三.若月

 ウィリアムは魔法使いではなかった。

 九年の人生でおおよそ、魔法といった類いに接したこともない。

 もちろん、魔法の概念くらいは聞いたことがあるものの、過酷すぎる過去のできごとが、彼にとっての魔法をただのお伽話以下に定義付けたことは間違いない。

 魔女王のヴィヴィアンが求めていたのは、まさにそういう子どもだった。

 ウィリアムの行方不明になっている実親と、存命中の数少ない近縁者の血筋を、気が遠くなるような過去にまでさかのぼり、彼の血縁に魔法使いの痕跡がないか、ときにカネで、ときには人脈を駆使し、そしてまたあるときには実力行使に踏みきって、魔女王は念入りに確かめた。

 半年間にわたるリサーチで、諸々の魔法・非魔法、恫喝に説得、権謀術数のかぎりを尽くし、魔女王が導き出した結論は、白。

 つまり、ウィリアムは魔法の「ま」の字も関係ない、純粋な子どもである。

 これこそ、最低限にして不可欠の条件だったが、彼女の目的達成には、もう一つ足りない。

 対となる片側の条件をクリアするため、魔女王は彼の機嫌を取る作戦を決行する。そうすることで彼が喜び、心を開く可能性が高くなる。そして彼が進んで己を捧げたとき、魔女王の願いは叶えられる。

 ウィリアムの誕生日まで、残り二ヶ月足らず。

 だが、まがりなりにも母となり、あの手この手でやりこめようとする最強の魔女を待ち受けていたのは、そんな、ごまかしがいっさい通用しない息子だった。


「さっ、ウィリアムぅ~、ここがわが家よ~。といっても玄関だけどっ」

 城門に近いローズウッドの重厚な門を触れずに押し開け、ヴィヴィアンがハイテンション気味に腕をひろげた。対して、片手をつないだファンシーな狼のヘルメットが酔ったようにふらついている。二人の後ろで、石畳にくっきりタイヤ跡を残して玄関前へ横付けした真っ赤な大型バイクが、音も立てず独りでに裏のガレージへと向かった。

 玄関は、二階建ての一軒家がすっぽり入りそうなほど広く、カーディフ市役所のホールよりも大きい。はるか頭上まで吹き抜けが続き、曇り空の薄陽がそそぐ。

 ホールの両側には左右対称の、二階、三階とさらに上階まで駆け上がる大理石の階段が、神殿の支柱よろしく、そびえている。正面の奥には中庭らしき緑色も見えるが、距離がありすぎてはっきりわからない。

「このおウチにはね、わたくししか住んでいないの。召し使いはいないから気兼ねしないで。ウィリアムのお部屋は西の塔にあるわ。マミーといっしょにいきましょ。あらま、ヘルメット忘れてたわね」

 わざとらしく口元を手で覆ってからヴィヴィアンがウィリアムのヘルメットを外した。少し青ざめた顔がいっそう、しかめっ面を際立たせている。ヴィヴィアンとしてはかなり安全運転で帰ってきたつもりだが、敷地内に入ってからのカーブで少々、はしゃぎすぎたかもしれない。

「ツーリングは楽しかったかしら? あらあら、顔色がよくないわね。お城の探検はあした以降にしましょう。まずはお部屋でゆっくりね」

 放ったヘルメットを平然と虚空へ消し、ウィリアムの手を引いて左翼へ向かう魔女。抵抗を感じて見下ろすと、眉間の寄った幼い顔がじっと、見つめていた。

「……あなたは魔女?」

「は?」と、思わず出たドスのきいた声を、あわてて「えっ? なんのことかしら」とかわいく首をかしげるヴィヴィアン。そんな魔女王を睨めつけたまま、か細い声が「うそつき」と非難する。

 咳払いし「あのね、アタシは……」と口を開きかけたとき、ふいにヴィヴィアンの手元が光だした。小指のリングは直射日光を浴びたように一瞬、強く輝くとなにごともなかったように沈黙した。

「いまになってノコノコと。なにが目的だ……?」

 顔をあげると、ウィリアムの部屋がある城の西側へヴィヴィアンが目を細めた。その眼は普段通りの碧眼だが、どこか怒りを帯びている。

「どうしたの」

 力が入るヴィヴィアンの手にウィリアムが首をかしげる。質問には答えず、ヴィヴィアンが屈んで目線をあわせた。

「いいかい、坊や。部屋から出るんじゃないよ。妙な音がしてもドアを開けるんじゃあない」

「でも……」と続けるウィリアムの声を今度は、どこからともなく流れてきたクラシックが遮った。

「まったく。次はルカかい。急用以外はかけてくんなって言ったじゃないか」

 ブツブツとつぶやいて立ち上がるなり、ヴィヴィアンが大儀そうに片手を翻した。

「ルカ、間違えたって言ってみろ。串刺しに……コホン。で、なんだい?」

 宙から現れたホタテ貝をパカッと開け、ディスプレイを薄目で見下ろす。口が滑りかけたが、低い目線を感じてごまかした。

「……贄を確保したようだな」

 二枚貝型通信機の皮肉たっぷりの男の声に、「ニエ?」と首をかしげているウィリアムを「あー、ま、とにかくいこう、ね?」とリュックを叩いてさきを急かす。幼いながらも通話中なのがわかったのか、素直にトコトコ歩きはじめる。

「用がないなら切るよ」

「あるぞ。仕事だ、ヴィヴィ。あっちのな。おまえのルビーがさっきから鳴りっぱなしでうるさくてやれん」

 チラチラ見あげてくるウィリアムに例のウインクを返し、ヴィヴィアンが二枚貝の内側を触れる。貝殻をさらに大きく開いて音のしなくなった受話器を耳元に当てた。

「続けてくれ」

「おまえの見立てたとおりだ。やつらは居場所を探るのに躍起らしい。おまえが作らせたルビーから定期的に位置情報を送りつづけてる。プライバシーに関していうなら、そこらのスマートフォンのほうがマシにみえてくる」

(アタシが迂闊だったねえ)

 城の廊下を進みながらヴィヴィアンが心の中で毒づいた。油断したように見せかけるつもりが、本物の墓穴を掘ったらしい。『魔女も亡者に喰われる』というやつだ。

 ヴィヴィアンの心を読んだように、

「おまえの派手さは昔からだからな。遅かれ早かれ、やつらに見つかったろう。あのときの大暴れはなくてもな」

「二言おおいね。で、他には?」

「ラボによると、不活性化実験はすべて失敗した。試していない配列のパターンはまだあるが……総当たりする時間はないのだろう?」

「……あんたはそういうタイプだったねえ」

 舌打ちを我慢したヴィヴィアンがT字路で左を指さした。少年の顔に明らかな疲れと苛立ちが浮かんでいる。通信機を離し、「おぶりましょうか」と尋ねるとウィリアムはブンブン首を横へ振って早足にヴィヴィアンが指したほうへ行ってしまった。

「走ったら危ないわよウィリアム! ……ったく、トラップをオフラインにしなきゃならないじゃないか」

 舌打ちしつつ、ヴィヴィアンが二枚貝に挟まれた画面を右へスワイプする。ホログラフィよろしく宙に浮かんだのは城の立体見取り図で、灰色の背景に赤く点滅している髑髏がトラップだ。女王《クイーンの冠マークが現在地を示し、王冠の少し先を羊のイラストが飛び跳ねている。入り組んだ廊下の先で点滅するトラップをヴィヴィアンが指でなぞって緑のスマイリーに変えていく。

 その突き当たりには、『CR』と書かれたドアがあり、角を生やしたひときわ凶暴そうな髑髏の群れが囲んでいる。

「檻をこっちにするんじゃなかったねえ。かといって今さら引っ越しは逆に怪しいだろうしさ」

 ヴィヴィアンの自宅兼、城は元々、監獄として設計されている。内部には逃走に役立つあらゆる魔法の作用を阻害する陣が、石の一つ一つから燃え尽きることのないロウソクの一本一本にまで織りこまれている。逆に、入ることに関してはまったくの無防備といってもいい。この城の中で物体を魔法で動かすのは、魔女王でも骨が折れる。

 羊のマークがそれほど先へ行っていないことを確かめ、ヴィヴィアンが二枚貝を耳へ戻した。すぐに、似てもいない声真似がその言葉を繰り返した。

「『おぶりましょうか』、か。ふん。演技とはいえ、まさかおまえの口からそんなセリフを聞くとはな。母親になりきっていたぞ。それとも本心か?」

「……妬いてるね、あんた。もしかして、久しぶりにじっくり焼いてほしいのかい」

「バカいうな。オレが九歳の小僧に嫉妬するか!」

 どこかしか人を見下したところのあるルカの声が上ずっている。人前ではいくらでも顔を作れるが、魔女王の前ではそうもいかない。このところ、構ってやれない日々も続いたし、一件が片づけば褒美の一つでもやってもいいかもしれない。どちらも生きていれば、だが。

「へえ、そうかい。ま、そういうことにしとくよ。じき、行くから先走るんじゃないよ」

「子守りにめり込むなよ」

 ぷつりと切れた二枚貝をヴィヴィアンがライダースーツの内側へと仕舞う。まもなく、廊下の先でドアの前に突っ立った小さな人影が見えてきた。空色のダウンジャケットが正面のドアではなく、廊下の奥を向いている。

「ウィリアムぅ〜、そこがお部屋……」

 刹那、魔女王の鋭い感覚が警告を発する。粘りつくようで、それでいて人を人とも思わない絶対零度の視線。魔女王が唯一、絶対にかなわないと骨の髄まで叩きこまれた存在感。

 焔が渦巻き、ヴィヴィアンの背中へ回した左手に細身の両刃剣として顕現する。時間にして二〇〇ミリ秒足らず。さらに半分ほどの時間をかけ、ヴィヴィアンが流れるようように体を回転させ、しなる腕から両刃剣を投擲。紅蓮の矢は一直線に廊下を貫いていく。ウィリアムの後頭部ギリギリを通過する矢だが、本人を掠めることは決してない。

