第8話

「狐です。彼女、狐憑きなんです」


 そう佐久間さんは切り出した。キツネツキ?私には分からない。

オオガミさんは一人で「もしかしてこっくりさん? きゃ~。懐かしい!」とか騒いでいる。こっくりさん。それは聞いたことがあるかも。


 佐久間さんは私と同じ中学の一年生で、文芸部に所属している。全員で五名いるうちの文芸部一年生はみんなオカルトファンで、そういう、不思議なものが大好きなのだという。


「佐久間ちゃんはね~。なかなか行動的な子なんだよ~。私の連絡先をどこからか仕入れてきて直に相談したいんだってアポとりに来たくらいなんだから」


「相談って……。別に私たちにできることなんてないのに」


「現状この町で『除霊』ができると私たちが認識しているのは、麻衣子とあんただけだからね~どうしてもこういう感じになるのよ」


「除霊って……そんな」私は食べているだけなのだ。食べたものが消えてなくなると思っているのだとしたら、オオガミさんは間違っている。


「小さな町だけどここには一万人くらいのひとがまだ働いて勉強して住んでってしてるんだよね。〈あの家〉の呪いを孤立させて封印する必要があるんだって。の話によると百年くらいかけてこの町を完全にゴーストタウン化するみたいだけど、それまでの間はできるだけ呪いを拡散させないようにする必要があるんだ」


「お役所? これってそういう話なの?」


「そういう話だよ~。もう十人近くひとが死んでるし、ネットでも大騒ぎだからね。あなたの個人情報が流出するのも時間の問題かも」


 最悪! てか百年かけてってなに?私の頭はオオガミさんの話に追い付かない。佐久間さんは何の話か分からずぼんやりしている。


「だからあなたには少しずつでいいから悪霊をばんばん食べて、これ以上呪いを増やさないように頑張ってほしいの。っていう話が一昨日お役所からきて、私はオッケーしたわけ」


「勝手にオッケーしないでよ!」


「あ、佐久間ちゃん、この話秘密にしといてね」


「文芸部のみんなにも話しちゃだめですか?」「だめだめ~。この三人だけの秘密だよ」「すっごい! これってガチなんですか? やっぱり〈顔屋敷〉ってすごいんだ!」


 空気が凍り付くのを感じる。佐久間さんはすぐに、すみませんと謝る。


「佐久間さん。あの家には行ってないよね?」「行ってないです」「本当に?」「はい」「嘘ついてると死ぬかもしれないよ」「行ってません。行きません」「じゃあ、誰かほかの人が行った?」「クラスの男の子たちは、行ったって自慢している子とかもいるけど、みんな本当は行ってません。行ったら死ぬのわかってるから」


 ならいいよ。私がそう言うと佐久間さんは何かに安心する。佐久間さんはオオガミさんにはちゃんと目をみて話すけど、私のほうには顔を向けない。私はそれが気に食わない。オオガミさんと佐久間さんは今日が初対面ではなさそうで、そういうことなら、佐久間さんがただ人見知りをするだけなのだと考えることもできるけど、私にはそこまで彼女に好意を持った判断をすることができない。


「私のこと怖い?」


 ぴくっ、と身体を固まらせる佐久間さんはじっと湯呑みを見つめて動かない。私は彼女を見る。彼女のおでこに、汗が丸く浮かんでいるのが見える。顎の裏側がもごもご動いていて、それに合わせて喉も震える。ぎゅ、とか、ごぶ、とか変な音が彼女から聞こえる。佐久間さんの顔はもう真っ青になっていて、今にも吐きそうだ。


