一.弦月

「拠点を制圧。〈ディフェンダー〉配備完了」

「敵ヒューマノイドは殲滅、セキュリティ要員五名を確保、味方部隊の損害、〈マンノイド〉一体!」

 幅が優に五メートルをこえるマホガニーの巨大なカウンターテーブルに、いくつものホログラフィがうかんでいた。

 リアルタイムの映像のほかに、緊張した隊員の声とサポートを担う人工音声が入り乱れ、それらを上回るデータの羅列が、黒光りするテーブル面を木目のように流れていく。にもかかわらず、司令室は静寂そのもの。

 膨大な報告をうけるのは、剃り上げた頭を、短く刈ったアゴヒゲが支える初老の男だ。男のヒゲは灰色で、義眼ともうわさされる鋭い目の尻には幾本ものシワが寄っている。

 だがホログラフィをながめ回し、戦術的数値から次の一手をはじき出す男の金眼こそ、年齢をものともせず、機械と人の混合部隊を支配する彼の実力の片鱗に過ぎない。現場を退いてなお、カーボンカラーの戦闘服をまとっているのは、どこにいようと男にとってはそこが戦場であり、自分が前線の一兵卒と変わらないことを忘れさせないためだ。

「これより、ターゲット奪取に移る。〈コンクレオ〉、ご指示を」

 図書館と迎賓館をあわせたような、無数の蔵書とアンティークが整然とならぶ広間で、ただひとり仁王立ちする男は、〈征服者)

〉とよばれるにふさわしい姿だ。片方しかない耳に装着した通信機越しに指示を仰ぐ声も、どこか緊張している。

「ここまで我々は、多大な代償をはらってきた」

 後ろ手にまわした丸太のような腕をゆったりテーブルに置き、征服者が朗々と言葉をつむいでいく。太くも、大きくも、しゃがれてもいない低い声には、それだけで人を従わせる不思議な響きがあった。

 だがコンクレオの言葉に犠牲を悼む気配は微塵もない。

「すべては、〈カレドヴール〉を手に入れるためだ。古の伝説が腐敗した世の平定をもたらすように、新たな聖剣が我らを悠久のときへ導くだろう。〈宵闇の宣託者〉に栄光あれ!」

「栄光あれっ!」

 部下たちが一斉に男の鼓舞を繰り返す。

 寸分のズレもなく、人工音声さえも声をあわせる様は、狂信者たちの雄叫びのようだった。事実、コンクレオのカリスマ性は現代における預言者と囁かれ、率いる〈宵闇の宣託者〉は世界に散らばるテロリストはおろか、いくつかの小国家さえ、極めて短期間に手中に収めている。大国の刺客を幾度となく屠った征服者には、もはや恐れる者などいないようにみえた。

「もうじきだ」

 あわただしく変わっていく現場の映像を見つめ、征服者が感慨深げにつぶやいた。彼の築いた帝国は盤石にみえるが、その実、求心力は失われかけている。あまりにも強大になったからだ。元々ならず者の寄せ集めから始まった組織には、ヒエラルキーを支える下地がない。あちこちに拡がる綻びはコンクレオをしても食い止めるのは困難。