 明確なターゲットを狙った必殺の一撃は、だが失敗した。

「ダンッ‼」

 廊下の壁を容易く貫通するはずの一矢はモスグリーンの壁紙にダーツの矢よろしく、鈍い音を立てて突き刺さっている。薄く鋭利な刃には血の一滴はおろか、物体に触れた跡すらない。ただ紙のような刃先に十字の王冠がずらりと並んでいた。バランスを取って刀身へ載るキングのシンボルは女王クイーンを嘲笑うように左右へ揺れる。

「……目立ちたがり屋の老いぼれめが」

 ヴィヴィアンがいまいましく手を振って両刃剣を消すと、王冠も落下。だが、床へ着く寸前にこちらも消えてなくなった。

「なんだったの、いま? あっちにおじいさんが居て、じっとぼくを見てたよ」

「あら、それはこわいわね」

 珍しく興奮した口ぶりのウィリアムから廊下の先を遮るように立ち、適当に相づちを打ってごまかす。あれは説明できる類いではないし、そもそも忘れてしまいたい過去など、話したくもなかった。

「ねえ、その手……」

 ウィリアムに言われてはじめて、ヴィヴィアンは左手が震えていることに気づいた。とっさに右手で押さえると、その手の甲から灰色の体毛が生えていた。城の中で無理に魔法を行使した跳ね返りだ。

「あ、ああー、ほ、ほら、お城って冷えるでしょ。ウィリアムも寒くなあい?」

 ダウンジャケットの肩をやたらスリスリしながらメイクの魔法で獣毛を透明にする。大掛かりな術を行使するのは控えたほうがよさそうだった。

 大げさにスキンシップしだした継母をジトッと眺め、「ぜんぜん。あちこちに火があるし、暑いくらい」と首を横へ振るウィリアムの額に前髪が貼りついている。

「そ、そうね。気がつかなかったわ。ささ、お部屋に入って着替えましょ。風邪でも引かれちゃ大変」

 名前入りのプレートが掛かった如何にも子供部屋らしい、淡色のドアノブに手を掛け、半ば強引に室内へ押しこむヴィヴィアン。ウィリアムの「本音とうそが混じってるよ」というため息は聞こえなかったことにした。

「ジャジャーン! どう? ここがウィリアムの部屋よ」

 室内の明るさに一瞬、怯んだが、目が慣れてくると思わずウィリアムの顔がほころぶ。

「わあ……」

 役所で割り当てられた部屋より、倍はある室内は図書館のようだった。窓を除くすべての壁に本が並び、一度だけ連れて行ってもらった本屋のように、書見台で表紙がこちらを向いている。台のあいだにも大小の背表紙がひしめきあい、まるで本棚の壁だ。

 一面だけ、天井まである窓は、薄曇りにもかかわらず、やけに明るい。階段を上った覚えはないものの、部屋は二階より高く位置するらしく、玄関ホールでちらりと見た中庭がここからならはっきりと見えた。入り組んだ生け垣と芝生のシンプルな庭園で、手入れの行き届いた緑が緊張した気分がやわらげてくれる。迷路のような生け垣の中央には、背高の噴水が絶えず水を吹きあげ、ウィリアムが見ているあいだも、あり得ないほど広範囲へ水を撒いていた。魔法のスプリンクラーを兼ねているらしい。天辺から段々と裾を広げる水盤がくすんだ光沢を出していた。

「なんでも揃ってるから自由につかって。トイレとシャワーはあっちね。ウィリアムはご本が好きでしょー? ママはこれからちょっとお仕事があるから、ディナーはキッチンのオートクッカーで済ませていいからね。お菓子だってすぐ作ってくれるわよ〜?」

 早口なヴィヴィアンが次々と指さしていくたび、ウィリアムはすぐにでも隅々まで見て回りたくなる。彼女が用意してくれた部屋はまさにウィリアムが夢描いたとおりだった。

 行政庁の部屋が嫌いだったわけではない。少しでも過ごしやすいよう、アランはできる限り普通の子供部屋らしく手を尽くしてくれたのはウィリアムにもわかったし、同室の子たちも仲良くしてくれた。それでも、おぼろげにしか覚えていない一人部屋はあこがれだった。それに、休日のたび里親たちの元へ引き取られていくルームメートの笑顔が、ウィリアムにはいつも少しばかりまぶしかった。

「じゃ、お留守番しててね。ママ行ってくるから」

 足早にドアを閉めようとするヴィヴィアンの声にウィリアムがハッと、振り返った。

「ママじゃない。……ぼく、ずっとここにいるの」

「ええ、そうよ」と言ってからヴィヴィアンがしゃがんで目線をあわせる。

「きょうは、っていう意味ね。このお城は古いから、いろいろ出るのよね。ウィリアムもさっき、青ローブ見たでしょ」

「そんなこと、いってないよ」

(げっ)

「コホンッ……と・に・か・く!」

 寄り目になるくらいウィリアムの鼻先で人差し指を立てる。

「お部屋で待ってること。いい? 帰ってきたらすぐ、ママが行くからね」

「……わかった」

(おや。ずいぶん聞き分けがいいじゃないか。履歴書は誇張だったのかねえ)

 挑むようだったウィリアムの目は今、窓に向いている。表情は穏やかで好奇心を堪えた少年、といったところだ。けれど、幾千の人を見、腹の探り合いを勝ち続けてきた魔女王の勘が違和感を告げる。勝負を左右するわずかなサインだ。

 だがサインに気づくより早く、例のクラシック着信音が魔女王を急かした。

「おっと……明日はクリスマスイヴだから、ゆっくりお話しましょ。きょうお利口にしてたら、ママ、すっごいプレゼント買って……」

「そんなのいらないっ」

「おっ⁇」

 いきなり叫ぶと、ウィリアムがヴィヴィアンを廊下へ押しだした。されるがまま後ずさると、目の前でぴしゃりとドアを閉められてしまった。まるで思春期の子どもに追い出された親だ。さすがの魔女王も引きつった頬がピクピクしている。

「あ、アタシを拒むとはねえ」

 今すぐドアを蹴破って説教してやりたいが、ぐっと堪えた。今は時間がない。ルカは待たせたところで勝手に悦んでくれるが、彼らは放置されて嬉しがるタチではないだろう。

 それに、九歳の子ども相手でムキになるのは、いささか大人げない。

「はいはい、いくよ。それで……」

 二枚貝の通信機をスーツの中から取りだし、ヴィヴィアンが耳に当てる。城の出口へ歩いていくその姿に焔を纏い、ライダースーツが紅蓮へと変わった。マントよろしくなびいたグレーの長髪が魔力にふわりと浮かんで、魔女王の仕事モードをあらわす。

 近づく主を検知し、正面玄関の門がうやうやしく道を空けた。門の外で待つは真紅のスーパーバイク。テクノロジーと魔法を組み合わせたフルチューンの大型二輪が独りでに哮り、主人の到着を喜んでいる。

 夕暮れも近い城を後に猛々しいエンジン音が遠ざかっていく。その音は城の中のウィリアムの部屋にも届いていた。

 上着を脱ぎ、リュックサックから昨日アランにもらった栄養食をちびちびかじった。新しい部屋はとても興味があるけれど、ウィリアムはまだ警戒心を解いていなかった。

「うわっ」

 背もたれにしていたドアが音もなしに開いてウィリアムが廊下へルカり打った。これも仕掛けかとウィリアムが体を固くするが、なにかが起きる気配はない。鍵を掛け忘れただけらしい。やたら長い廊下の壁にはロウソクが等間隔に点き、城にしては明るい。ヴィヴィアンがいなくなると、城は水を打ったように静まり返っていた。

 むっくり体を起こすと、残った栄養バーを口へ放りこんで立ち上がる。残ったぶんは叩いて砕き、道しるべにする。

「あんなうそつきのいうことなんか、しらない」

 ウィリアムがそう自分に言い聞かせると、リュックサックを背負って部屋の扉を閉めた。新しい里親はたくさんのことを隠している。魔法が怖いとウィリアムは思わない。キッと挑むような目は、うそつきな里親の鼻を明かす決意に満ちている。

「まずは城の探検だ」

 つぶやくとウィリアムはまっすぐ歩きだした。

 少し離れたところに、浅黒い肌の大男が立っていることに少年は気づかない。

 目と同じローブを羽織った大男は、ウィリアムが玄関のほうへ歩いていくのを認めると、すっと姿を消した。


 ロンドンの中心、かのビッグベンも見わたせる世界有数の都市で、ひときわ天を穿つような摩天楼が〈ルナ・レポルム〉の本社ビルだ。陽が暮れたいま、その二重螺旋をかたどったガラス張りの高層建築物は首都の煌びやかな夜景をしずしずと映す鏡のごとく夜闇にしずんでいる。

 最上階の一角は、気まぐれな最高経営責任者CEOの憂さ晴らしに備え、だだっ広い空間が広がっている。全方位をガラスに囲われているが、外から見えることは絶対にない。

 フロアの隅に気持ちばかり半透明なパーティションで仕切られた簡易オフィスがあり、ルカこと、ルナ・レポルム社最高財務責任者CFO、ルーカン・ドウェムルダが質素なチェアに腰かけ、膝に置いたラップトップに目を落としている。ストライプのポロシャツにスラックスというシンプルな出で立ちだが、無駄のない肉付きがまるで思考に耽る銅像のようだ。腰のベルトには液体のたゆたう細く青い水晶がぶら下がる。ルーカンの真剣なトビ色の目は三十代に見える彼をより思慮深くみせている一方、いたずら好きなワンパク坊主のようでもある。

