五.望(ぼう)

「カーゴの準備は?」

「輸送機への積み込みは、六十秒以内に完了予定」

 男の質問へ即座に人工音声が報告する。ここは男の職務差、防音と防諜性に優れたあのブースだ。薄暗い一人用の仕切りの中、銀縁のメガネがモニターの明かりを反射する。

 複数のモニターの一つが切り替わり、偏平な形状をしたステルス機の後方が映る。下部ハッチに武骨なコンテナが積まれていくところだ。周囲に人の姿はなく、大型のマニピュレータと入り組んだレーンが、作業はすべてオートメーションであると示している。

 別のモニターでは、二十のステータスバーが一様に『SLEEP』と表示されていた。バーの下には個体識別番号IDが並ぶ。No.9のステータスのみ『ACTIVE』で、人ならざる激しいバイタルがモニタリングされている。各個のステータスの他、それぞれに五十個あまり甲虫のアイコンが点滅し、虫の列の上には〈INSECT〉と表示されている。

 No.9の虫アイコンをメガネの男がタップすると、分割されたモニターに黒い毛並みが映し出された。唸るような荒い呼吸音が男のブースに響く。

部隊長キャプテン、忘れるな。元に戻りたければ、子どもは生け捕りにしろ。部隊に八つ裂きにされても責任は負わない」

「グルルゥ……ホカノヤツハ?」

「きみらの任務はターゲットの殲滅だ。手強いが、一人だ……生死は問わない」

「フッ」と鼻をならしたのが了解の合図と見て、男が再度、モニターをタップした。

「……化け物め」

 別のモニターでは、『VOICE ONLY』とだけ書かれた灰色のアバターが四つ、作戦の進行を見守っている。その一つが声をあげた。通信は一方向に制限され、ブース内の音声は届かない。

「上級調整役、本作戦に政府および軍部は関与していない。よって、言うまでもないが、痕跡を残さぬよう」

「イェス、サー」

 聞こえていない相手に返事するあいだも、男の目は忙しなくモニターを行き来している。

「パッケージコンプリート。発進準備完了」

 機体のハッチが閉まると、一瞬、機影がブレて、姿がみえなくなった。最新鋭の〈インビジブル・ステルス〉は、たとえ鼻の先三十センチに駐機してあったところで、肉眼では気がつかない。

 モニターのチェックを終え、男が静かに宣言する。

「プロトコル〈魔女裁判〉を開始する」

 格納庫に刹那、プラズマが輝き、蒼い光が消えたあとはコンクリートの床しか映らない。

〈上級調整役〉はただ、感情のない目でモニターを見つめていた。


 * * *


 ヴィヴィアンの城の五階、臙脂色の絨毯を敷きつめた廊下に無数にある客室のひとつ。

 オーク調のドアの前でルーカンがノブに手を触れる。

「うっ……よい痛みだ」

 途端に全身を駆けめぐった魔法の奔流は、高圧電流に等しい刺激である。現に、上物のスーツが煙を上げて蒸発し、幾多の古傷にまみれた男の肌に焦げ痕を作っている。感覚をなくしつつある腕に力をこめ、神殿の石扉ばりに重みの増したドアを押し開く。

 ドアの表面に幾重にも張りめぐらせた魔法陣が三次元に複雑な動きをみせ、少しずつドアが開いていく。部屋に入るための鍵は必要ないとはいえ、厳重な封だった。

「ふう」

 ねじ込むようにしてわずかな隙間をくぐったルーカンの体は、さらに傷が増えていた。ほとんどは魔法陣をすり抜けたときにできたものだが、急ごしらえの監獄に一人分の通用口があっただけ、じゅうぶんである。