 しかし、〈カレドヴール〉が手に入れば話は変わる。

 男の目からは相変わらず表情が欠けていたが、口元は満足げにゆがんでいた。

 だが、〈コンクレオ〉の満足は続かない。

「前方に熱反応あり。だれかいるぞ……う、うわぁあ!」

 標的の部屋へ侵入した部隊は、易々とターゲットを手に入れるはずだった。

 しかしカメラ越しに〈コンクレオ〉が目にしたのは、先頭をいく部隊長が突然、炎につつまれる姿と、駆け寄る他の隊員も次々、真紅に消えていく光景だった。

「どうなっているっ?! 〈マーリンズ・アイ〉、報告しろっ!」

 テーブルを叩いて戦略AIを呼びつける〈コンクレオ〉。

 ホログラフィに突っ込んだ顔からは、それまで満ちていたいっさいの余裕が失せている。

「アンノウンの敵襲撃。先遣隊のバイタル反応消失……」

「全滅、だとっ……?! 敵の部隊は? 〈ディフェンダー〉をよべっ!」

「敵人数……一名」

 淡々としたAIの報告に今度こそ、〈コンクレオ〉は言葉が出なかった。

 現場の映像で隊員からのものは、いまやほとんどが途切れ、残った機械兵の目が伝えるのは、床に積もった灰だけだった。

「なぜ攻撃しないっ? 全〈マンノイド〉を送れっ! なんとしても私の聖剣をとってこい……」

「ぴーちくぱーちく、うるさい男だねぇ、まったく。そんなんだから、嫁と娘に愛想、つかれるんだよ」

 静まり返った現場から、戦場に似つかわしくない鷹揚な声がきこえてくる。

 まるで、離婚した甥っ子をとがめる叔母のような、呆れとさげすみの声だ。

「貴様っ! なにものだぁっ?」

 首筋の血管をうきあがらせ、咆える〈コンクレオ〉をじらすように現場の煙がゆっくり、晴れていく。

 いつしか、分割したホログラフィは一枚の大きなスクリーンとなり、数体の機械兵の目線をつないだ映像に切り替わっている。作戦の種々のデータマップも消えているが、司令官は気づかない。

〈コンクレオ〉がにらみつける巨大スクリーンでは、まさに煙の合間から、人影があらわれるところだった。

「女……だと……?!」

 コツッコツッ、とヒールを慣らし、すらりとした体が灰の絨毯をモデルウォークしてくる。

 肢体の輪郭を強調するようなレザー生地は、ライダースーツにもみえるが、鮮やかな緋色だ。細く長い指には、黄金に輝く大ぶりの指輪がひとつ、にぶい光沢を返している。

「イマドキ、女がめずらしいかい? それともあんた、女がこわいんじゃないだろうねぇ?」

 グレーの長髪をはらい、女がふっと口角をあげた。鮮血のような唇が禍々しい。

 端正な顔立ちはハッとするほど綺麗だが、艶やかな声も、険しい目つきのターコイズブルーの瞳にも、おそろしいほどの攻撃性を発している。戦地を生き抜いた手練れなら、即座に本能的な危険を感じるような相手だ。

 そして、〈コンクレオ〉は己の直感にしたがうことで征服者まで昇りつめた男である。

 すかさず、あらたな指示がとぶ。

「〈マーリンズ・アイ〉、全兵装の使用を許可する」

 マホガニーのテーブルに掌紋を認識させ、〈コンクレオ〉が現場の〈マンノイド〉へ直接命じた。このコマンドはあらゆる権限より高い。機械兵は指示を受けとり次第、正規の軍隊をもしのぐ火力が敵を殲滅する。

 部隊の全滅は痛手だったが、これくらいのことで取り乱すような征服者ではない。

 映像の女は、さきから一歩も動いていなかった。正面の〈マンノイド〉を、自己アピールのカメラマンくらいにしかおもっていないような悠長な立ち姿だ。じっさい、現場との通信はノイズが激しく、〈マンノイド〉の大部分は複雑な操作が効かない。

 女の挑戦的な目は油断ならないが、奥の手があるにしろ、敵を殲滅するならいまがチャンスだ。

「……攻撃しろっ!」

 冷静さを取り戻した〈コンクレオ〉が肉厚な掌を叩きつけ、兵器システムを解除する。周囲を焦土と化する手段は〈コンクレオ〉自身も取りたくなかった。

 だが、もはや人間の部下はいない。

 そして、手をのばせば届くところに、聖剣がある。古の王剣の名にふさわしい、人が創りし至高の作だ。

 あれがあれば、征服者は神へと至るだろう。

「チッ、聞きたくもない名前だしやがって」

 真紅の女の眉間に深いシワが寄った。アドレナリンで陶酔している征服者が気づくはずもない。そのまま手をひらりとさせると、倒れている〈マンノイド〉が火花を散らしてバラバラに砕け、頭部がふわりと浮いて、女の手に収まる。

 機械の頭を艶めかしくなでながら、ふくらみのある唇が、どんな読唇術者にも解読できない言葉を形づくっていく。

「システムダウン、侵入者により全システム掌握。排除不可。ぎゃ、逆探知……」

「なっ……!? 〈マーリンズ・アイ〉!」

 テーブルから突然、すべてのデータが消えると同時に、戦略AIが〈コンクレオ〉のもっともおそれる事態を告げた。あらゆる情報、データ、そして指揮権を司るプログラムが乗っ取られたのだ。