「情報提供者を知ったらあいつの頬、ヒクつくだろうな」

 仕事は山積みだが、会社の書類をここに持ち込むのは控えている。焦げた収支報告書の言い訳を考えるのはいつもルーカンだ。そして彼の仕事は、企業の財務担当だけではない。

 わずかな空間の揺らぎを感知し、ルーカンがラップトップを畳んで立ち上がった。

「ルゥカッ!」

 フロアのほぼ中央に突如、灰色の人影が出現し、やたら聞き取りにくい声で彼を呼んだ。獣と人が混じったような声の主は、身長が二メートルを超え、全身をアッシュグレイの体毛が覆っているものの、緑がかった瞳の色は紛れもなくルーカンの上司のものだ。

 狼人の着地で対衝撃用に設計した特殊装甲床がトタン板のように窪む。最上階の真下は緩衝区域として設計図にも載せていないから被害は物損だけだ。

「やれやれ。また諸経費が増えるな」

 修理費を計算しながら大企業のCFOはため息をつく。ラップトップを椅子へ置き、パーティションを回りこんで上司の元へ歩いていく。素足はまるでなめし革だ。

 ベルトのクリスタルを一本、引き抜くとうずくまる毛皮めがけ、投げつけた。

「グルゥゥ……」

「一本ではもう効き目が薄いか」

 空になったクリスタルは投薬の済んだ証だが、体に変化は見られない。刺さった容器を投げ捨てる狼人を前に、ルーカンはバランスシートを検証するように淡々と結果を分析する。

「おまえ、酒には弱いくせに〈シルバー・ウィスキー〉は素面かよ。きょうはたっぷり飲ませてやるから今度、オレに奢れよな」

〈シルバー・ウィスキー〉のクリスタルを次々ベルトから抜き取って、その先端をつなげていく。ルーカンの指が触れると、クリスタルにヒビが入り、二つの容器がパズルを組み立てるようにして伸長していく。

「グォオオオ‼」

「ほいほい、相変わらず人使いの荒い女王さまだ」

 一直線に突進してくる狼人を余所目に、ニィっと口元を歪ませるルーカンは悪童のような顔をしている。すべてのクリスタルをつなぎ終えると、人の背丈ほどの青い槍ができあがった。腰だめに構え、ルーカンが一歩、踏み込む。

「グォオ……あんた……」

 特殊装甲床を同じく凹ませながら跳躍したルーカンの槍は、毛皮を貫き、狼人の肉へ到達。だが、その身を貫通はしない。これは注射であって、殲滅ではない。だが、自我を失った狼人に力の加減はできない。

「ぐっ……今ので何万ポンド、飛んだ、んだろうな」

 灰色の毛皮へ縮んでいき、艶やかさが戻った肩を抱きしめるルーカン。耳元へささやく口の端から赤い筋が流れ出していた。

「……おかえり、ヴィヴィ」

「ルカッ⁉」

 倒れこんだルーカンの顔は、いたずらが成功したときのように満足げだった。


「まったく、アタシの爪に飛びこむバカがいるとはねえ。銀が効かなかったらどうするつまりだったのさ」

「それはそのときだ」

「ふざけるんじゃないよっ! アタシを止めるのがあんたの仕事だからね」

 最上階のフロアであぐらをかいて座るルーカンを、ヴィヴィアンが顔をしかめて見下ろした。狼人化した魔女王の爪に切り裂かれた腹の傷はふさがり、引き締まった腹筋が破れたままのシャツから覗いている。人間へ戻ったヴィヴィアンは眉をひそめながら、堂々と裸体をさらしている。

 ルーカンの特性ユニーカは〈リーダーシップ〉。彼は自身の細胞にまでユニーカを適応することで、致命傷さえ止血し、自己治癒を促進させる。ヴィヴィアンの呪いも初期はルーカンの特性で抑えられたものの、呪いは適応力が高いらしく、今ではまったく魔女王には効かない。

 見事になだらかな腰へ手を当てる魔女王を見あげ、しもべは珍しく眉をつりあげた。

「オレのユニーカはもうおまえに効かないんだ。だのにどうしろって? 地球上すべての核でも集めてこいってか?」

「そいつもいいけどねえ……」

 わざとらしくアゴへ手を当てながらヴィヴィアンが腰を屈めた。耳元に迫るその妖艶な笑みは暗闇と街の灯りに余計、息を呑むほどに美しく残酷だ。

「あんたの特性は、このアタシには効かないが、あっちのアタシには通用するんだ。あんたはただ、毛むくじゃらのアタシの脳に血を集めればいい。それでアタシの脳はうっ血して動きが弱まる。あとは煮るなり焼くなり、どうとでもしとくれ」

「おまえな。そんなこと、オレがすると思ってるのか」

「ああ、もちろんさ。女王さまの命令だ。這いつくばってよろこぶだろう? ルカ」

 唇を寄せるヴィヴィアン。魔女王の誘惑に抗える者はそういない。

 ルーカンが数少ないその一人だ。

 ヴィヴィアンを押しのけ、パーティションのほうへ歩いていくルーカン。先ほどの戦闘で仕切りに亀裂が入ったが、椅子に置いたラップトップは無傷だ。

「……これを見ろ」

 ヴィヴィアンのところまで戻ると、ディスプレイを指さした。傷ついた表情をしてみるも、ルーカンは「早くしろ」とばかりに目で訴えている。

「やれやれ。で、これはなんだい。……⁉」

 おどけたヴィヴィアンの目が一気に魔女王のものに変わった。

「おまえのその顔、ということは、やはり気づかなかったんだな」

 ラップトップの映像は部屋を俯瞰する角度で撮られている。八分割されたカメラはいずれも、魔女王が捜索にあたったテロリスト〈コンクレオ〉の隠れ家を映しており、配置からして事前に仕込まれたことは間違いない。

「連中、やつの居場所を知っててアタシに……⁉」

「確証がつかめなかったんだろうな。だがおまえが現れたことで確定したわけだ」

 無音のビデオでは、真っ赤なライダースーツの魔女王がホログラフィを踏み越えて、コンクレオのテーブルに立つ場面になっている。コンクレオの正面、芸術品に仕込まれたカメラが征服者の仰天した顔をワイプで映している。

 ルーカンがテロリストへ同情する口ぶりで、「これはビックリするだろうな。オレも最初はインタラクティブなホラー映画かと思ったぜ」と肩をすくめると、目を細めたヴィヴィアンが「じゃ、今度はそうしてやるよ」と無機質に言ってみせる。

「おお怖っ。それで問題は、ここじゃなくて……」

 ルーカンがトラックバックに指を走らせると、映像が早送りになり、コンクレオの蔵書を値踏みする魔女王がちょこまかと動いた。

「ルカ、アタシがこの気取り野郎を殺ったのは、ちゃ〜んと理由があったんだよ。あんたもそれはわかって……」

「コンクレオの死はどうでもいいが、おかげで残党狩りの任務が増えたろう? おまえが例の日記をかすめ取るためだったってのは理解できるが、力をつかう頻度が増したんじゃ、本末転倒だろう」

 ルーカンの指摘はもっともだった。ヴィヴィアンが蛇の頭を潰したことで、〈宵闇の宣託者〉は瓦解し、世界中に散らばった残党たちを各国が血眼になって探している。下手人である魔女王もつい先、その任から戻ったばかりだ。

「そして、おまえに任務を与えた連中は、おまえの目的を知った」

 ルーカンの指が止まると、ビデオに宙に浮かんだ魔女王の背中が映っていた。この角度から手元は見えないものの、ルーカンがワイプを切り替えるとヴィヴィアンの真上に視点が移る。カメラには青銅色の古本を手に微動だにしない魔女王がハイビジョン画質で映っていた。

「おまえがカメラに気づかなかったのは意外だが、書いてあることはそれくらいインパクトがあったから仕方ないだろうな。このシーンは最高機密のさらに上、『存在しないNon est』に保管されていたそうだ。解析に回したログもある」

「……待っとくれ」

 魔女王がルーカンに向き直る。

「そんなトップシークレットの情報、どっから手に入れた?」

「タレコミに決まってるだろう。オレにハッキングの特性はないからな。元祖〈ウィザード〉からのクッキーだ」

 あっけらかんと肩をすくめる部下にCEOの頬が盛大にヒクついていた。


 時間は遡り、午後のヴィヴィアン城。低いバイクの音が聞こえなくなって少し経った頃。

 ウィリアムの意を決した探検は早速、困難にぶち当たっていた。

「あれ? まただ」

 柔らかなブロンドの頭が前後を見回す。前も後ろも深緑の壁が続いていた。天井から一メートルほど下がった燭台には、ウィリアムの腕ほどある太いロウソクが等間隔で揺れている。風は吹かないのに、時々、チロチロとこうやって火が震えるのだ。

 ウィリアムが歩いているときはそうでもないのに、立ち止まった途端、からかうようにロウソクの火が揺れる。そのたび、だれかに見られている気がしてウィリアムは周囲を見回すが、だれもいない。まるで見えないだれかと隠れんぼしているみたいだ。ウィリアムに隠れるつもりはなくても、向こうは顔を出してくれるつもりはないらしい。

 そうやって歩いては止まり、首をかしげてはまた進んでという具合だったので、部屋からいくらと離れていないはずだった。けれど、試しにウィリアムが引き返しても、名札の掛かったドアは見つからない。似たようなドアはいくつもあったが、開ける勇気が出てこない。

 理由は絨毯だ。

 廊下の端から端を覆っている短毛の赤い敷物は、カーペットみたく薄い。ウィリアムが触ると、玄関マットのようにザラザラとしていた。だが、ウィリアムが道しるべにと、砕いた栄養バーの欠片を落とした途端、絨毯のその部分だけ波打ち、静まると欠片はどこにも見当たらなくなっていた。