「よお、女王さま」

 自分の傷を気にかけるようすもなく、壁と同一化したドアを背に、ルーカンがとぼけるように部屋の中央で横たわる主へ声をかける。

「小僧の机に仕掛けてきたぞ……だから、ダイナマイトじゃあないから、そんな目で睨むな。オレが昂ぶるだろう? おまえの望みどおり、新品のリュックサック、魔法なしだ」

 室内の温度上昇で発火する前にルーカンが両手をあげてみせる。

「……そうかい。アタシは、あんたの冗談を真に受けるところだったよ……げほっ……」

 かすれた声に近づこうとしたルーカンを鋭い声が制した。

「くるんじゃないよっ! 時間を固定する魔法陣は不安定なんだっ! 踏みこんだらおまえがどうなるか……」

 仰向けでチャリチャリと鎖をならす魔女の言葉が咳に遮られて続かない。

 一瞬だけ立ち止まったルーカンが、まるで警告が聞こえなかったように、まっすぐ部屋中央のベッドへ近づいていく。

 天蓋をすべて取り払ったクイーンサイズのベッドとまわりの床には、ドアのものより格段に複雑な魔法陣が、絶えず形を変えていた。部屋の壁紙に刻まれた記号は狂ったように位置を入れ替え、黄金色の光を発している。

 銀河系を一室に詰めこんだような玉虫色の景観だが、それらが非常に脆い均衡で保たれていることは、肌をヒリヒリさせる濃度の魔力からもわかる。花火師の工房のように、少しのスパークで大惨事になりかねない。

「ヴィヴィアン」

 熟練の魔法使いでも二の足を踏みそうな空間を、破れたスラックスと傷口の痛々しい裸足が躊躇なく進む。

 おどけて両手を頭のうしろに組み、ベッドの脇にドスンと、ルーカンが腰かけた。

 首を浮かせて間抜けを見るような目から血の混じった涙がこぼれている。腕を伸ばし、そっと拭うとルーカンはよく動かない表情筋でニヤけてみせた。

「おまえが縛られている姿はひさしぶりだな」

「ルカ……おまえ……」

 味気もないグレイの囚人用の拘束着に身を包んだヴィヴィアンは、仰向けのまま四肢を頑丈な鎖につながれていた。血色が極端に悪くなり、至る所から灰色の体毛が生えた肌には、釘のような留置針がいくつも刺さり、宙に浮いた赤々と熱せられた輸液パックにつながる。透明なカテーテルを銀がながれ、ヴィヴィアンの静脈へ吸い込まれていく。

 純銀の点滴は想像を絶するほどに苦痛だ。しかも、伝承のように狼人を戻す効果はほとんどない。もって、一から二時間。実際のところは、正気を保つための苦痛増幅回路だ。

 だが、魔力貯蔵率が非情に高い銀は、一時的に魔力を蓄え、術の行使を可能にする。カートリッジのようなものだ。

 今宵は魔法の効果が高い満月。考えがあるのか、銀の注射は、ヴィヴィアンがルーカンに頼んでおいたものだ。理由はルーカンも尋ねないが、こんなときでもいろいろ準備するところが、いかにも魔女王らしい。

「小僧はさっきまでキッチンにいたぞ。次は掃除らしい。おまえ、いい召使い見つけたな」

「キッチンだって? スパイスの香りがすると思ってたら……火の扱いはまだ教えていないってのに……」

 チッチッチと舌を鳴らすルーカンにヴィヴィアンが露骨に怪訝な顔をする。

「過保護だな、おまえ。オレの頃はわざと火あぶりにしたくせに、小僧のことになると……やれやれ」

「ふふっ。あんた、もしかしてあの子に妬いてんのかい?」

「バカいえ」と吐き捨てるルーカンの表情はわかりやすい。

「……小僧、おまえにって、なんか作ってたぞ」

「アタシ、の……?」

 紺と黒を行ったり来たりする瞳孔を見ひらいて、ウィッチクイーンの薄い紫になった唇がかすかに動く。いっとき、羊皮紙のように乾いた頬がほんのり色づいたように見えた。

 ヴィヴィアンの前髪をそっと搔き上げてやったルーカンが肩をすくめる。

「風邪に効くレシピをテレビで見たらしい。小僧、偉そうに『ヴィヴィのぶんを作っておく』だとよ。だれに似たんだか」

 ウィッチクイーンの反応はない。魔女の王は唇をかんで天井を見つめている。

 時折、大きく吸いこむと、震えた息を吐いた。

「ウィリアム……」

 ヴィヴィアンの震えた声は苦痛のせいではなかった。彼女と数世紀を共にしたルーカンにはわかる。化粧っ気のないアイラインが潤んでいた。魔女王の涙は数えるほどしか見たことがない。