 ねぇ、この子ちょっと――。


 私がオオガミさんのほうを向いた瞬間に酸っぱい匂いがして、テーブルに白っぽいゲロがゆっくり広がる。あ~。


「うぐっ。じゅみまじぇん、ぐあっ」


 吐いたのが学校じゃなくてよかったね。佐久間さん。


***


 幸田翔平さんの遺体は駅前にあるビジネスホテルの一室で見つかる。変死体。当初毒殺の疑いがあると県警が発表するけど、それはすぐに取り消されて、彼がなぜどのように死んだのか、公式の情報は伏せられる。やがて彼のことは忘れられる。忘れられるといっても、彼がどこの誰だったのか、結局だれも知らない。彼がどこの町で生まれて、どんな子供時代を過ごして、どんなもの嫌いになって、どんなもののために生きるようになったのか、誰も知らない。そしてたぶん、それらを知っているひとは、彼がどこでどんな風に死んだのか知らない。生きていた思い出と死んだことが結びつかなかった。彼を知っているひとは彼がどこに行ったのか知らなくて、彼がどこに行ったのか知っているひとは、彼のことをなにも知らない。


 どこのだれでもない彼は、この田舎町のなんだかよくわからないものに殺されたのだ。そして子供たちだけが知っている。〈顔屋敷〉だ。大人たちは知っていても知らないふりをする。子供たちだけが、リアルに自分の住む街にある禁忌のことを解釈し始める。呪われた土地の誕生。穢れの匂いを振り蒔く家。行ってはいけない場所。


 私は幸田さんの幽霊を食べた。それはたぶん、たましい的なもの食べたということで、私のなかで消化された彼の魂はもう呪いを広めるものにはならない。呪いというのはつまりは記憶で、遺った記憶が悪さをするということなのだ。私が食べれば呪いはどこにもいかずに私の中で少しずつ溶けていく。でも記憶は違う。

 

 幽霊を食べるようになってから、私は夢を見るようになる。初めはパチンコの夢だった。私はパチンコなんかしたこともないし、なんならパチンコ店の自動ドアがうぃ~と開く瞬間にじゃんじゃんばりばりの音が外に漏れだすのがすごく嫌なんだけど、それでも私は夢の中でパチンコを打っている。私はどんどん千円札を台につぎ込んでいく。仕組みはよくわからない。私がわかることは目の前の絵柄がそろえばいいということ。リーチ!リーチ!リーチ!三つの絵柄がある。二つは簡単にそろう。でも三つ目はなかなか揃わない。サメ・サメ・カニ。アンコウ・アンコウ・エビ。でも私は知っている。やったこともないのに知っている。いつかは絶対にそろうのだ。何千円入れたって絵はそろわない。駄目だ。もうやめようと思っていたのに、それでも台についてしまう。やがて三つ目も来る。ラッキー!きたきたきた!私は幸せを感じる。これ以上ない。数字が増えていく。ここからだ!どんどん取り返していくぞ!

 そして私は財布の中を空っぽにして店を出る。換金すべきカードもない。すべてを失った気分になる。半日を費やした時間を惜しいとは思わない。お金。お金がない。買っていればお寿司が食べられて、新しい服も買えて、風俗にも行けた。悔しい。運のない自分が悔しい。次にパチンコを打てるのがいつになるか考える。給料の前借りはできない。消費者金融は限度めいっぱい借りた。もうどこも私にはお金を貸してはくれない。お金がない。でももう一万円あれば、絶対に勝てるという確信がある。それさえあれば。種になるお金さえあればなんとかなる。私には未来が見えない。簡単に想像できるはず未来がまったく見えない。光り輝くパチンコ機のことしか考えない。目の前で過剰な光を点滅させ続ける機械のことをだけを考えて生きる。そういう人生になる。後悔はない。後悔するだけの時間があれば、お金をどこか引っ張ってこれる場所を探す。

 気づいたときにはすべての扉が閉ざされている。あらゆる私の可能性がなくなってしまっていることに気づく。ひとを騙して、数をごまかして、なんとかお金を集めて、それを機械の中に滑り込ませるだけの人生が何年も続いていたということを振り返る時が来る。そして異常な量のお金を必要とし使い続けてきたしわ寄せが、あらゆる扉を閉ざされたいまの私にやってくる。部屋は寒く、狭い。呼吸が苦しい。空気が悪い。腹が減る。でも食べるものはない。寂しい。でも愛してくれるものはいない。