 それもつかの間のことで、人工音声はギィ、と不自然に発したきり、事切れた。

 広間の照明も消え、スクリーンだけが別世界への入り口のようにうかんでいる。

「ふ~ん。木は森に、ってかい。なるほどねえ。ナルシスト野郎も中心街にいればみつからない、か。あんた今……」

 紙くずでも捨てるように〈マンノイド〉の頭部を放って、女がゆっくり歩きはじめる。自分だけのランウェイを闊歩し、カメラの向こうで固まっている男を見すえ、妖艶な口ぶりで男の居場所を暴露していく。

「なぜだ……〈マーリンズ・アイ〉はハッキング不可能な……うっ……」

「だまんなっ! なんどもなんどもマーリンマーリンマーリン……っるせぇんだよっ! そんなにあいつが好きかい?」

 小綺麗な顔立ちを歪めて女がほえる。その背後ではステージのクライマックスを飾る火柱が次々に立っていた。服装と相まって、炎そのものが女であるかのようにみえる。

 蒼い双眸だけが冷たく、激しい怒りを一点にぶつけた。

「なら会わせてやるよ!」

 吐き捨てるなり、女がホログラフィを踏み越えた。

「きさまっ……?!」

 暗闇が一瞬にして赤々と照らされ、快適だった広間はむせかえるように熱い。

「おやおや。起爆スイッチはお預けだよ」

 手首のバンドを触ろうとし、後ろ手に縛られたような格好で固まる男を灼熱の女が睥睨する。テーブルに立つ女のまわりで、引き連れた炎が逆巻いていた。意思を持つようにマホガニーを焼き、揺らめいて男の顔をなでていく。

「このまま、なぶってもいいんだがね、やっぱり生きたいかい?」

 腰をかがめ、男の耳元へささやく。体の自由を完全に奪われていなければ、さぞ、情熱的だったにちがいない。

「……ヴェネフィカスの……末裔……?!」

「ようし、アタシのことはいい。あんたとこの名前、隠れ家とカネの出どころ、ぜんぶ、さっさと吐いちまうんだね。アタシは忙しいんだ」

「チャララララ~チャラララ~ラ……」

 そのとき、軽快なメロディが広間に響いた。あまりに場違いなサウンドは、かつてマジシャンが手品を披露する際に使っていた音楽と似ている。

「ったく、せわしない連中だねえ。アタシが信じられないなら、たのむなっつー、のっ!」

 ぐるりと目をまわし、女がため息をつく。ヒールを振り上げ、電光石火でテーブルに振りおろした。

 ただでさえ炭化した上質の木材を貫通し、ピンヒールが無惨な穴を空ける。持ち主が抗議に唸るが、「あんたも穴、あけられたいかい?」と凄まれては、黙るほかない。

 おとなしくなった〈コンクレオ〉を冷たく見下ろし、女がライダースーツの胸元を大胆に下げていく。ジッパーの音に征服者の目が野蛮に光る。だが、女は見せつけるように臍まで服を開けると、内ポケットからそれを取り出した。

 手のひらにすっぽり収まっていたのは、ライダースーツと同じ、紅蓮の携帯電話。二つ折りのそれをパカッと開き、耳に当てる。髪をかきあげるその右手を、灰色のやや長い産毛が覆っている。

「なんだい?」

「……重要参考人をいたぶるのはやめてくれ」

「コイツが笑うんでね。つい、足が出ちまうんだ。恨むんなら、あんたらのくれたこの最新デバイスに言いな」

「インイヤーの通信機を手配しよう。もちろん、きみ仕様の特注品だ。次のときに渡すから、いまは控えてくれるとありがたい、クイーン」

 提案を秤にかけ、クイーンが要求する。

「マンダレイ産のルビーをあしらえとくれ。こんど、塗装でごまかしたら容赦しないよ」

「……わかった。でも装飾代はこれまで通り、きみの報酬から差しひく。 作戦とは無関係な装備に予算は出せない」

「相変わらず、役所仕事だねえ」と皮肉りながら、ガツガツ蹴り続けていた足を降ろした。参考人の体がヒクついているが、息はあるようだ。旧式の通信機から落ち着いた男の声が「一応、役所だ」と切り返す。

