二.朔

 八ヶ月後。

 季節は冬。十二月も半ばが過ぎ、街はすっかりクリスマスムードに染まり、行き交う人々は頬を染めながら浮ついた白い息をフウフウ言わせている。そろそろ降雪も間近と予報されているが、今のところチラつく気配はない。

 早いところではすでに休暇も始まっているが、ヴィヴィアンが退屈げに眺めているウェールズ地方行政庁の建物からは、ひっきりなしに人が出入りしている。休暇前に諸々の手続きをしようと駆けこむ人たちだ。

「役所仕事も苦労するねえ。来るほうだって、こんな年の瀬までため込むことないのにさ。ま、アタシは仕方ないけどねえ」

 厚い雲を切り出したようなベージュの建物は、コンクリートの染みやヒビが目立たなければ、雲のひとかたまりがそのまま、芝生に乗っかったふうにも見えなくもない。角ばったシティホールの、駐車場入り口を遮る紅白のポールと信号機にはメルヘンのかけらもないが。

「そりゃアタシだって、チャチャっと見つけて拾えてれば、ここまで切羽詰まることもなかったけどさ。条件がキツすぎるよ。なんだい、『其子は万物の層雲に忠実で在らねばならぬ』って。人よりちっとばかし長く生きてるけどさ、初耳だよ。このアタシが基礎理論から見なおすなんざ、ロブ坊やとエレメント論をひっくり返そうとしたとき以来だよ」

 本来は立ち入り禁止のはずの芝生をズンズンと歩きながら、ヴィヴィアンが独りごちた。きょうの出で立ちは上下が黒のスーツと、ややフォーマル。普段、取締役会でもショルダードレスにティアラを載せてくる彼女にしては、かなり控えめだが、高級テーラードスーツも充分に気高い。それを着こなしてなお、舞踏会へ乗りこむ女王のような気品は彼女らしさといったところか。左手小指の金の指輪がやや自己主張が激しい。

 火を吐くドラゴンの下に、『Llywodraeth Cymru Welsh Government』と、ウェールズ・英語で併記された行政庁のシンボルへは見向きもせず、ヒールを芝へ突き刺して歩くヴィヴィアンに、ポール横の守衛室でサングラス越しに目を光らせている厳つい迷彩服が視線を向けているが、動く気配はない。「越してきたばかりで手続きにやってきた余所者」風の装いが功を奏したらしい。

 そんな初々しさと憂いを帯びた表情のヴィヴィアンだが、あながち上辺だけでもなかった。

「ウィッチクイーンが養子縁組に、ねえ。条文のせいだよまったく。あれがなきゃ、いくらでも思いのままだってのに。ま、アタシが『優しいママ』を演じてやるんだ。言うとおりにしなけりゃ、承知しないよ」

 駐車ゲートの列に混じっている大型二輪へちらりと目をやり、「帰りはバイクだね」とウィッチクイーンがニヤリとした。

「ずいぶん手間取ったけど、ようやく見つけたんだ。逃しゃしないよ」

 ブランド物のショルダーバッグを掛けなおしながら、行政庁の正面階段を堂々と登っていく。吹き抜けた北風に行き交う人々は襟を立て、スカーフに顔を埋めるが、薄陽が当たってほのかに煌めくヴィヴィアンの髪はなびかない。

 魔法で偽装したダークブラウンの瞳はいつになく緊張していた。


「こんにちは、ミズ。本日はどのようなご用件で……」

「アタシの小僧はどこだい。たしか、ここで待つようにって、アランってやつに……」

 社会福祉科の窓口スタッフが笑顔を凍らせたのを見て、ヴィヴィアンは、心のなかで毒づいた。急ぐあまり、つい素で返答してしまった。

 とっさに咳でごまかし、前髪をいじる仕草をしてみせる。窓口のスタッフはまだ固まっている。不審に思われるまえに服従の魔法でも掛けようかと考えた矢先、ロビーの奥からヴィヴィアンを呼ぶ声がした。振り向くと、"卵"が歩いてくるところだった。