 憎いという気持ちになる。漠然とすべてが憎い。自分がもう死ぬというのがわかる。部屋の中を駆け回るねずみや虫が自分の身体を遠慮なく横断する。初めは冷たかったつま先や指先が、だんだん痛くなり、そして感覚がなくなる。夢の中の私には分からないけど、夢を見ている私には分かる。これは呪いになる。

 やがて私は死ぬ。生きることをやめた身体は少しずつぼろぼろになっていく。でも記憶はなくならない。自分を含めたすべてを憎んで呪った気持ちはその場にとどまる。六畳のアパートの畳を腐らせながら、魂はそこに残る。呪いを振り蒔くものになる。そういう機械になる。まだ生きているこころが憎くて、それを殺すようになる。夢はそこで終わる。


 これがいつか食べた幽霊の記憶だと、私は知っている。彼の名前は知らないけど、彼の気持ちは知っている。そういう引き出しが私の中に増えていく。幽霊を食べるというのはこういうことだったんだね。しみちゃんもこの中を泳いで私のところまでやってきたのかな。食べれば食べるほど悲しくなる。


 食べた幽霊の記憶は夢になる。呪いは消化されても、呪いの気持ちは私に蓄積されていく。海に捨てられた毒を食べて身体にため込むあじみたいに、私は悲しい記憶をこころにため込む。それはどこにもいかない。残るんだろう。ずっと残るんだろう。


 幸田さんの夢はまだ見ていない。私は名前を知っているひとを食べたことがなかったので、幸田さんの夢をみることが怖くてたまらない。


***


 佐久間ゆりさんの相談は不登校になった友人を説得してほしいというもので、私はそれを断る。放課後の廊下。学校で誰かと話すのは本当に久しぶりだ。


「それは私にはどうにもできないよ。だいたい、本人が学校に行きたくないっていうならそれは、他の人間がどうこう言うものじゃない。あなたにできるのは、その友達に愛想を尽かすまで、一緒にいてあげることじゃないの?」


「それが問題なんです」


「どう問題なの」


「塾が忙しくて、理沙にかまってあげられる時間がないんです」


 不登校になった友達は小此木理沙というらしい。小此木理沙さんが学校に来なくなって二週間になる。


「あなたの思いやりがそのくらいだってことだよ。あなたにはもう何もできなくて、何もする気がなくて、自分のことで忙しくて友達のことに時間を使えない。別に変でもないし、悪いことでもない」


「じゃあ理沙はずっと不登校のままなんですか?」


 私はいらいらし始める。


「知らないよ。そんなの。他人の私が行ったって小此木さんは学校には来ないよ。絶対」


「でも彼女、狐憑きなんです。狐のせいで学校に行けてないんだから、海野先輩が狐を食べてくれたら理沙は学校に来ますよね?」


 狐。動物としての狐。神様としての狐。稲荷信仰。そして人間を化かしてだます狐。


ゲロ吐いて家に帰った佐久間さんは知らないが、あのあと私はオオガミさんに、一般常識として狐のおばけの話を聞かされている。


「その狐っていうのはどこからきたの?」


「これ見てください」


 彼女は自分のスマホ取り出してLINEを開く。友達一覧。真ん中くらいに小此木理沙さんの名前がある。未読のバッジが一つ。名前の下に表示されているメッセージ。


《油揚げが食べたいから持ってきてくれない?》メッセージの受信は一週間前。


「友達なんだよね? 一週間未読無視してるんだ」


「だって怖いじゃないですか。わけわかんないし。食べたいなら自分で買うか親に頼みますよね、普通」


「そういえば私のことはもう怖くないみたいだね」


「普通のひとだってわかったので」


「普通のひとじゃないと思ってたんだ」


「はい。祟り殺されるのかもって思ってました~あはは」


「殺されるって……なんでそうなるの」


「噂になってますからね。海野先輩」


「どういう噂?」


「ソメダマイコの呪いで幽霊を食べないと生きていけなくなった海野先輩は、頭がおかしくなってこの町のこどもを片っ端から祟り殺してるって噂です。そんなことないですよね~。そういうひとじゃないの、雰囲気でわかりますし」