「秘密機関で『役所』、ねえ。じゃあ、アタシが死んだら届けを出しに行っていいかい」

「……仕事の話にもどろう、クイーン。シェルターの炎をどうにかしてくれ。隊も入れない。きみだって忙しいんだろう?」

「立ち聞きも仕事のう近い」

 目を細めつつ、クイーンが手を振る。

 勢いのあった炎がふっと消え、白い煙と木材の焦げたにおいが〈コンクレオ〉の司令室に充満した。背後のホログラフィでも鎮火し、迷彩柄の集団がこれでもかと、まだ消火剤を吹きつけている。

 短く礼を述べてから電話口の男の声が、

「われわれを見くびらないでくれ、〈ウィッチクイーン〉。きみは、魔法で悪党を見つけだす。われわれはテクノロジーだ。そしてきみを支援する。そういう契約だったと記憶している」

 と事務的な口調で続けた。

「プラス、アタシの監視だろう? 間諜のくせして大義ぶるとはね」

「そうだ。われわれには大義がある。協力にはいつも感謝しているよ。お偉方もたいへんご満悦だ」

 淡々と礼をのべてくるあたりが、いかにも彼ららしい。ビジネスはあくまでドライに。飽きっぽい魔女にとっても、悪くない。

「ふんっ」と、鼻をならすだけの彼女をみても、まんざら不満ではなさそうだ。

「さてと、じきチームが到着するから、いつものバンドで拘束しておいてくれると助かるよ。ああ、あと睡眠薬もわすれないでくれ。ただし、このまえみたいに、飲ませすぎて心停止させるな? それから……」

 電話を耳から離すと、ウィッチクイーンが首領の部屋を見回した。指示には適当に相づちを打っておく。部屋の主は硬直させたまま、テーブルに突っ伏している。呼吸だけはできるようにしてあるから今のところ、窒息することもないだろう。

「へえ〜あんた、稀覯本コレクターかい。見かけによらないねえ」

 テーブルをぐるりと、三メートルを越す本棚が取り囲んでいた。半分から下は普通の本棚のように背表紙が並んでいるが、背丈より上にある本は、アクリルケースに一冊ずつ収まっている。暗闇に潜む獣ばりの夜目が利くウィッチクイーンには、古今東西、さまざまな言語で書かれた文字がよく見えた。本棚の上へいくにしたがって言語は古くなり、ドーム状の天井ちかくには楔形文字の石版まで鎮座している。

「どうせ、ぜんぶ没収されるんだ。アタシが気に入ったやつは代わりに持っててやるよ……おっと、おしゃべりはなしだ」

 ウィッチクイーンがファスナーを締めるジェスチャをすると、開きかけた〈コンクレオ〉の唇がキッと、閉じる。あいにく、ウィッチクイーンは横でぺらぺら話されるのは好きではない。

「『Dolorem in lupos hominum』……"憂いの狼人"、ねえ」

 分厚い蔵書にまじって、色あせた青銅色の一冊にウィッチクイーンの蒼い目がとまった。アクリルケースの真下の段だ。軽く床を蹴って体をうかせる。罠除けの魔法を手早くかけ、危険物ではないとわかると、いまだ容疑者の拘束について長々と繰り返す携帯電話をテーブルへ放ってから手をのばした。

 片手に収まる小ぶりで装飾がほとんどないその本は、手記のようだ。日付がページの隅へ記されている。ただし、年の記載がない。いつ頃の代物か正確にはわからないが、母音の変化からラテン語、それも古い時代のものらしい。日記には図やスケッチ、数式が多くならんでいるが、文章は少なかった。