「……底なしぬまだ」

 生き物のように動く絨毯を思い出しただけでウィリアムはゾッとする。図鑑に載っていた、迷い込んだ動物を沈めていく森のぬかるみに似ている。

 実際には、ヴィヴィアンが『自動掃除絨毯』と呼んでいる魔法の道具で、『汚れをはらう』機能を持っている。はらった汚れがどこに行くのか、なにをもって『汚れ』と判断しているのかは魔女王も知らないのだが、牢獄の仕掛けには違いない。そんなことはもちろん、ウィリアムの知る由もない。知れば一歩も動けなくなるだろう。

 幸い、魔法の絨毯はウィリアムを『汚れ』と認識しなかったので、歩き続いても安全そうだ。

「あの人、魔女、だ」

 独りごちるウィリアムに答える者はいない。あの人、とはもちろんヴィヴィアンのことだ。

 古くから魔法の伝承が残るウェールズで、自称"魔女"は少なくない。ウィリアムが六歳の頃、里親になった中年女性も、自分は魔女だと言い張ったけれど、いろいろな黒魔法ウィッチクラフト(庭の草のスープとか、水晶玉でウィリアムの心を覗くとか)にウィリアムが無表情を続けるうち、あきらめて彼を精神科医に診せにいった。

「でもあの人、紙、燃やしてた」

 トコトコと廊下を歩きながらさらに独りごちる。もう視線は気にしない。

「マジックなのかな?」

 小さく首をかしげるウィリアム。以前、ウィリアムの誕生日パーティーをアランがしてくれたとき、トランプにライターの火を付けたことがあった。真新しいカードに戻るはずだったらしいけれど、危うく部屋が火事になるところだった。ヴィヴィアンのマジックはそもそもライターを使っていない。

「けど、あれは雪だった」

 社会福祉センターの部屋を出る間際、ヴィヴィアンが降らせたのは間違いなく本物の雪だ。冬時期になると、ウィリアムはよく一人センターの広場で雪遊びをする。少し離れたところでアランが見守る中(アランは寒いのが苦手だ)、スノーライオンや、スノーオオカミを作ったりする。ウィリアムは、雪だるまは作らない。人の形をしたものは好きになれなかった。

 だから雪には自信がある。そして新しいママハハがなにか隠していることも。

「でもうそつきだ……うん?」

 うなずいたウィリアムの耳に、「ヴーン」と羽音のような音が聞こえた。一つや二つではなく、もっと多くの羽音が群れでしているよう。まるで、蜂のような。

「キャンディ……?」

 音は後ろからしていた。ウィリアムが振り返ると、廊下の向こうからピンク色の集団が宙に浮いてこちらへ向かってきている。目を細めていたウィリアムも、ピンクの群れの後から、天井まである巨大な唇が飛び跳ねながら追いかけてくると、じっとしてもいられなくなった。やたら艶っぽいルージュからベッドほどもある舌が滑らかに伸びて、ピンクのキャンディをペロペロ、もとい飲みこんでいる。巨大リップが通り過ぎた後には、食べられたキャンディの棒が翅付きで絨毯に力尽きて散っている。

 唇が見えたときから、ウィリアムは駆け出していた。あれがなんなのか見当もつかないけれど、とてもマジックには見えない。それにぜったい、ペロペロされるのはいやだった。

 直線だったはずの廊下が、いつしか曲がり角だらけになっている。一本道には変わらないのでウィリアムはただ走るしかない。振り返る余裕がなくても、背後の「ピヨ〜ン、ピヨ〜ン」と跳ねる音がだんだん近づいてくるのがわかる。そのたび、羽音が小さくなっていく。

「痛っ!」

 足がチクりとして見ると、破けたジーンズから血が滲んでいた。犯人を確かめるまでもなく、次々と後ろから攻撃が続いた。

「はぁっ、はぁっ……どっか……隠れ……なきゃ」

 苦しくなってきた呼吸に、掠めていくキャンディの群れ。体のあちこちが痛い。

 ウィリアムは意地を張らずに自分の部屋にいればよかったと後悔していた。部屋には本もあるし、食べ物もあった。魔女の食べ物は想像がつかないけれど、ジャンプする唇に追いかけられるよりいいはず。

「あそこ、だ……」

 角を曲がると、突き当たりにグレイの地味なドアが見える。行政庁みたく、灰色がかったオフィスドアの横の壁に『Wizard Computer Room』のメタリックなプレートが嵌まっているが、かすんできたウィリアムの目には入らない。「ピヨ〜ン、ピヨ〜ン」はすぐ後ろまで迫り、キャンディの甘い吐息が鼻をくすぐる。

 丸いシルバーのドアノブへ倒れるように手を伸ばす。

「おねがい!」

 ウィリアムの手がドアノブに触れた途端、電気が腕を駆け抜けた。ビリッと感じるまもなく、扉がするりと開くと、たくさんの光る眼が暗闇に浮かんでいた。

「えっ……」

 足がもつれ、室内へ倒れこむウィリアム。「グキッ」と嫌な音が聞こえた。

 その頭上を掠めるように、光る眼から一斉に紫電が走った。

「ズゴーンッ‼」

 自然現象と同じく、遅れて轟音が城を揺らす。とっさに頭を抱えたウィリアムが床に丸まり、固く目を閉じている。耳がキンキン鳴っていた。けれど、あの「ピヨ〜ン」と跳ねる音がしない。甘い香りも薄れ、咳き込む音からは焦がした砂糖の匂いが漂ってくる。

 おそるおそる目を開けてドアのほうを覗くと、巨大リップはまだそこにいた。ただし、煤けて咳きこんでいる。ヤケドしたようにだらりと舌を垂らし、如何にも満身創痍といったようすだ。唇の下には焦げたペロペロキャンディのスティックが煙をあげている。

「まったく」

「うわっ⁈」

 頭のすぐ上からした声にすっとんきょうな悲鳴をあげるウィリアム。立ち上がろうとして足を滑らせると、部屋が突如明るくなった。

「ふざけとると思わんかね。ん、少年?」

 腰を抜かしたウィリアムを、深海のような青い目をした大男が見下ろしていた。


「タレコミっておい、ルカ」

「これ以上は言えんな。オレには情報提供者の守秘義務があるんだ。ペラペラしゃべるようなヤツを部下にしたいか?」

 魔女王の睨みをひょうひょうと受け流し、破れたシャツのルーカンが「ジジィめ、余計なことを……」と呪詛を吐くヴィヴィアンへ手記の特徴を尋ねていく。

「あの手記は、古代ラテン語で書かれてたよ。しかもケルト語が混じってるんだ。図のほとんどは現代科学に沿わないもんだし」

「解読者がいればいい。言語は既存データベースがあるだろうから、画像パターン解析でなんとかなる。だが、図形には基準となるロゼッタストーンが必要だ。そしてここに、生きたロゼッタストーンがいる。多言語翻訳機能付きのな」

 ルーカンがおどけたように指さすと、ヴィヴィアンはぴしゃりとその手を叩いた。

「相変わらず手厳しいな、おまえ」

「じゃあ、そもそもなんだってヤツらは、呪いの解き方なんざ知りたいのかねえ」

「さあな。その情報提供はない。MIWがいっとき、隠れて狼人の特殊部隊を創ろうとしてたが、あれはおまえが潰したからな。さすがの連中も二の舞は避けたいだろう。危うく組織を丸ごと消されかけたんじゃ……どうした、ヴィヴィ?」

 しみじみと過去を思い返していたルーカンがふと、言葉を切る。黙った魔女王は魔女王で、実に麗しい月下美人のようだが、長年を共にしたルーカンには、静謐な横顔が曇っていくのがわかった。ウィッチクイーンがどうやら、よくない兆候を見つけたらしい。

「アタシのせいだね」

「なにがだ? おまえのやらかしたことは多すぎるぞ」

「ヤツらは……MIWはアタシの討伐に本腰を入れるつもりだよ」

「はっ?」

「MIWにはアタシの狼人化が能力ってことで通ってる。けど、ここんとこ、制御しきれずに暴れちまうことも増えただろう? さっきだって、ルクス(転移)できたのが奇跡みたいなもんだしねえ」

 ルーカンは危うく「冗談だろう?」と鼻で笑うところだった。

 ヴィヴィアンは奇跡を信じない。嫌悪しているといってもいいだろう。それくらい、彼女の何世紀にもわたる人生は絶望にまみれ、己の腕だけで乗り越えてきた。だからこそ、奇跡などという他力本願で、なにより子どものような柔な御伽話を嫌悪する。にもかかわらず、ウィッチクイーンは平然と奇跡を口にした。あたかも「奇跡は起こるんだよ」と言いたげに。

(自覚はなし、か)

 だが、ルーカンは口を挟まない。

「きっと、MIWはアタシが危険だと判断したんだろうねえ。つまり用済みってことだよ。そんなことはハナから承知してたけどさ。ま、そいつはあんたの仕事だから、MIWがなにを企んだところで無駄だよ。アタシは死んでも呪いの解き方は教えてやらないしね」

 そこでヴィヴィアンがハッと顔をあげた。いつも余裕たっぷりな顔が青ざめている。

「くっそっ‼ ヤツらの狙いはアタシじゃないっ!」

 ヴィヴィアンの周囲を轟々と炎が渦巻き、指輪が輝く左手には、細身の両刃剣〈アエテルナ・フラマ〉が顕現していた。自分の顔を手で覆うヴィヴィアンはルーカンがこれまで見たこともないほど取り乱している。荒れ狂う熱でルーカンのラップトップは瞬時に焦げた金属塊に成り果てている。データはメインサーバーにコピーしてあるから問題ない。