「ミズ・ヴォルフガング! お待ちしておりました。お早いお着きでしたなぁ。この時期はいろいろと立てこんでおりましてな。いやはや。はて、さきまで列があったはずですが」

 はち切れんばかりのタキシードをギリギリで着こなし、食いこむ蝶ネクタイを絶えず、微調節する。湿った手をヴィヴィアンへ差し出しながら、よくまわる舌がまくしたてた。息継ぎがまにあっていなくても、アランはしゃべることを優先するらしい。

「あー、福祉司のミスター・アランですね? お電話ではなんども相談に乗っていただけて感謝しておりますわ」

 握手を返しながらヴィヴィアンが声のトーンを上げる。"接触"した限り、アランに魔法の素質は感じない。事前調査でわかっていたこととはいえ、キョロキョロとロビーを見回すタキシード卵にヴィヴィアンはドキリとしたものの、ただ勘が鋭い人らしい。行列を魔法で蹴散らしたことを突っこまれるのは面倒だ。

(こいつはターゲットにいちばん、近いやつだ。影響ないだろうけど、用心に越したことはないね)

 と、ヴィヴィアンが魔法で操るのを断念したあとも、アランの口は止まらない。ちなみに『アンヴィル・ヴォルフガング』は戸籍上の名前で、世界的コスメブランド、『WolfLuna』の代表取締役も彼女だ。

「こちらこそ。いやぁ~、すぐにわかりましたともぅ。うんうん。じつにうら若く、麗しいお方ですなぁ。貴女のような社会的地位のあるお方が困っている子どもたちに手を差し伸べてくださるのは、私としても大変うれしいことですよ」

(まったく、アタシが七百歳超えでもそういえるかい?)

 当然、心の声は出さずに目を輝かせてみせる。悠久のときを生きてきた魔女王にとって、表裏を使い分けるくらい。造作もない。

「まあっ! うれしいですわ、ミスター・アラン。ところで、お電話で申し上げましたとおり、わたくしのこと、彼には……」

「ええ、ええ。もちろん話しておりませんとも。ただ『素晴らしいクリスマスプレゼントになる』とだけ、伝えております。しかしこのようなお嬢様にとって、さぞお辛いでしょうに……うっうぅ」

 いつの間に取り出したキャラクター柄のハンカチで目元をおさえる児童福祉司。大げさだが、電話でぼやかした「妊娠できない体」説を信じてくれたらしい。

(そうだよ。でっかいサプライズだろうねえ)

 わざわざ用意した特別仕様の檻を思いうかべ、魔女王がほくそ笑む。あの檻ならば、三カ月どころか数年でも居たいとターゲットはねだるだろう。もっとも、ヴィヴィアンにそんなつもりはさらさらなく、きっかり目的を果たしたあとはここへ返却するつもりだ。そのための手も用意してある。

「ズズッ……失礼。ともかく私どもが精いっぱい、お手伝いさせていただきますよ。きっと、あの子は、貴女様を気に入ってくれますとも」

「楽しみですわ」と、手をあわせて内心、ヴィヴィアンが鼻をならす。

(そうじゃなきゃ困るからね。まあ、アタシに懐かれても困るんだが)

「では早速、こちらへ」

 ふうふうと、わき出る玉の汗をふきながら、アランが会釈。スキンヘッドの高さは、ヴィヴィアンの肩までしかないが、先導する動きは機敏だ。

「ごきげんよう」

 優雅に受付カウンターへ手をふり、アランのあとについていく。ロビーに散っていた来庁者が急に列をつくりだすと、カウンターの職員は謎の二面相女どころではなくなった。


「……ミスター・アラン。あの、彼のいるところへ連れて行ってくださるのでは……?」

 ターゲットの居場所を、ヴィヴィアンは庁舎に入ってすぐつかんでいた。別の方向へ向かう足取りにさりげなく疑問を呈したのもそのためだ。アランが歩いているのは書類を抱えた職員たちが出入りする事務所の廊下で、とても子どもがいるようには見えない。