「ふ~ん。パルプ材か」

 手触りから紙質を推測したウィッチクイーンが声をもらす。好奇心と期待を隠しきれないことが、燃え盛る鋼のようだった声に、穏やかさとしてにじみ出ていた。

 ふいにページをめくる手が止まった。日記をひらいたまま、石像のように赤い魔女はうごかない。釘付けの瞳だけがわずかに揺れている。

「『狼人の治癒法』……‼」

「……報酬は、あたらしい口座に振り込んでおく……どうかしたか?」

 返事がないことを不審がる電話口。離れていても魔女の耳には聞こえる。

 もう一度、ページに目を通すと、しなやかな指で素早く紙をなぞった。ウィッチクイーンが触れたところから淡い光の点が泡のように連なっていく。光のバブルが書かれた内容を写しとって弾けていく。古紙のインクはそのままだ。

 さっと伸ばした手へテーブルの電話が吸い寄せられ、相手がもう一度口を開く頃には、すでにつややかな魔女の唇が動いていた。

「二百万」

「ああ、そうだ。二百万ポンドを現金で……」

「ちがうよ。プラス、二百万だ。いまふうに言や、賃上げってことだね」

「今更なにを言いだすんだウィッチクイーン。本作戦の対価は受諾したじゃないか」

 あきれる通話相手は、瑞々しい紅の弧がつり上がっていることを知る由もない。

「そうだったかねえ」

 パタッと日記を閉じ、ウィッチクイーンが上へ放り投げる。落下の途中で煌めく魔方陣につつまれると、錆びた銅色の本はすでに消えていた。

 ピクピクと痙攣する元征服者を見下ろすと、魔女のヒールがまた床を打った。

「なら、コイツが原因不明の爆発でこっぱみじんになっても、しかたないねえ」

「……どういうつもりだ?」

 低い声で尋ねる相手に答えず、突っ伏したターゲットを蹴りあげて上を向かせた。わざとゆっくり手を持ち上げる魔女を、かつて征服者とよばれた男は黙って見るほかない。真っ赤な頭から大量の汗がしたたる。

 次の瞬間、荒事に手慣れた者とは思えない悲鳴が響きわたった。

「ウィッチクイーンまてっ! 〈コンクレオ〉の発見がきみの仕事だっ! やつが死んだらきみの報酬もなくなるんだぞ!」

「アタシがみつけたのは、ただの死体だよ。逃げられないと悟って自害したんだろう。だから報酬がなくても諦めるよ。残念だったね」

 再度、断末魔があがった。グロテスクな音を聞かせるように、ウィッチクイーンがマイクを向けている。その目は深い青をたたえながら、いっさいの感情を感じさせない。

 にわかに電話の向こうがあわただしくなった。

「……いま、上と相談している。私の一存では決められない。もうすこし待ってくれ、ヴィヴィ……」

「気やすくよぶんじゃないよっ‼」

 突然ドクンと、魔女の心臓が激しく脈打った。

 全身の血が凍てついたように泡立ち、すべての細胞を無数の針が刺し貫く。

 五感は消え、ただ言葉にならない痛みしか残らない。

「う、うそだろ……」

 痛みに慣れているのが魔女だ。だが、この激痛に正気を保てる者は魔女王くらいだろう。小刻みに体をふるわせながらも、目の焦点は合っている。

 それよりもタイミングが魔女王を混乱させていた。この痛みが来るのは、まだ先のはずだ。

 倒れ込むウィッチクイーン。痛みで気がそれたことで、魔法の効力が一瞬だけ弱まった。そのわずかな隙を逃さず、〈コンクレオ〉が身をよじらせる。

「こいつは……ツキが回ってきた、ね……」

 魔女王の対策は二重三重に施してある。それをも打ち破って変身衝動が襲うということは、魔女王の策ですら抑えられないほど進行している証だ。ふるえる指で宙に印を描き、失われた言語をつむぐ。

 陶磁のようなきめ細かい肌が裂け、とめどなく血があふれていた。あれほど高慢だった声も、いまは消え入りそうにか細い。真紅の血がするすると顔を伝い、大理石の床へシミをつくる。

「ククッ……」

 だがまだ、魔女王は笑っていた。パズルピースが入れ替わるように顔が歪んでなお、どこまでも禍々しい美しさを残している。

 それは余裕からか、痛みに気が触れたからか、はたまた魔女王たらしめる絶対的な強さからか。

「来たれ……〈魔女の化粧箱〉」

 呼びだしたゴールドの二枚貝が開くと、そこには、月がうかんでいた。

 写真かホログラフィにもみえるが、はるかに緻密だ。手のひら大にもかかわらず、月はクレーターの位置までくっきりみえる。さらに、回転する月は、月相をあらわしているらしく、半分より少ししかない。残りの部分は、黒い地球の影に覆われている。