 ひしゃげた塊を脇へ放り、ルーカンがフロアのガラスの強度をギリギリまで強化する。熟達した魔法使いであるルーカンだが、魔女王には到底、太刀打ちできない。今も、〈ユニーカ〉で自身の治癒力を最大に上げ、灰燼に帰さないようにするのが精いっぱいだ。上物のスーツを着てこなくてよかった。

 フロアの緊急脱出装置がイカれていないことを案じつつ、ヴィヴィアンを落ちつかせる。

「どういうことか説明してくれ、ヴィヴィアン! 狙いがおまえじゃないってのは、ホントか?」

「ヤツら、ウィリアムを狙ってるんだよっ」

 苛立たしげに振った〈アエテルナ・フラマ〉から、純粋な熱エネルギーがフロアの床を切り裂く。聞きなれない名前にルーカンは一瞬、眉をひそめたが、それが魔女王の養子の名前だと気づくまで時間はかからなかった。

「あの小僧を?」とつぶやいたルーカンをキッと睨むヴィヴィアン。その緑がかった眼はまさしく、すべての魔を超越せし魔女王の眼だった。

「ルーカン、あの手記の肝心な部分は、図形の理論じゃない。狼人の呪いを解く鍵は文で書かれてるんだよ。その鍵がウィリアムだってこともね」

「……だがおまえが養子を迎えたのは知られていないはずだ。おまえの身分がウィッチクイーンと結びつかないよう、これまで手を尽くしてきただろう。それに、おまえがウィッチクイーンで、呪いの解き方を発見したところで連中になんのメリットがある? おまえが脅威なら、城を空爆するか、会社に乗りこんでくるんじゃないのか」

「雑務で頭がやられたのかい、ルーカン。いいかい。アタシの城は街の中にあるんだ。カモフラージュにわざと観光スポットを買い上げたんだからね。ロンドンから二百キロも離れてないところを爆撃するバカがいるかい。……ルカ、アタシの燃やした狼人化の研究成果。それがぜんぶじゃなかったとしたら?」

「連中がまだ狼人の兵器化をあきらめていないっていうのか⁈」

「毒には毒を、っていうじゃないか。狼には狼、ってとこだろうねえ」


「あ、あなたは?」

「ふむ。リアクションはギリギリ妥協点といったところかの。……ほう、なかなか美味じゃな」

 二メートルを優に超える大男は、グローブのような浅黒い手を瑠璃色のローブから覗かせると、さっと振った。ウィリアムの質問には答えず、飛んできた黒焦げのキャンディを薄らヒゲのある口へ放りこんだ。わずかに覗いた歯は異様に白い。

 一本を食べ終え、虚空へスティックを消すと、大男がウィリアムへアゴをしゃくった。

「腹が減っとるの。それに足を挫いとる。わしは治療できんから我慢しとくれ。……てめえも食うか?」

 ブンブンと首を横へ振るウィリアムに、

「賢いの。こいつの飴にはボトルス(ボツリヌス菌)がたっぷり仕込まれとる。刺されるぶんにはいいが、口に入れたら最後、コロリじゃな。言っておくが少年。わしは食い物は出さんからな。ここでエネルギーの高いもんをクリエイトするのは割があわん」

 浅黒い肌の男がもう一本、キャンディを口へ入れた。

「いたたっ。たすけて、くれてありがとう」

「ん? わしはサーバルームを見にきただけじゃよ。豚児(自分の娘)のトラップごときで、わしのセキュリティを突破できるはずもないのじゃが、ドアをベトベトにされるのは好かん」

 肩をすくめる大男の動作はまるで山が動いているようだ。

(うそだ)

 辺りを見回すと、サーバルームは思ったより広々としていた。ウィリアムの部屋と同じくらいか、少し広いかもしれない。入り口を振り返ると、巨大な唇はいなくなっていた。絨毯に焦げ痕だけ残っている。

 大男の存在感で狭く感じるが、それを口にはしなかった。男の頭より少し高い位置に、ブロンズ色の複雑な機械がぶら下がっている。シャンデリアのようにほのかな光を放っていた。

「冷却器が気になるか? あの中では大量のキュービットが量子力学に基づいて計算を続けとる。この星のどこを探しても、わしのハイブリッドマシンに勝るデバイスは見つからんからな」

 こちらを見つめたまま、大男が説明した。意味はほとんど理解できなかったが、どれも本当のことで、自慢したいのだということだけはウィリアムにもわかった。

「すごいって言ってほしいんだね」

「ほう。物わかりが早いの。てめえが入室の認証を通れたのもうなずける」

「……あなたも魔法使い? それともゴースト?」

「どちらでもあり、どちらでもない」

「じゃあ、あの人とおなじだ」

「なぜそう思う少年?」

「あなたとおなじ感じがするから」

「おなじ感じ、のう」

「うそつきで、他人なんかどうでもいい」

 見あげるウィリアムの目は、少しもこの大男の魔法使いを恐れていなかった。自分ヴェネフィカスへそんな目を向けた者は数えるほどしかない。ヴェネフィカスの目が細くなる。

「そうじゃのう。狡猾と言ってほしいが、まあ、取り繕うこともなかろう。まったく、揃いも揃って二代で無垢なる者に心動かされるとはの。運命さだめとは、こういうことかもしれん」

 ブツブツつぶやく声が小さくなるにつれ、シャンデリアからキーンという甲高い音がしはじめた。明るさが増し、本物のシャンデリアのように煌めきを強くしていく。黄金の輝きに見たこともない模様が混じってさらに絶えず動いていた。

 布の擦れる音がしてウィリアムが振り返ると、ヴェネフィカスの両手が宙を躍っていた。

「豚児は保険を掛けとるようじゃが、あの小童にそんな勇はなかろう。せいぜい後を追うくらいじゃ。となれば、切り札は少年、てめえだ」

 大男を取り囲むように虚空へ浮かぶ、エメラルドグリーンのホログラフィに二本、欠けた指を走らせながらヴェネフィカスが言葉を続ける。ホログラフィには無数の映像が高速で流れ、見ているだけで目が回りそうだ。

「ラクリミスの呪いは、このわしでもついぞ、肉体があるうちには撲滅できんかった。あの手記の理論は革新を通り越していささか前衛的ですらある。理解できんてめえにじゃから打ち明けるがの。わしにもわからんかったということじゃ。試すほかあるまいて」

「ねえ、なにをいってるの。ぼくがなんの切り札?……あ、足」

 ウィリアムにはいっさい答えず、タイピングの速度を上げていくヴェネフィカス。ローブの裾がぼんやり透けていた。

「うむ。エネルギー効率はまだ改善の余地があるのう。〈永層〉からのアクセスはまだまだこれからじゃ」

 最後に丸太のような腕を一閃すると、メールの送信音がしてホログラフィが一瞬で消失。シャンデリアの冷却器が徐々に暗くなり、模様はもはや見当たらない。

 ゴーストよろしく、膝から下が消えたヴェネフィカスが目をパチクリさせるウィリアムに目を戻した。感情の欠片もない碧眼が少し笑っているような光をたたえていた。

「少年。あれの傍にいてやっとくれ。てめえに噓は通じない。あれにはそれが一番の薬……いや、この世へのアンカーじゃ」

 魔法使いのゴーストはそう言うと愉快そうに鼻をならした。

 口を開きかけ、ふと心地よいメロディに耳をかたむけるウィリアム。目の前の大男の歌声だった。低く落ち着いた声は、不思議な旋律とよく合い、まるで子守唄のように染みこんでくる。

「技を使うわけにはいかんからの。あれが帰るまで、寝とってくれ」

 ヴェネフィカスの声がサーバルームにこぼれていく。床で体を丸めて穏やかな寝息を立てる少年の耳には届かない。

「ふん……あれもこの歌が気に入っとったのう」

 部屋の灯りが消え、廊下の光が床に陽だまりを作る。

 ゴーストの声はどこか、嬉しげだった。


 * * *


 エンジンの重低音が闇をふるわせていた。焔の赤をかたどった大型二輪が町外れの森へ入った途端、さらに唸りを上げていく。

 ここからさきはすでに魔女王の領地。公道では控え気味に吹かしていた魔女王も、その憂さ晴らしにとグリップを限界まで回し、森の私道を流星のように駆けていく。魔女王のバイクは加速に応じてボディの輝きが増し、空気力学をものともしないようにゆるやかなカーブを、領地の外れにある古城へ向け、石畳を削りながら疾走する。

 月が雲に隠れ、あたりはほとんど真っ暗。バックストレートの直線に入ると、ライダーがさらにエンジンへ発破をかけ、応じるその咆哮はまるで凶暴な獣だ。

 城の正門まで残り百メートル。黒いライダースーツが真っ赤な車体にぴったり被せ、振り切ったアクセルに最後のブーストを命じる。

「ギギィ」

 熱せられたタイヤがまさにローズウッドの門と衝突する瞬間、大型バイクが突如ストップ。慣性の一切合切を無視した完全停止は、すべてのエネルギーを乗り手へ献上するためのもの。ふわりと宙に舞うライダーの体へ、揺れる水面のようにバイクからエネルギーが吸い取られていく。

 急停車の刹那、前転するように踵を振りあげたスラリとした脚は、どんなバレエダンサーよりも優雅で美しく、ヘルメットから一房はらりと、こぼれ落ちるグレイヘアは夜闇に差す月明かりのようだ。

「バタンッ!!」

 三メートルを越す重厚な門扉を踵落としで蹴り開くと、主人の帰りを待ちわびたように玄関ホールの灯りが一斉にまたたいた。古代の幽霊城が一瞬にして豪華絢爛な舞踏場へと姿を変える。