 足を止めずに後ろを振り返り、卵頭が丁重に願い出る。

「もちろんです。すぐお目にかかれますよ。その前にすこし、私の部屋でお話する時間をいただけませんか。お時間は取らせません」

(ここで押し入るのもおもしろそうだけどね)

 ターゲットをさらうのは簡単だが、役所で魔女王の姿をさらすのはよくない。ここには大企業のCEOとして来ているのだ。ヴィヴィアン抜きでも会社が回るよう部下と打ち合せてあるし、操業自体が趣味のようなものとはいえ、看板に泥を塗るのは本望ではない。

 それに、ヴィヴィアンが力を解放すれば、ターゲットに影響が及ばないようにするのは至難の業だ。武装した兵がどれだけ群れようとウィッチクイーンの敵ではないが、銃弾の雨の中、連れ出さられるのは、新しい養親の第一印象として最悪だろう。

 やだね、と言いたいところを堪え、ヴィヴィアンが「わかりました」とうなずくとアランはホッとしたように礼を述べた。


 アランの部屋は廊下の突き当たりのこじんまりしたものだった。中へ通されると簡易な応接ソファが一対、奥に事務デスク、事務イスの上の壁にはサンタのモデルとされる聖ニコラウスの肖像画が来客を出迎えた。聖人の出迎えに一瞬、眉をひそめるヴィヴィアンだが、後から部屋へ入ったアランには見えなかったようだ。魔女は性格からして聖人君子の類いと相性が悪い。

 腰掛けるよう促し、部屋の奥へ向かうアラン。失礼にならない程度の早口でヴィヴィアンが立ったまま尋ねた。

「それでお話とは……?」

「いえ、それほど固くならずとも結構ですよミズ。書類はすでに郵送で一式、揃っておりますし。いやはやー、それにしても来週にクリスマスを控えたいま、養子縁組を望まれるかたは珍しい」

「……なにかご不便なことが?」

 デスクをまさぐるアランの言葉に別の意図を感じ取ったヴィヴィアンが歩み寄る。

「私は、貴女がご指名したウィリアムの後見人をしとるんですがね。このホリデーはスキーにでも行こうかと考えておりました。寡黙な子ですが、自然にふれさせてあげれば心も落ちつくかとおもいましてね。もっとも、理由はわかりませんが、どこも軒並み休業では予定を変更せざるを得ませんでしたが」

(根回しのおかげだね。今シーズンのウェールズは雪も降らないだろうしさ)

「率直にお尋ねしますミズ・ヴォルフガング。貴女はウィリアムの母親となるわけですが、彼の人生を導く責任についてお考えになったことはありますかな?」

「わたくしに彼……ウィリアム君の母親として覚悟が足りない、ということでしょうか」

 デスクの前に立つヴィヴィアンは穏やかに微笑んでいる。だが、その碧眼はむしろ逆。

 並の相手ならば平伏すウィッチクイーンの挑戦に、福祉司のアランはドキュメントホルダーをトンッ、と机に打つ。

「覚悟で親がつとまるなら、私どもの職務はもっと単純なものとなるでしょうな。ミズ・ヴォルフガング、子は親の背中をみて育ちます。私ども大人が彼らの道しるべとなるわけですな。大人が気張っていれば、子にも伝わる」

「すこし、緊張していることは認めますわ、ミスター・アラン」と目を伏せるヴィヴィアン。

「でも、わたくしには彼が必要ですの。彼なしには生きられないほどに」

「それではまるで恋のようですな」

「恋も愛のひとつですわ。最初のお電話でも申し上げましたけれど、わたくし、これまで仕事以外に心惹かれるものはありませんでしたの。ご承知のとおり、わたくしは家族に縁がありませんので。でも最近、ふとそれでは虚しいことに気づいて。いっしょに日々を分かちあうのに、子どもほど素晴らしいものはありませんわ。お言葉ですけど、わたくしはウィリアム君を導くような大人より、共に人生をあゆむような、身近な存在でありたいですわ」