「誰がそんなこと言ってるの?」


「吉川先輩です。文芸部の吉川真帆さん。知ってますよね?」


 よっぴーこと吉川真帆は私と同じクラスで、私と仲の良かった女の子だった。


***


 小此木さんの家に行く。そういうことになる。佐久間さんは塾が忙しいと言って本当にやってこない。なんだそれ。でも今この状況において、小此木さんのためにほんの少しだけといっても時間を使おうとしたのは彼女だけだった。塾に行くとはいえ、佐久間さんは私に念押しする。


「お願いします。海野先輩。理沙はただふざけてるだけなのかもしれません。それならそれいいんです。でもなにかあると思うんです。と思うには、もうこの町ではいろんなことが起こりすぎているんです。それは先輩が一番知っていますよね」


 言った後、彼女は唇を強く噛んでいるみたいだった。私は彼女についてこいと言うべきだったかもしれない。そうすれば彼女はついてきたと思う。佐久間さんはその言葉を待っていたのかもしれない。でも私は言わなかったし、彼女は塾に行ってしまった。だからこそ私は、小此木さんに会わなくてはいけない。油揚げを近所のスーパーで買ってから行く。三枚で38円。油揚げってこんなに安いんだ。二つ買って、手土産に持っていく。


 佐久間さんから聞いていたとおりに行くと、私は小此木さんの家を見つける。小さめの一軒家。瓦が張ってあって、かなり古い家だと思わせる。知らないひとんちに行くのはこれが二回目で、私はあのときのことを思い返す。またここが呪いの場所になるのかな。そんなふうにはしたくない。でもあのときの私もまた、江藤家が〈顔屋敷〉と呼ばれるようになるなんて思いもしなかったのだ。


 大丈夫。私は私のやることをするだけだ。今の私はあのときの私とは違う。もう何十人もの幽霊を食べている。仮に狐の幽霊がいたとしたら、あんがいおいしいかもしれない。


 それに今回の私にはちゃんと言い訳がある。よっぴーが私の噂をあることないこと言うなら、私だってあんたの名前使わせてもらうから。ということで私は今回、吉川真帆の名前で、文芸部の先輩としての立場で小此木さんの家を訪れることにしている。かなり頭のいい作戦じゃない? 吉川真帆の名前と顔が一致しているのは小此木さんだけだから、小此木さんのご家族にはばれずに小此木理沙さんに会えてしまうのだ!佐久間さんから小此木さんに直接アポをとってもらうということにはならなかった。LINEに既読をつけたくないらしい。あぁ、そう……。どうにも好きになれない子だ。


 ピンポーン。インターホンはちゃんと人が出る。でもちょっと不安げな感じが声から伝わる。たぶんお母さんだ。「こんにちは~。私、吉川真帆と言います。小此木理沙さんと同じ中学で同じ文芸部にいます~。急にごめんなさい。理沙さんのお見舞いにきました」よっぴーのしゃべり方を真似してやってみるけど、普通に自分が気持ち悪くなる。


「……理沙はいませんけど」いないんかい。というか小此木さん、外に出るんだ。普通に。どうしようかな。


「あの~、どこに行ったとかわかりませんか?」


「たぶん川沿いの稲荷神社じゃないの」


 お母さんなんか冷たくない? こういうひとなのかな? ていうか稲荷神社なんだ。稲荷。狐。狐憑きの女の子。佐久間さんの言っていたこともあながち間違いじゃないのかも。


「行ってみます~。どーもありがとうございました~」


 返事はない。そのままがちゃり。なんだったんだろう? 私なんか悪いことしたのかな。それとも私の「悪い噂」は小此木さんのお母さんにまで顔とともに伝わっていて、すでに嘘を見抜かれていたのかな?それはかなりありそうだなとも思う。


 とにかく私は川沿い稲荷神社に向かう。グーグルマップですぐにその場所はわかる。町に稲荷神社は三つあるけど、川沿いにあるのは一つだけ。歩いて十分程度のところ。


 神社といってもそこは小さな祠みたいな感じで、確かにお稲荷さまの石像はあるけど、神主さんが住んでいて、おみくじが売ってあって……というようなものではない。


小此木さんはその狭い境内にいて、竹ぼうきで落ち葉をかき集めている。私は佐久間さんに彼女の写真を見せてもらっているので、彼女を見てすぐに彼女だとわかる。黒のデニムに紺色のダッフルコート。コンバースのハイカットはボロボロだけど、目立つ汚れとかはない。靴を洗っているひとだ。髪は写真の頃に比べるとずいぶん伸びている。美人ではないけど、かなりかわいい感じだ。文芸部というよりは、吹奏楽部って感じ。あれ?……ちょっとメイクしてる?