 認めざるを得ないが、ヴィヴィアンが苦痛に耐えていられるのは、彼女の頭にある少年のおかげだ。たった二ヶ月あまりの日々が、魔女王の心に変化をもたらしたらしい。


 あと数時間で日付が変わり、古代の手記が正しければ少年の水で呪いは解ける。たとえうまくいかなかったときでも、ヴィヴィアンは「ハッピーバースデー」を言いたいそうだ。だからいま、こうして進んで苦を負っている。彼女の意思は固い。

 治癒法を試す唯一のチャンスは、満月の今晩だ。

 無垢の子どもをもう一度だけ手に入れられる時間は、ウィッチクイーンに残されていない。この機会を逃せば、魔女王としての自我を失い、殺戮の限りを尽くすだけの獣となってしまうだろう。

 もはや、魔法をもってしてでも、狼人の呪いは止まらないところまで進行していた。

 そしてルーカンは、そのウィッチクイーンを消し去る任を負っていた。

 それが、かつてのルーカン少年に科せられた力の代償。

 ウィッチクイーンから世界を守る最後の砦。

 そのための呪文をウィッチクイーン自らが開発していた。その言葉はあまりに短く、ルーカンが忘れたことは一度としてない。

 だが、呪文を唱えることはないだろう。

 世界を天秤にかけたとき、ルーカンが大義を選ぶとヴィヴィアンは見込んだのかもしれない。

 だとすれば、ウィッチクイーン最大の見当違いだ。


 ヴィヴィアンの目から涙がつたい、シルクの枕に染みをつくる。

 その前に指で拭うと、ルーカンが静かに立ち上がった。

「……ルカ、もう一つ、頼みがある」

「はぁ、これから小僧を探して、絞っておまえのところに持ってこなきゃならん。忙しいんだぞ?」

「そのことなんだが、いよいよってなったときは、ウィリアムを連れて逃げとくれ」

「……なんだと?」

 おどけた雰囲気のルーカンの顔つきが変わる。

 体毛が伸びはじめた顔をヴィヴィアンがルーカンに向ける。

「やり方はわかるだろう、ルカ。距離があっても呪文は効く。それでアタシが死んだら弁護士と話して少し、生活費を出してやっとくれ。あとは行政庁のアランにも……」

「断る」

 今度はヴィヴィアンが顔色を変えた。

「……もう一度、言ってみな」

「何度でも言ってやる。オレは必ず、水を取ってくるからな。べつに殺すわけじゃないし、小僧もおまえを心配してる。条件はクリアしているんだ。なにを気にすることがある?」

「アタシはまだ、狼人だってこと、ウィリアムに話していないんだよ」

「つまりなんだ? 終わってから、いくらでも話せばいい」

「それじゃ、ダメなんだよッォォオ‼」

 ヴィヴィアンの声が突如、獣の咆哮に混じる。美しい顔の鼻が突き出し、狼の特徴を宿していく。

「―――!」

 とっさになにかの言葉をつぶやき、ルーカンがベッドを囲う檻のような魔方陣の一部をつかんだ。すかさず、引き締まった体から目視不可な圧力があふれ出し、ルーカンの膨大な魔力が立体魔方陣へ取りこまれていく。

 ルーカンの手が爛れ、顔を玉の汗が流れる。それでも、ルーカンは微動だにしない。

 黄金色に輝く魔方陣の中、ヴィヴィアンの面影が少しずつ人間へ戻っていく。魔女王の十八番であるこの魔法は、わずかに時へ干渉できるが、長続きはしない。一時的に肉体の時計を巻き戻せるが、狼人化の進行はそれより遥かに速い。