 あなたがおっしゃる恋人のような、とヴィヴィアンが真顔でダメ押しすると、さすがのアランも驚いたようにギョロッと目を見開いた。手元の書類に目を落とし、感慨深そうに息を吐いた。

「そうですか……。貴女なら、彼の心を……いや、そんなことは関係ないとおっしゃっていましたな」

 デスクを回ってアランが差し出したホルダーを、

「はい。ウィリアム君が打ち明けてくれるまで、わたくし、いつまでも待ちますわ」

 ヴィヴィアンは曇りのない笑顔で受けとった。


「こちらです、ミズ」

 アランに促され、手彫りのプレートが掛かった木目調の美しいドアへ頭を覗かせる。室内では一人、ターゲットが隅の学習机に座って本を広げていた。分厚いそれは動物図鑑で、透視すると狼のページを読んでいたらしい。眉間にシワが寄っているのはクセらしく、視力に問題はない。気難しそうな表情は事前の調査通り、心を閉ざした子ども特有だ。が、やはりあどけなさは隠しきれない。

(ふ〜ん。写真より小さくみえるねえ。いかにもひ弱そうだ)

「は、ハーイ、ウィリアム君……」

 初対面の緊張した養親、を演じるべく部屋へ踏み入れた途端、ジロッとウィリアムが顔を上げた。追いつめられた捨て猫の目で一言、

「……ネコ被り」

 ぼそっとつぶやいてまた図鑑へ目を戻す。

(この小僧っ!)

 ヴィヴィアンが固まったのは、九歳の子どもに不粋にされたからではない。気高い魔女王とはいえ、子どもにそっぽを向かれたくらいで切れるほど堪忍袋の緒は短くない。

(まさか〈ユニーカ〉は、〈トゥルース・ファインダー〉じゃないだろうね)

〈ユニーカ〉は個人が持つ特性だ。魔法使いであるか否かにかかわらず、人は生まれながらに一つ、ないし複数の〈ユニーカ〉を持つ。遺伝とは無関係の〈ユニーカ〉はしばしば才能と世間に理解されがちだが、必ずしもポジティヴに働くとは限らない。

「そ、そう! ネコが嫌いなのね、ウィリアム君。わたくしもよ〜。気があうわねー」

 今度はチラッと目をあげただけで、ウィリアムはなにも言わなかった。

(アタシのネコ嫌いは筋金入りだからねえ。まあ、これっぽっちじゃ、断定できないけどさ)

「ウィリアム、こちらはミズ・ヴォルフガング。驚いたかね。ビッグなサプライズだといったろう?」

「あたらしいママハハ?」

 アランが大げさに腕を広げて盛りたてると、ウィリアムは相変わらずの冷めた声で聞き返した。表情は変わらないが、目つきは少しやわらいでいる。この福祉司には気を許しているらしい。

「ウィリアム、ミズ・ヴォルフガングは多忙なところを……」

 アランに目配せし、ヴィヴィアンが部屋を歩いていく。一人部屋らしく、学習机の反対側には子どもサイズのベッドがキレイに整えられている。

 机の傍で止まると、ヴィヴィアンが腰を屈めた。

「そのとおりよ。わたくし、いいママハハになれるかしら」

「……ママハハはママハハだ」

 ヴィヴィアンの差しだした手をウィリアムは目を泳がせつつ、軽く握る。室内は程よく暖房が効いているにもかかわらず、ウィリアムの手はひんやりし、小刻みにふるえていた。

(そんなにアタシが怖いかい。それとも資料にあった過去のせいかい)

 しゃんと背筋を伸ばしているが、強がっているのは魔女王の目にも明らかだ。

 あわせようとしない視線をたぐると、ヴィヴィアンが脇に抱えたドキュメントホルダーに行き着く。この資料は直近のものだが、ヴィヴィアンは彼が生まれたとき、さらには生まれる前までのあらゆる情報を調べあげていた。それらを含めて考えると、ウィリアムがこれくらいの無愛想で済んでいることのほうが奇跡的といえる。