 ヘルメットを脱ぎ、あたかも最初からそこにあったと言わんばかりに佇むバイクへ、無造作に放った。カラカラと音を立てグリップへ引っかかるのを見ることなく、乗り手が手を振ると、無人のバイクはエンジンも吹かさず裏手の車庫へ独りでに去っていった。

「さあて……」

 さっと頭を振り、なびいたグレイヘアが黒い川のように漆黒へ色づいていく。広間にヒールの音を響かせて魔女王がイタズラっぽくニヤついた。

「アタシの仔羊はどうしているかねぇ」


「ウィリアムぅ~ママがおやすみのキッスを……おや」

 二頭身の狼キャラクターが牙を剥きだして赤ずきんを追いかける『ウィリアムのへや』プレートのドアを押し開くと、室内の灯りは消えていた。時刻はもうすぐ日付が変わる頃。プライマリースクールの子が寝ていてもおかしくないが、奥のベッドが空なのは魔女王たるヴィヴィアンには確かめるまでもない。

「チッ。アタシとしたことが鍵を掛け忘れるなんてねえ」

 軽く舌打ちしたヴィヴィアンはポケットから取り出した二枚貝を開き、ミニチュアの月を左へスワイプした。

「どこまで行きやがった。罠に引っかかってなきゃいいが」

 ホログラフィよろしく宙に城の立体見取り図が浮かぶ。城の隅々までトラップの赤い点にまみれ、よく見ると点はさまざまなマークの形をしている。マークは地下へ行くほど密度が高い。城の東塔の真下だけはトラップの光がなく、ぽっかり空いた空間には逆さなったオオカミのマークが付いている。

 西の塔の二階、ウィリアムの部屋から百五十メートルほど離れた場所で、赤い唇のマークが緑色に点滅していた。トボトボ跳ねているように見えなくもない唇の移動方向を逆に辿る。

「サーバルームだって⁈」

 普段、あるはずのないドアのマーク。ウィリアムの居場所を示す羊のイラストが重なっている。ヴィヴィアンの整った眉が怪訝そうに吊り上がった。

「こいつはまさかね。まったく……世話がやけるよ」

 パタンと二枚貝を閉じたヴィヴィアンがため息をつくと、古城を足早に歩いていった。


 女の直感はよく当たるという。ならば、魔女王たる者の勘は、もはや未来予知に近い。

「ウィリアム⁈」

 半開きのドアから倒れた小柄な影が見えると、ヴィヴィアンは自然に名前を呼んでいた。滑りこんで仰向けにさせる。

「どうしたんだいっ。 起きるんだ」

 息はあるから寝ているようだが、服の至る所が破れている。量は少ないがまだ止血していないところもあった。足を抱えこむようにしているところを見ると、そちらも怪我しているらしい。

「うん……おじいさんのゴーストは?」

 ヴィヴィアンに揺すられ、目を覚ますウィリアム。足の痛みを思い出したのか、顔を歪めた。

「そんなもんは、いやしないよ」

「いやだっ!」

 抱えあげようとするヴィヴィアンの手を振り払い、後ずさる少年。

「うそつきはきらいだ!」

 ウィリアムの声が静まり返った部屋に木霊していく。ヴィヴィアンはしゃがんだまま、怯えた小動物のような養息の言葉を待った。

「『すぐ帰る』っていったのに!」

「そいつは仕事だからだよ。用事が入ってよばれてさ……」

「うそつくな! そんな気がないって、出かけるまえからわかってたんだ。ぼくを部屋に閉じこめるつもりだったな! ぼくにはわかるんだ! あなたがなにか隠してるってことも、子どもの相手なんか、ホントはしたくないってこともなっ!」

 一気にまくしたてたウィリアムは、「うっ……」と顔をゆがめると床にへたりこんだ。押さえた指のあいだから腫れて紫になった皮膚が覗いている。その手も擦り傷が痛々しい。

 そんな状態でなお、透き通った瞳が魔女王を睨めつけていた。恐怖や哀しみではない、怒りの目だ。周囲に欺かれ、気味悪がられ、孤独に苛まれても、生をあきらめない者の目。怒りは偽善者と為政者への唯一の抵抗であり、どんな力も、その炎を屈服させることはかなわない。かつてそうして、破滅を招いた者を魔女王は知っていた。

 だからこそ、魔女王は決断する。

 情を越えたさきの、合理的な判断として。

 己の目的を果たすためのウィッチクイーンの最適解。

「くるなっ! やだっ……わっ?!」

 追いつめられた野良犬のようにブンブンと拳を振り回すウィリアムを、正面から抱え、くるりと肩に背負った。その際、拳がヴィヴィアンの顔にあたり、はっと少年が体を強張らせる。あえて表情には出さず、ヴィヴィアンが踵を返す。

「ど、どこいくんだ? おろしてっ」

「じっとおし。あんまり暴れるなら途中で、落とすかもしれんからね」

 それまでのヴィヴィアンとはまったく違う声音に、逆さに担がれたウィリアムが目を見開いていた。あけすけな猫なで声も気味が悪いが、有無を言わせない口ぶりはただ恐ろしい。氷のような横顔がまるで、おとぎ話の女王だ。

 女王はウィリアムに見向きもせず、抑揚のない声で続けた。

「腹を割って話をしようじゃないか。でも手当てがさきだよ。泣きさけんでも消毒するからね。覚悟をし」

 ごくりと、つばをのみこむウィリアム。怖がる顔が見たくて仕方ないが、ここはポーカーフェイスを決めこむヴィヴィアン。辛抱したぶん、あとの悲鳴が楽しみでならない。

「まったく……」

 少年には見えないウキウキなモデルウォークで去っていく魔女王。どこからか、「子どもにムキになりおって」という青ローブのため息が聞こえた気がした。


 城の西塔に悲痛な子どもの叫びが木霊する。

 堅硬な城でなければ、漏れ伝え聞いたその悲鳴に周囲の住民が即、通報のコールをしたかもしれない。幸か不幸か、魔女王の領地から一部近い民家にも悲鳴は届いていたが、こじんまりしたロッジの中で安らかな寝息を立てる夫婦の耳には届かない。

「いたいっ!!」

「ガマンしな。よ~く消毒しとかないと、脚が腐っちまうからね」

 破いて広げたズボンの裾へ、ヴィヴィアンが容赦なくビンの液体を振りかけていく。堪らえきれずにウィリアムが身を捩らせるが、両手をベッドポールに縛られては身動きが取れない。腿を押さえるヴィヴィアンの手は異常に強く、まるで脚を床に固定されたみたいでびくともしない。慣れたようすで手当てしていく真顔の魔女王に、さすがのウィリアムも残った脚で蹴ったりはできなかった。

 至って普通の救急箱から取り出した大瓶は、俗にエタノールとよばれる消毒液に、魔女王特製のエキスを混ぜこんだ薬品だ。痛みは折り紙つき。歴戦の兵士でも悶絶するレベルだが、解毒も兼ね備える逸品。これでも、消毒液にはあらかじめ鎮痛効果のあるウサギから採取した製剤を入れておいた代物だ。

「こいつは、特別な軟膏だ。ああ、素材は聞かないほうがいい。西洋医学と古代魔法医学のハイブリッドとだけ言っておこうかねぇ」

 消毒液のフタを閉め、救急箱からヴィヴィアンがシガーケースのような銀の平たい箱を取りだした。箱には動く文字が刻まれていたが、ヴィヴィアンがさっと、手を振ると消えた。窪んだケースの蓋に親指を押し当て、認証音が鳴ったとたん、ウィリアムは一瞬、気を失いかけた。

「しっかりおし。たしかにニオイはよくないが、効き目は申し分ないよ。ひと晩ぐっすり寝りゃ、あしたには痕も残らない」

 ウィリアムの語彙にはない悪臭を放つ、くすんだ深緑の泥をすくい、ヴィヴィアンが丁寧に膝全体へ塗っていく・シガーケースが「シュッ」と音を立てて閉まると、ようやくウィリアムもこわごわ息を吸うことができた。軟膏は意外にも滲みず、じんわかした。強烈なニオイもあまり気にならなくなった。

(魔法がつかえるんなら、こんなめんどうはしないんだがねえ。〈女王の蜜〉はけっこう貴重だし)

 ウィッチクイーンたるヴィヴィアンをもってすれば、これくらいの傷は手の一振りで治せる。だが、それでは手記の内容と反してしまう。魔女王の呪いを解くには、一度も魔法の影響を受けなかった子が、十歳の満月に進んで身を捧げなければならない。そのために、わざわざウィッチクイーン自ら手当てし、使った薬品はどれも魔法をいっさい使わない素材ばかりだ。軟膏〈女王の蜜〉に至っては、膝に塗った量だけで屋敷が建つ。

 かつてエリクサーともよばれていた秘薬を、ウィリアムの腕やら顔にもぬたくりながら、ヴィヴィアンが口を開いた。相変わらずきつく目を閉じているが、さきほど抵抗はしていない。

「あんた、アタシが嘘つきだって言ったね。どうしてだい?」

「……」

「こんどは黙んまりかい。さっきはあれだけ強がってたくせに、なんだい、アタシが魔女だとわかったらビビるんだねぇ。ホントはただ構ってほしいんじゃないのかい、坊や《kiddo》」

「……ぼくは坊やじゃない。もうすぐ十歳だ」

 頭を動かしてヴィヴィアンの手から避けようとするウィリアム。その頬をつねってみたくなるが、ぐっと堪えた。

 少年がこちらを見ていない隙にかすかに目を細める。ダークブラウンの瞳が刹那、深い海の色をたたえた。ヴィヴィアンの目に服を透かしたウィリアムの体が映り、他に傷がないか、舐めまわすように確かめていく。〈透視〉はあくまで服への干渉で、ウィリアムにはなにひとつ影響ない。幸い、隠れた外傷はなさそうだ。