「ヴィヴィ……おまえの癇癪は……ハアハア……キツいぞ」

 肩で息をしながらルーカンがぐったりと床に膝を突いた。万が一に備えてやり方を教わっていたが、これほど消耗する代物とは知らなかった。

 ガチャと鎖をならしてヴィヴィアンが体を起こす。擦れた声は人間のものだった。

「アタシはね……嘘をつかないって、約束したんだ。だけど、狼人のことは言わなかったんだよ。だから……アタシはあの子に直接……謝らなきゃならないんだ。いいかいルカ、あの子にはアタシのこと、黙っておくれ」

「……わかった。元々オレはおまえの命令には逆らえないしな。終わったら、自分で話せ」

 両手を上げるルーカン。降参のポーズのまま、立ちあがって背を向ける。

「じゃ、オレは行くからな。おまえもいまのうちに休んで……」

「ルーカン、あんたあの子を……ウィリアムをそそのかすつもりだね? なにがなんでもアタシに水を届けるために」

 背を向けたルーカンにウィッチクイーンの声が突き刺さる。

「……そそのかしたのは、クイーン、おまえのほうじゃないのか」

「なんだって?」

「七百年前、言ったよな、『世界を救うチャンスをやる』と」

 淡々と話すルーカンの背中をヴィヴィアンがじっと見つめる。

「だが、それがなにを指すのか、契約するまで言ってはくれなかった……おまえを殺すことだ、って」

「わかっていたはずじゃないのかい? なにごとにも代償がつきもんだ」

「……わかるかよ、そんなもん」

 残酷なやつだな、とルーカンがため息をつく。

「世界を救うのと、かけがえのない人を手にかけるのがどう結びつくのか、子どもだったオレにわかるはずがないだろうっ!」

 向き直ったルーカンが吐き捨てる。

 珍しく怒りをあらわにした下僕へ、主人が静かに声をかけた。

「そうだねえ……あんたには酷な仕事を押しつけたよ。アタシが悪かった」

「ヴィヴィ……」

 思いがけない謝罪にルーカンが言葉を失う。

「けどねっ! それとウィリアムをだますのとは、べつだよっ!」

「小僧に損はない! おまえを助けるためとわかれば……」

「だからそれはアタシがやらなきゃならないんだっっ!」

 ヴィヴィアンの叫びが、再び獣の咆哮に変わっていく。

「ガッチャンッッ‼」

 成人の腕ほどもある鎖がいとも簡単にちぎれ、点滴が弾け飛んだ。

 散った液体の銀が湯気をたてて床を焼いていく。

「ヴィヴィアンっ!」

「グルゥ……くるなぁああ!」

 踏み込んだルーカンの動きが止まる。どんなに力をいれても体がびくともしない。

 魔法陣が目にもとまらぬ速さで三次元に回転し、天井まで達するオーロラの幕を生み出す。ルーカンが行使した術とは比較にならない規模だ。

「これは⁈」

 かつて一度、ルーカンはこの術式を見たことがある。魔女王に救われたとき、彼女が使った時間を局地的に止める超高難度の魔法。

「がっ……アタシは……あの子に、言ってやらなきゃいけないんだ……ハッピーバースデー……ぐっ」

 時間固定の魔法によって、ヴィヴィアンの周りの時の流れはほとんど停止している。痙攣するように毛深い腕が震え、一時的に人のものへと戻っていくが、また不気味に膨れあがる。

 ヴィヴィアンは立ち上がろうとするが、うまく立てない。負担が大きすぎる魔法と、体の中で荒れ狂う狼人の衝動のせいで、魔女の王はただうずくまっていることしかできない。正気を保っているのが奇跡的だった。