(世話がやけるねえ……なら焼いちまおうか)

 魔女王はサプライズを好む。呆気にとられた相手を眺めるのがなによりの至福のときだ。アランに見えないよう資料の束を抱えなおし、ウィリアムの手をぎゅっと握る。

「わっ⁉」

 途端に書類が燃えあがり、抱えていた部分のスーツに穴が空いて麗しい肌があらわになった。ウィリアムはびっくりしたやら恥ずかしいやら、くりくりした目を白黒させている。

「どうしたんだい?」

 近づいてきたアランにヴィヴィアンがくるりと振り返ると、なにもなかったようにホルダーを差しだした。スーツも元通りになっている。

「あの、せっかく用意してくださったのですけれど、これはお返しいたしますわ。わたくしたち、これから新しい日々をすごすんですもの」

「わかりました。すでにサインはいただいておりますし、私がお預かりしましょう」

 横で見ているウィリアムはますます訳がわからないといった顔でヴィヴィアンを見たり、握手した自分の手を不思議そうに動かしている。

(安心しな。あんたに魔法がつかえないのはアタシが保証するよ。フクロウが手紙を届けることもないからさ)

「ウィリアム」

 アランが優しく呼ぶと色白の顔を上げた。すかさず気を利かしたヴィヴィアンは、部屋を見て回るフリをして離れた。

 この部屋は里親がいない子どもが日中を過ごす場所だと聞いている。普段は数人と共用らしいが、他の子どもたちはすでに休暇のあいだ限定の里親の元へ行っているようだ。木目の美しい壁にはここの子どもたちの写真が笑いかけてくるが、どの写真でもウィリアムは俯いているか、あの気難しいしかめっ面で写っている。

 隅のベッドまで来ると、英国の子どもたちに人気沸騰のキャラクター柄で寝具が揃えられていた。どれも洗いたてのように真新しい。アランが特別ウィリアムを気に掛けているという情報は、間違いないなさそうだ。

(裏があるって感じでもないようだねえ)

 壁の写真を眺めつつ、二人の会話へ耳をかたむけると、アランが「いつでも電話してきなさい」とカードを渡していた。魔女の力を使えば、聞き耳に見ることもできる。カードはアランの連絡先らしい。福祉司は特にはばかることもなく、休暇中の相談窓口の説明をするところだった。煙たそうにしながらもウィリアムは黙って聞いている。

(こりゃあ、戻ってきたくなくなるくらい、素敵な居心地にしてやろうじゃないの)

 ヴィヴィアンはとにかく負けず嫌いだ。勝負を挑まれてもいないのに、この部屋と用意した檻と、どちらをウィリアムが気に入るか、ウィッチクイーンの目に青い炎が灯った。

(模様替え完了っと)

「ミズ・ヴォルフガング」

「はい」

「お話したように最終判断は、子どもたちに委ねられる規則です。結果如何にかかわらず、異義申し立てはお受けできかねる。よろしいですかな?」

 姿勢を正したアランはまるで裁判官だ。司法に少なからず因縁のあるウィッチクイーンとしては火あぶりにしたい気が起きないでもないが、にっこり微笑むと、机を背に立っているブロンドの少年にウインクを返した。ウィリアムは意味がつかめないように視線を逸らした。アランにも見えただろうが、肩をすくめるだけでなにも言ってこなかった。

(心配いらないよ。ちょっとしたヴァカンスだ。魔女王とのね)

「コホン……ではウィリアム、きょうからミズ・ヴォルフガングといっしょに……」

「いく」

 魔女王をまっすぐにらみつけ、少年がもう一度くり返す。

「この人のところにいくよ」

 トパーズの色をした小さな瞳がはっきりと、「化けの皮をはいでやる」と挑んでいた。

(へえ、いい眼をしてるじゃないか。だったらアタシも受けて立とうかねえ)