 ホッとする一方、「出歩かないように」と釘を刺したにもかかわらず、言いつけを守らなかったウィリアムに腹が立つ。

 まばたきで瞳の色を戻してから、ヴィヴィアンは救急箱のガーゼを取った。

「まだ九歳だよ。それとも誕生日がこないと、アタシの言葉が理解できないかい? 言ったはずだよ、『城は危険だから部屋を出ないように』って。あんた、噓がわかるんだろう? アタシの言葉がほんとうか、わかってたんじゃないのかい」

「あぶないかもしれないのはわかってた」

「だったらどうして出たんだいっ! あんた、運がよかっただけでホントならいまごろ死んでるかもしれないんだっ! わかってて、どうして言うこと聞かなかったんだい!」

「いっ……!!」

 突然、顔を真っ赤にして歯を食いしばったウィリアムに、ヴィヴィアンはすぐさま傷を押さえる力が強すぎたことに気づいた。あわてて手を離し、宙を切る仕草をするとウィリアムを縛っていたバンドがひとりでに弾けた。

 すかさず部屋の入り口へ駆けだすウィリアム。開いたドアの向こうに廊下の明かりが見えていた。だが、数歩もいかないうちに脚が痛み、体がぐらりとゆれた。近づいてくる紺色の床におもわず目を閉じる。

「……うわっ?!」

 やわらかいフワフワしたものを顔に感じて目を開くと、狼と目が合った。ウィリアムが飛び起きると今度は、バランスを崩して背中から倒れた。が、白い影が見えたかと思うと、ふわりと頭が収まった。おそるおそる首をまわすと、これも狼の頭。だが今度は見覚えがあった。

「『ホワイトダブリュー』……?」

『ホワイトダブリュー』は、ウェールズの子どもたちに絶大な人気があるコミックスだ。頭部だけやたら大きく、胴は隠れるほどしかない狼のダブリューがドタバタ劇を演じるコミカルな作品は、いまや英国全土の教育チャンネルで放送されている。

 ウィリアムが転ける寸前、ヴィヴィアンが魔法で飛ばしたのだが、本人は膝立ちのまま救急箱の片づけで背を向けている。作業を続けながら、魔女王は目をパチクリさせているウィリアムへもちかける。

「出ていきたいならかまわないよ。あのアランとかいう児童司に掛けあって、そっちでめんどうを見てくれるようにたのんでもいい。養育費はアタシが出してやる。でもね、もう少し付きあってくれないかい」

「……どうして」

「アタシはさ、ちょいと呪われてるんだ。ま、どっちかっていうならこいつも疾患なんだろうがねぇ」

 ふんっ、と鼻をならすヴィヴィアンの意味も言葉も、ウィリアムにはさっぱりわからない。ただ、しゃがみこんでいたヴィヴィアンがふっと顔をあげ、窓の外をみる横顔にウィリアムは胸がドキッとした。

 月明かりをじっと見つめるヴィヴィアンはどこか哀しそうで弱々しかった。ついさっきまで女王のようだとおもっていたこの人も、いまは、悲しいことがあったばかりの人みたいだ。その心まではわからないが、表情の真偽はわかる。静かに言葉をつむぐヴィヴィアンは、間違いなく哀しんでいた。

「呪いは正直、けっこうキツい。だから終わりにしたいんだ、もう。アタシの望みはそれだけ。そしてウィリアム、あんたが付きあってくれるんなら、アタシは解放されるんだ」

「……びょうき、なの?」

 上半身を起こしたウィリアムが眉をひそめる。

「はっきりしたことは、アタシにもわからない。ただね……」

 ヴィヴィアンが人差し指をくるくると回すと、指のまわりを黄金色の光が散らばりはじめた。小さな流星のような光の点は数を増し、ヴィヴィアンの左手がミニチュアのクリスマスツリーみたく煌びやかだ。

 光の点たちが突然消えると、ヴィヴィアンの手には一冊の本が収まっている。錆びついた青銅色の冊子は鎖が何重にも巻かれ、ただの本ではないことはウィリアムにもわかる。

 月色の指が表紙をなぞり、頑丈そうな鎖が跡形もなく消えていく。開いた一ページに目を落とすと、ヴィヴィアンは静かに朗読しはじめた。その声は紛れもないヴィヴィアンの声であり、ウィリアムが聞いた大男の魔法使いに似て心地よかった。

「『古のラクリミスが告ぐ。其が身の呪い、呪いにして呪いに非ず。其れは悠久の祝福なり。否、之を苦とするなれば、汝、百と二十三の月が満ちす時の子を探せ。其子、己を捧げし清水は永遠の祝福を解かん。但し、其子は万物の層雲に忠実で在らねばならぬ。層雲に手を加えせしめば、祝福は永久となるであろう』……ふっ。子守唄みたいかい」

 パタン、と本を閉じる音にウツラウツラしていたウィリアムが目をこする。意味はさっぱりだが、朗読の声を聞いているうち、とても落ち着いてきて眠くなってしまった。退屈したというより、ホッとしたに近い。

「ぼくを食べるの?」と尋ねる寝ぼけた声に、ヴィヴィアンの笑いが花開いた。

「ふふっ……あはは。そんなわけないじゃないか。聞いていなかったんだねえ。あんたが触れた水でいいんだよ。ま、ゆで汁でもおなじことだけどね」

 いたずらっぽくウインクするヴィヴィアンの言葉が怖いとは思わなかった。ぼーっとするウィリアムはただ、声を立てて笑った彼女の笑顔が本心からのもので、そうやって笑ってくれたことがなぜだかとてもうれしい。

 すっと立ち上がり、ウィリアムのまえにしゃがむと魔女王がもう一度、目を合わせる。大地の色の瞳にあどけなさが残る顔が映る。

「寝ちまうまえに、これだけ聞いとくれ。アタシはもう噓をつかない。なんでも正直に言うよ。だからあんたも少しは、アタシの言うこと、聞いてくれないかい? アタシだって心配なんだ、あんたがさ」

「……うん」

 うなずきと同時に穏やかな寝息が返った。引っ叩いてでも起こして、言うことを聞かせるのが魔女王だが、いまのヴィヴィアンにそんな気は起きない。

(明日でもいい、か)

 首の下と膝の裏にそっと手を差し入れ、ウィリアムの体を抱えあげた。そのまま向きを変え、ベッドへ向かう。

 魔女王たるヴィヴィアンに重いと感じさせるものはそうそうない。九歳の児童など、棒切れ同然だ。それでも雑に扱おうという気にならないのだから不思議だ。眉にシワの寄った寝顔を見ていると、古代遺跡のように寂れた自分の心が、かつては活気あふれた街だったことをおもいださせてくれる。街から人が消えたわけと、諸々の思いだしたくない記憶も。

 これが他の者なら、速攻で床へ叩きつけ、這いつくばる背を踏みつけてやるところだ。

(あいつは悦ぶだろうがね)

 魔女王の頭に銀髪の優男がうかび、その罰として遠隔でちょっとした呪いを投げつける。理不尽など魔女王の知ったことではない。

 狼のキャラクターで統一されたベッドにウィリアムを降ろし、これまた頭でっかちな狼に追いかけられる、やたらとグラマラスな赤ずきんがあしらわれた布団を首元まで引きあげた。

「おやすみのチューはせんのかの?」

 背後から突然した低い声にヴィヴィアンは舌打ちしかけ、ギリギリで堪えた。背を伸ばして悠然と振り返る。

「貴様こそ、成仏しないでいつまで彷徨いている気かい」

「わしは世界と一体になったのじゃ。おまえには想像もできん心地じゃろうが」

 ふざけた言葉を、まったくふざけていない口ぶりで話す青ローブが見下ろしてくる。どこまでもよく似た碧眼がまるで自分のようで、ヴィヴィアンはふるえる拳を抑えるのが精いっぱいだ。たとえ、力を解放したところで、目の前に立つ褐色の大男には通用しない。その事実が余計、ヴィヴィアンを逆なでした。

「とっとと失せるんだね、老害。アタシにはやることがあるんだ……」

「そのとおり。おまえにはやるべきことがある。忘れとらんようで安心したぞい、わが娘よ」

「ッ!?」

 ヴェネフィカスの言葉に魔女王の自制心がわずかに揺らいだ。

 しなやかな脚へ光の粒子が瞬時にまとわりつき、完璧に均整の取れた腰を軸に振り上げる。重力のいっさいを振りはらった蹴りが空を切り、刹那の真空が空間を歪めて見せる。

 魔女王の一撃は触れただけで肉体が蒸発する威力を持つ。回し蹴りの速度は人間の認知限界を超え、さながらゼロデイアタックだ。

 一秒が数千倍に凝縮された世界で、背中をのけ反らせた魔女王の目に入ったのは、ウィリアムだった。まるで彫刻のように微動だにしない寝顔はどんな夢をみているのだろう。

 刹那、ウィリアムの顔を鋭い鉤爪が引き裂いた。

「だめーーー‼」

 振り上げた脚がヴェネフィカスの鼻先で止まる。ほとんど触れているといっていい距離に魔女王のつま先がありながら、青ローブは相変わらず見下す目を向けている。ややアゴを引いて眉をあげると、すっと姿が消えた。