「応答しろ、ウィッチクイーン! なにがあっ……」

「グシャッ……」

 軍用の分厚いブーツが紅蓮の携帯を粉々に踏みつぶし、パーツが床に散らばった。部品を執拗に踏みにじり、動かない真紅へブーツが近づいていく。

「よくも、やってくれたな。高くつくぞ……魔女めが」

 血ヘドを吐いた〈コンクレオ〉がウィッチクイーンを見下ろす。金色の眼が屈辱と怒りでふるえている。反応がない長い髪をわしづかみにし、〈コンクレオ〉が乱暴に引き上げた。

「なっ?!」

 されるがまま顔を上に向けるウィッチクイーン。その変わり様に〈コンクレオ〉がとっさに後ずさる。征服者が日に二度も驚きの声をあげるのは、これが初めて。同時に最後だった。

 端正な顔立ちの面影はなく、突き出た鼻先から顔全体を覆う灰色の毛皮は、常時の征服者なら手元に置きたくなるほど毛並みがよい。漆黒へ変わった眼球が夜闇を封じ込めた玉のように光を吸いこんでいる。

「……ヴゥ~ル」

 口元は大きく裂け、月白のエナメル質が艶やかな光沢を放つと、魔女の体がふくれあがり、耐えられなくなったライダースーツがバリバリと、音をたてて破けた。生地の切れ目に見えるのは、人肌ではないアイビーグレイの体毛。

「人狼っ⁈」

 世界の暗闇を生きる征服者とて、森羅万象のすべてを知ることはできない。相手が伝説上のモンスターとあればなおさらだ。

 征服者はただ、積み重ねた経験から目前の脅威を排除すべく、腰のホルスターへ反射的に手を回した。その反応は確かに淀みなく、歴戦をくぐり抜けた実績に裏打ちされた動きだ。相手が手練れだとしても、〈コンクレオ〉の銃は確実に敵の眉間を貫いただろう。

 だが、今回ばかりは相手が悪すぎた。数百年を生きる魔女の王にして、人ならざる獣者。運さえたぐり寄せてきた征服者の手も、ついにトリガーを引くことはなかった。

「ガウゥルッ‼」

 正面にいたはずの人狼は〈コンクレオ〉の左隣を駆け抜け、すれ違い様、その手を嚼みちぎった。一瞬ののち、背後まで跳躍した驚異的な身体能力に、もはや男はついていけない。自分の右手を失ったことにさえ、脳が認識できず、痛みも感じない。

 振り返った征服者が最後に見たのは、三日月のように湾曲した鉤爪と、黒い獣の眼に映る、初めて狩られる側に立った自分の恐怖の顔だった。


 * * *


 ある諜報機関の下部組織。そのまた秘匿された通信室の一角。半透明なガラスブースのひとつで、銀縁メガネの男がモニターを監視している。ブームに他の人影はなく、ガラスの外は暗い。

 男のメガネには凄惨な場面が反射し、身の毛もよだつ音がブース内にこだましているが、遮音性抜群な特殊ガラスから悲鳴が漏れる心配はない。その理由からか、男は、顔色ひとつ変えない。

 ふいに、男が拳をさっと持ち上げた。手信号「止まれ」の合図でブース内が無音になる。

「コントラクタ・WQを脅威リストへ追加。脅威判定レベル七。全記録を量子画像分析し、独立アーカイヴへ移行。……セイラム委員会の招集をかけろ」

 すかさず人工音声が流暢にこたえた。

「了解。コントラクタへの報酬は?」

 メガネの男が初めて、顔を動かした。眉をひそめる仕草にわずかな笑いが混じる。人を人とも思わない笑いだ。

「要求どおりに」

「了解」と繰り返す声を、男はすでに聞いていない。下ろした拳に反応し、映像のミュートが解除されていた。拳デスクにおく男のブースには、狼の遠吠えと、意思を持つ炎がすべてを焼き尽くす音が響いていた。

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