 そのとき「はっ!」と上を見あげたルーカン。

 魔法陣の切れ間をぬってヴィヴィアンに覆いかぶさる。

 直後、轟音とともになにかが天井を突き破った。

「ドゴォオン!」

 ベッドの真上を狙ったように城の屋根を貫通した落下物は、トラックほどもある黒一色のキューブ。漆黒の八角形にステルス性能をもたせるためか、表面は鋭利だ。

 由来を示すいっさいの標識をもたない巨大な落下物を、魔法で膨らませたルーカンの筋肉質な背中がかろうじて支えている。

 即座にウィッチクイーンが動いた。

「ふんばれ、ルカッ!」

 ヴィヴィアンが片手をさっと振る。落下物のキューブがふわっと浮き、倒れ込むルーカンをベッドへ横たえた。自ら嚙んだ痕の残る唇が次の術式を紡いだ。

 数トンはありそうなキューブが床を軋ませて転がり、壁に派手にめりこんで止まる。同時に取り囲むようないくつも小型の魔法陣があらわれると、衛星みたくキューブを周回し、表面に取り付いて覆い、完全に動けなくした。新しい魔法陣は壁の模様とあわさって、黄金色に光っている。

「ヴィ、ヴィヴィ……」

 体を起こそうとするルーカンを押し戻しながらも、ヴィヴィアンの目はキューブから離さない。

「少し休め、ルカ……コイツは抗磁力炭素有機物、か。無印で投下ってことは、"ROW-LAT(痕跡を残さず消しされ)"かい。見張られている気がしたわけだよ」

 ふん、と鼻をならすヴィヴィアンは、戦闘のときの表情だが息遣いがあらい。戦い好きな性格のおかげで、いまは狼人化は抑えているようだった。

 不適に笑ったウィッチクイーンの顔が一瞬で凍りつく。

 次の瞬間、空気のぬける音ともに黒いキューブが割れた。

「グゥルルッ……」

 キューブの黒より淡いアイビーグレイの体毛。前かがみでも二メートルを優に越す肩幅。

 突き出た顔はオオカミそのものだが、異様に血走った目は動物にはない憎悪に満ちている。

 サバイバルナイフのような爪をカチカチとならす手は、こびりついた血で汚れ、五指でいちばん短い親指だけが、かつては人間だったことを示している。

 赤い双眸が部屋の中央にいるターゲットに焦点をあわせた。

「ウォーォオオンン!」

 狼人が天にむかって哮(たけ)る。咆哮を合図に城の至る所で爆発音が爆ぜた。

 城を揺るがすオオカミの遠吠えが連鎖していく。

「ルカ」

「……小僧、だろ?」

 上半身を起こし、疲れ切った魔法使いが肩をすくめる。

 腫れたまぶたからのぞく目はいつものルーカンだった。

「……頼んだよ」

「無茶しすぎないでくれよ、女王さま」

 ふっと、小さく笑ってうなずくと、魔女の王が片手を横になぎ払った。

 すべての魔法陣が刹那、動きをとめ、逆方向に回転していく。

「おっと。そっちじゃあないよ」

 部屋の入り口にむかうルーカンへ狼人が襲いかかる。

 だが、いつの間にか千切れたヴィヴィアンの鎖が、狼人の胴体に巻きついていた。身をよじらせるほど、強く締めあげてくる。

「いけっ、ルーカン!」

 鎖の端を握ったウィッチクイーンが合図すると、ルーカンの姿が部屋から消えた。バタッと音を立て閉じたドアに魔法陣はない。壁の模様も輝きを失い、室内の魔法が薄らいでいく。