 二人のあいだになにやら、火花を見た気のするアランだが、軽く頭を振ると、「わかった。では、荷物を片づけてきなさい。十分後に正面玄関で」

「よろしくね、ウィリアム」

 指先から雪を降らせつつ、ヴィヴィアンが颯爽と部屋を後にする。もちろんカーペットにシミは残らないし、さきに部屋を出たアランにも見えていない。あんぐりした表情は魔女王のごちそうだ。

「そういえばミズ・ヴォルフガング。ご自宅まではお迎えが?」

「いいえ。わたくし、堅苦しいのは性にあわないんですの。車を用意してきますわね」

 優雅に会釈して歩いていく若きCEOをアランは卵から飛び出た目玉をぱちくりさせて見送った。


「ヴォンヴォン……」

 六気筒の重低音が庁舎前の空気を震わせる。専用にカスタマイズされたエンジンはすぐにでも咆哮をあげようとしているが、猛獣へ寄り添う美女がなだめている。

「み、ミズ、これは……」

 ダッフルコートで身を固めたアランが正面階段を降りようとして目をひんむいている。横にはスカイブルーのダウンジャケットでむっくり、膨れたウィリアムがクリムゾンレッドのリュックサックを背負いなおし、あきれた表情をしているが、バイクに興味津々なのは釘付けの目が良い証拠だ。

 ウィリアムのリュックによく似た、だがより濃い、カーマインレッドの燃えるような車体はまるで炎そのものを固定したように鮮やかで、曇り空にもかかわらず、陽の光を浴びたように煌やかだ。

 滑らかにせり上がったシートを叩くと、シート下のトランクが開いた。狼のイラスト付きキッズサイズのヘルメットを取りだすヴィヴィアンは、いつしか漆黒のライダースーツが体のラインを際立たせている。留めてあった長髪がチェッカーフラッグよろしく、北風にたなびいていた。

「わたくしの愛車ですわ。これで帰りましょう。最初だから、ゆっくりいきましょうね」

「……うそつき」とつぶやいたウィリアムの声は、里親の素行をどうすべきか悩んでいる福祉司の耳には入らない。

「ですが、ミズ。ウィリアムはバイクに乗ったことなど……」

「ウィリアム、どうする? バスで帰ってもよろしいのよ。バイクは回収に来るから」

 アランの抗議が聞こえなかったフリをして、ヴィヴィアンがちょうど乗り場へ入ってきた公営バスを指さした。燃料電池のバスはエコで乗り心地もよさそうだが、宝石のようなバイクを見た後では、ツートンカラーの長方形にしか見えない。

 少し迷ってからウィリアムがアランを見あげた。

「だいじょうぶ。ぼく、乗りたかったんだ。いいでしょ?」

「そうだったな。だが、気をつけるんだよ。ヘルメットをしっかり被って、ミズ・ヴォルフガングから手を離さないように」

「うん」

 階段を数段、下りたところでウィリアムが振り返る。

「アラン……ありがとう」

 赤い鼻先をすすり、福祉司が笑顔をつくる。

「さあ、いきなさい。ミズ・ヴォルフガングのいうことをしっかり聞くんだよ」

(まるで今生の別れだねえ)

 トコトコ歩いてくると、ウィリアムが車体に手をかけた。だが、車高が身長とさほど変わらないのだから、あがいたところで乗るのは無理がある。このまま助けを乞うまで眺めているのも一興だが、あいにく周囲の目がある。

「よいしょっと」

 背後から両脇を抱えられ、ウィリアムがびくっと体を強張らせた。それでもかまわず、後部シートに降ろすと、青白い顔が初めてのバイクに血色をよくしていく。チラチラこちらを見るときのしかめっ面は相変わらずだが。

「ヘルメットの中にマイクとスピーカーがついているわ。道中、楽しくおしゃべりしましょ」

 キッズメットを渡すと、ヴィヴィアンはまだ鼻を啜っているアランに向かって会釈した。周囲の狭い範囲に温かい風が渦巻いていることに気づくことはないだろう。アランに風邪を引かれては困る。いずれウィリアムの世話を頼むときのために。

