づかない。煙はモヤのようにすべり、半分が獣になってしまった体にまとわりつく。

 すると、体毛はみるみる短くなっていき、満身創痍ながらどこか艶めかしい肢体があらわれていく。

 周囲の狼人の骸を、かつて人だった者たちを、モヤはやさしく覆っていった。

 彼らが人の姿に戻っていくようすにも、うずくまる彼はまだ、気づいていない。

 そして、すぅっと煙が吸い込まれて、いたずらっぽくあがる口角に彼が気づくのは、もうすぐだ

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