「キャンッ……!」

 ルーカンの姿を追った狼人が視線を戻したときには、オオカミのかぎ爪が目の前に迫っていた。

「グゥルルッ」

 白に近い灰色の体毛の狼人は、床に転がった同胞を見向きもせず、腰をかがめて高く咆えた。

 澄んだ遠吠えはどこか悲しく、胸を締め付ける旋律で城を満たした。

 ムーングレイの人狼が駆け、部屋の壁を易々と突き破っていく。


 天井の穴から月光がベッドシーツを淡く照らす。

 水たまりのような光のなかで、砕けた指輪の金色のオオカミが虚しく輝いていた。


 * * *


 ウィリアムは、人の『真』と『偽』がわかる力をもっていた。

 直感や勘といった、不確かなセンスではない。魔女の王が〈トゥルース・ファインダー〉とよぶ本物の力である。

 相手がうそをついているかどうか、ウィリアムには、自分が生きているかどうかと同じくらい、手に取るようにわかる。だれからも(生物学的親からも)力のことを教えられたことはないが、物心がついたころにはすでに、『大人』の上辺にはうんざりしていた。

 新しい継母も同じだ。最初はウィリアムもそう思っていた。

 会ったときから、年齢不詳で(少なくとも本人がいう二十代ではない)年代物の指輪をはめた、CEOの肩書きをもつ淑女を装った彼女が、慈善や寂しさから養子縁組を望んだのではないと、ウィリアムはわかっていた。

 だいたいの里親はそんなものである。そして息子に、うそも方便も通用しないとわかると、役所に連絡がいく。「あの子、うちには合わないようなんです」とか理由をつけ、『さよなら』するのだ。

 城に住んでいる今度の里親も、似たようなものだと踏んでいた。

 真正直に自分の目的を告げてくるまでは。


「うわわっ! お尻が!」

 秘密の地下道にウィリアムの叫び声が木霊する。

 座った姿勢で石のスロープを引きずられているウィリアムのズボンはすでにボロボロだ。螺旋に下りていく坂はかなり長く、たいまつが途切れる気配がない。後ろからはドレッサーが無慈悲な壁になって押してくる。

 坂が直線になると、突き当たりに白いものが見えた。

「ほ、骨っ⁈」

 動物図鑑をよく見ているウィリアムには、石造りの地下道に溜まっている白いものが動物の白骨だとすぐにわかった。ウサギの頭蓋骨から棍棒のような太い正体不明の骨まである。

 そして突き当たりの壁に無数の棘が獲物ウィリアムを待ち構えていることも。

「ガシャーン‼」

 背後のドレッサーが砕け散るや、冷気が急激に流れ込んでくる。ウィリアムの手足を縛っていたヒモが徐々に凍って、仕舞いには氷のように砕けた。

 バランスを崩し、針のむしろへ頭から落ちていくウィリアムを、太い腕が引き留めた。

「死に急ぐのは止めんが、小僧。あの方との約束を忘れたのか?」

「ルカ⁈」

 ウィリアムの足をつかんで逆さにぶら下げたルーカンが眉間にシワを寄せる。その背後では地下道がすっかり氷に覆われ、天井から氷柱が突き出していた。

「軽々しくよぶな。これだから子守りは嫌いだ」

「わわっ⁉」

 ぼやきつつ、ウィリアムを振り回すとルーカンが肩に担いだ。目を回しながらもウィリアムはルーカンの異変に気づいた。上等なスーツがところどころ破れ、赤いシミが付いている。普段より、さらに雰囲気がとげとげしい。

「ルカ、服、どうしたの? ここは? あの氷はルカの魔法?」

「質問が多いぞ。敵がいる。いまはヴィヴィが食い止めているが……」

 くぐもった爆発音がルーカンの言葉を遮る。地下道が揺れ、氷柱がいくつか落下して折れた。続けざまにゾッとするような獣の鳴き声がし、ウィリアムの声が震える。

「いまのなに? あの人はだいじょうぶ?」

 ちらりとやったルーカンの目が迷うように揺れている。こんなルーカンをウィリアムは見たことがない。ひときわ大きな遠吠えが地下にまで響くと、ルーカンは棘の罠に背を向け、ウィリアムを担いだまま凍った道を上り始めた。

「ねえ……」

「小僧、じき約束を果たしてもらうぞ」

 そう言うなり、魔女王の右腕である魔法使いは一気に加速した。

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