「ベルトはしっかり締めなきゃ」

 首がねじ曲がった狼人間になっているウィリアムのヘルメットを直し、首のバックルをきゅっと締め直す。ついでに値札を引きちぎると、手の中で燃やした。バインダー越しに視線を感じてヴィヴィアンは"瞳の色"を変えた。たちまち、ヘルメット内でジングルベルが流れはじめる。

 ヴィヴィアンがシートの前方へまたがると、もう一度、バイクがうなりをあげた。

「ほーら、ウィリアム」

 クリスマスソングに混じってした声はヴィヴィアンだ。ライダースーツの腰の辺りをトントンと叩いている。

「アランにも言われたでしょ? しっかりママにつかまってて」

「……ママじゃない」

 と不機嫌に返事するも、しぶしぶヴィヴィアンの背中へ覆いかぶさるウィリアム。黒のライダースーツはじんわり温かく、心地よい。

(手袋の代わりだよ。さすがに魔法で編んだものはダメだろうしさ。ま、ヘルメットはお代とチップ、置いてきたからいいだろう)

「出発するわ」

 ヴィヴィアンのヒールが地面から離れ、滑るようにバイクが動きだした。ウィリアムの思ったほど、振動も爆音もない。ドライバーがそれらエネルギーを、リアルタイムでコントロールしているからだった。真紅のバイクが庁舎前広場を後にし、敷地内から離れていく。公道へ出る直前、火を噴く頭が三つのドラゴンが二人を見送った。

 ウィッチクイーンの〈ユニーカ〉は〈エネルギーの変換〉。それをもってすれば、エンジンの排熱を体にまとわせることくらい容易い。だが、優れた力には代償が伴う。ヴィヴィアンの体を馴染みの痛みが駆け抜けた。

「うっ……」

「……だいじょうぶ?」

 スピーカー越しに漏れたヴィヴィアンの声を気遣うウィリアム。その手には力が入っている。

(この子に気ぃつかわれるなんてね。アタシもずいぶん、余裕がなくなってきたもんだ)

 魔法と狼人化は複雑に絡みあった糸くずのようなものだ。狼人化を一時的にしのぐことも、逆にわざと発現させることもできる。だが、どちらでも体へ負担を強いるのは変わらない。そして魔法の行使そのものが狼人化の進行をさらに早める。

(だとしても、アタシは成りさがるわけにはいかないんだよっ……!)

 魔女王はためらわず魔法をつむぐ。たとえその場しのぎであっても、魔女王はむざむざ自我を失うことはできない。それはすなわち、制御不能な殺戮者に変わることを意味する。

「大丈夫よ……」

 背中の小さな重みへ、できるだけ明るく囁きかける。もっとも、彼にはヴィヴィアンの強がりが通じないのだろうが。案の定、むっとした気配を背に感じた。それで反動の大きい、時間へ干渉する魔法の負担が減った気がするのだから、魔女王は苦笑いするしかない。

「じゃ、そろそろ飛ばしていこっか!」

 グリップを思いっきり回し、魔女王専用のスーパーバイクに檄を飛ばす。瞬時に歓喜の咆哮をあげ、焔をかたどった車体が物理法則へ挑むように加速した。法廷速度をまるで気にかけない単車がカーディフの街を爆走していく。だれかが通報するだろうが、魔女王に追いつける者はいない。

「……‼」

 声にならない小さな悲鳴が背中から抗議してくる。それでも懸命に離さまいとしがみついてくる感触がこそばゆいやら、うれしいやら、魔女王はつい声を立てて笑ってしまった。

「はははっ!」

 笑い声はウィリアムの耳にも届いていた。よくわからないママハハだが、清々しい声は純粋に喜んでいる。ネコ被りでいかにも怪しいが、ヴィヴィアンの声は嫌いではなかった。

「一気にいくよっ」

 クリスマスの街を新しく親子となった二人が駆け抜けていく。

 薄曇りの午後、親子の走り抜けた道だけ、光が差したように明るくなっていた。

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