 脚を降ろし、窓の外を見あげるヴィヴィアンの手には、灰色の毛が生えていた。


 翌朝。

 ウィリアムは香ばしい匂いで目を覚ました。体を起こすと、キッチンのほうからジュウジュウ焼く音と、ヴィヴィアンの声がした。

「起きたかい。ベッドメイキングは自分でするんだよ。終わったら顔、洗っといで。じき朝メシだよ」

「わかってるよ」

「なんか言ったかい」

「……うそつき」

「ウィリアム!」

 ヴィヴィアンの声にギクッと固まる。スタスタ歩いてくると、ウィリアムの前にしゃがんだ。きょうはホワイトダブリューのエプロンに長髪をテールに束ねている。

「アタシが噓ついたかい。ついたんなら教えとくれ。アタシも気づかないときがあるからねえ」

「……ついてない」

 観念したようにウィリアムが目を逸らすと、ヴィヴィアンは両手で頬を挟んでグイッと、向かいあった。

「だったら噓つき呼ばわりはやめるんだ。それじゃあ、あんたが噓つきになるよ。噓つき、なりたいかい?」

「うーうー」

 頬を挟まれ、ウィリアムの声が変になる。ヴィヴィアンがニヤリと笑った。

「ようし、それでいい。ついでにママに傷、見せとくれっ」

「まって……」と言うまもなく、パジャマが床に落ちた。


「アタシの手料理、うまいだろう?……なんだい。まだプンスカしてんのかい。裸なんて見られたところで減りゃしないよ」

 トーストにかぶりつきながらヴィヴィアンが「やれやれ」と首を振った。若干、焦げついたパンには半生のスクランブルエッグが載っている。

 キッチンのカウンターで向かい合わせに座ったウィリアムは下を向いたままだ。

「あのくっさい薬、よく効くって言ったろう。痛みはないし、傷痕もキレイさっぱりだったねえ。あんた、ママにお礼のチュー、してもいいんじゃないのかい」

「……ママじゃない」と睨みつけたウィリアムの腹が「グゥ」と鳴った。

「強情っぱりだねえ。まったく、毒でも入ってると思ってんのかい」

「ちがうの?」

 真顔で尋ね返してくるあどけない表情にヴィヴィアンが目を見開くと、「ぷっ」と吹きだした。

「あはは! ったくアタシをなんだと思ってるんだか。ま、アタシのせいってのもあるか」

 咳払いし、トーストを皿び置くとヴィヴィアンがカウンターへ両腕を広げた。

「ここあるもんは、毒も入ってないし、ぜんぶ裏庭で採れたオーガニックだ。食べて舌が肥えても、害はいっさい、なしだ……これでどう? あんたにはホントかどうか、わかるだろう?」

 ウィリアムはしばらくヴィヴィアンを睨んでいたが、スプーンをつかむとスクランブルエッグを掬って口に入れた。そこからは手を止めずにサラダも炙ったチキンも夢中で頬張った。

 養息のグラスにオレンジジュースを注ぎながら、ヴィヴィアンが続ける。

「窒息しないようにゆっくり食べるんだよ。だれも取ったりせんから。……食いながらでいいからちょいと聞いとくれ」

 目を上げたウィリアムを確認し、ヴィヴィアンがジュースのピッチャ−をカウンターテーブルへ置いた。

「きのう、アタシが言ったことは覚えてるね」

「びょうきのこと?」

「モグモグしながらしゃべるんじゃないよ。……そ、アタシの病気の話。これから、ちーとばかり、家を空けることもある。まあ、あんたもわかるだろう?」

(噓を悟られないようにするのも、めんどうだねえ)

「うん」

「アタシがいないとき、一人じゃ心配だろう。で、助っ人を頼んでおいたのさ」

 ウィリアムは一人でも大丈夫と言いたかったが、昨日、空飛ぶキャンディと背の二倍はある巨大な唇に追いかけられたことを思い出し、黙ってオレンジジュースと飲みこんだ。

「その助っ人はなんていうか、クセが強くてねえ。簡単にいえば……子どもが嫌いなんだ」

「げほっげほっ……」

 単刀直入な言葉にむせるウィリアム。カウンターテーブルを軽々と飛び越えると背をさすってやった。

「ちょいちょい。大丈夫かい、ウィリアム」

 そのとき、部屋のドアが開くと、人を小馬鹿にしたような声が鼻を鳴らした。

「おまえは甘すぎるんだ、ヴィヴィ。小僧は放っておいてもデカくなる」

 肩をすくめたのは、上等なシルバーのスーツを着たルーカンだった。


 * * *


 時が進み、翌年一月初旬。

 MIW本部の一室。


「……以上のことより、MIW研究部は人狼部隊、通称"ヴォルフガング"の実戦投入中止を進言いたします」

 窓のないこざっぱりした会議室の上座で、メガネの男は説明をしめくくったラボの代表から目をそらした。円卓の左右には、制服組と背広姿の関係者数人が座り、各々の視線はバラバラだ。だが、その表情は一様に硬い。

 計画主任であるラボの白衣の女は、失敗作のスライドをいくつか部屋の壁に映したあと、淡々とさらにいくつか中止の理由を並べたてた。聴衆の耳に入っていないとは気づいてもいない。

 女が言葉を切ってからたっぷり、十秒ほど待ち、だれも口を開かないとわかると、メガネの男が白衣に目を戻した。

「ドクター、われわれ委員会は、あなたの忠告を受けることにしよう」

「わかりました。では、被験者たちをただちに隔離施設へ移送する手はずを整えます」

「その必要はない」

「……えっ」

 凍りついたドクターへ、茶色の軍服を纏った委員が言葉を続ける。無数の胸章が今は暗闇に沈んでいる。

「部隊に装備をやれ。そして輸送機へ詰めろ。移動先はきみが知ることではない。……もっとも、彼らは夜目が利くうえ、銃も不必要だろうが」

 軍服のジョークに何人かの短い笑いが続く。表情を変えないのは口をパクパクさせている白衣と、メガネの男くらいだ。

「一度かぎりの実戦だ。それをもって本プロジェクトを凍結とする」

 湿った笑いが収まった室内を氷のような声が貫いた。プレゼンのために暗くしてある室内でも、ドクターの青ざめた顔がはっきりわかった。

「ですが委員、被験者たちの制御は極めて困難で、ごく一部の者だけがかろうじて意思疎通可能なレベルです。その、どのような作戦かは存じませんが、不向きです」

「単純なミッションだ、ドクター」

 なだめるように口を開いたのはメガネの男だ。プレジデントチェアに深く腰掛けながら、いつでも動けるように片側のアームレストへ重心を傾けている。

「コントロールするまでもない。ヴォルフガングどもを解き放てばいい」

「そんなっ!」

 抗議しかけたドクターを目で制し、委員たちをもう一度、見回した。

 沈黙は、異議なしを意味する。

「さて、ドクター。科学的見地からの意見に感謝する。本件で得られたデータは大変、興味深いものだった。待遇に満足してくれたのなら、これからも研究開発に携わってほしい」

「え、ええ。お役に立てるのでしたら、よろこんで」

 メガネの言葉を言い換えれば、辞めるなら相応の覚悟をしろ、だ。初めから選択肢などないことはドクターにもわかっていた。

 無言が退室を促していることに気づき、白衣はそそくさと部屋を後にした。

「シニアコーディネーター。データベースの不正アクセスはどうなった? 同盟国の友人たちへ報告せねばならん」

「抜き打ちのペネトレーションテストとお伝えを、閣下」

〈上級調整官〉の権限を与えられた男が軍服へ椅子を回す。慇懃な口ぶりだが、この部屋のだれ一人、男の本心とは考えていない。

「しかしだね、調整官。件の侵入には相当のマシンパワーが必要だったと、エンジニアたちが言っているんだ。信じがたいことだが、『現代の技術水準ではあり得ない』と首をかしげているんだよ。まるで魔法のようだと。これについて、きみは?」

 魔法、と強調した部分にメガネの男の表情がわずかばかり歪んだ。

 だが、それを認める目ざとい者はおらず、初めて口を開いた背広組のねっとりとした質問にも、メガネの男は動じず、ただ椅子を向けた。

「補佐官、技術は日進月歩です。先をゆく者であろうと、慢心すれば瞬く間に後塵を拝する。魔法など存在しません。敵を知り、脅威を取り除くのが私の職務です」

「ではわたしから官邸に伝えよう」

 背広が席に静まると、委員会のトップ、茶色の軍服がまとめるように腕を広げた。

「目下、われわれの懸念事項は、制御不能な狼だ。幸いにして、孤独なわれらの一匹狼は弱体化しているそうだ。狼人といえど、獣の身に堕ちた者。部隊は自らターゲットに吸い寄せられるだろう。そのあとは、彼ら次第だ」

「とはいえ将軍。ヴォルフガングたちがリーダーを鞍替えする可能性はありませんか」

 疑問を呈したのは別の背広の女だ。彼女は暗に、狼人部隊がウィッチクイーンへかしずく可能性を危惧している。

 将軍がメガネの男に目で合図した。男はすっと立つと、短く息を吐く。

「狼人どもには希望を持たせてあります……人に戻れる可能性を」

 男は数日前のことを思い出していた。密かに顔を合わせた毛むくじゃらの憎しみに満ちた顔は、忘れようとするほうが難しい。

 部隊長リーダーとコードネームされた狼人は、他の個体より一回り以上巨大で、専用檻房に四肢を鎖でつながれ、ひざまずく姿は神話の英雄か、さながら英雄に討伐される狂獣のようだ。

 インターコムで呼びかけたメガネの男に、むくっと顔を上げたリーダーは、苦痛と憎悪の片目で睨みつけ、強化アクリルを震わす咆哮を返した。

 だが、男は引かない。並の人間が腰を抜かす獣へ一歩、また一歩と踏みこんでいく。その一歩に、かつて魔の業火へ包まれた愛する者を刻むように。

 そして男はメガネを外し、リーダーの隻眼をしかと受けとめ、ささやいた。

「人に戻りたければ、子どもを生かしたまま捕えろ」と。

 男の職務は、脅威を排除すること。

 男は内なる激しい炎をその鉄仮面に押し隠し、淡々と職務を遂行する。

 男にとっても職務にとっても、脅威は排除されなければならない。

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