「あ……、すみません。どうぞ」


 小此木さんは私を参拝客だと思ったらしく、五メートルもないような参拝道を開けて祠への道を作ってくれる。彼女が引きこもりで学校に行っていないというのは、それは事実かもしれないけど、私が思うに、彼女は佐久間さんなんかよりもずっと印象がいい女の子だ。


「違うの。あなたに用があってきたんです。小此木さん」


「えっ……私にですか? あなた誰ですか?」ちょっと警戒した感じの声色になる。


「海野っていいます。あなたと同じ中学校の二年。佐久間ゆりさんに頼まれてあなたに会いに来ました」


「海野さん……。ああ、あの。でもゆりが? ……学校に来い的なやつですか?」


「まぁ、ぶっちゃけそういうことだね。とりあえず会えないから、事情を知りたいみたいでさ。代わりに私が見にきたの」


「そうですか。私は、別に普通ですよ。学校には行きたくないから行ってないだけですし。それに……。これは、悪い言い方かもしれないけど、これは個人の問題で、海野さんがこれ以上踏み込むようなことではないですよね? 


 この子は頭がいい。と私は思う。言っていることは当たり前のことだけど、それをちゃんと言葉で説明できるひとはなかなかいないんじゃないのかな。佐久間さんと話していて感じるようなイラつきがない。でも佐久間さんのウザさは彼女の頭の良さどうこうの話ではなくて、彼女の性格そのものが問題だと思う。


「そう。あなたが学校に来ないのはあなたと学校の問題であって私の問題じゃないね。ただの友達付き合いの問題ならそれは担任の先生やカウンセラーのひとの仕事だね。でも佐久間さんが私のところにやってきたのにはまた別の理由がある。と、今のところ私も彼女も思っている」


 小此木さんは黙る。効いている。カマをかけるとはこういうことなのだと私は経験によって実感する。なんか名探偵みたいだね。


 私はコートのポッケに手を突っ込みながら小此木さんに歩み寄っていって、上目遣いに彼女を追及する。「あなたは学校に行かなくなってすぐ、友人である佐久間ゆりさんに一件のLINEを送っていますね? フゥ~ム。事情は知りませんが、どうにも佐久間ゆりさんはこのメッセージの内容にひどい恐怖を覚えているんですよ……。あなたが狐に憑りつかれたなんて言い出す始末です」……とまで芝居がかったやり方はさすがに笑ってしまうのでできないけど、そういう内容のことを彼女に尋ねる。


「それは……」小此木さんは言いよどむ。私は彼女を傷つけたり、何かの秘密を明らかにして二人の関係を破壊することを目的にしているわけじゃない。私がすべきなのは、小此木さんがもしも悪い幽霊に憑りつかれているのならそれを食べておきたいだけだ。必要以上に踏み込むのは、彼女が言った通りしてはいけないことだ。


「ね。ジュース飲まない? 座って話そうよ」


 彼女は頷いた。


 近くにある自販機でジュースを買う。もうかなり寒いので私はあったかいカフェオレにする。小此木さんはお茶。私が奢る。ちょっとだけ気分がいい。彼女が自分でもう一本買おうとする「どうしたの?」「……お供え物です」そんなの普通するかな?でもあんな小さなぼろい神社の掃除を一人でやる女の子なのだ、小此木さんは。信心深いということなのかもしれない。おしるこの缶がごとりと落ちる。私は思い出したみたいに、買ってきた油揚げを渡す。


「これ。お土産のつもりに持ってきたの。よかったらこれもお供えにいれてよ」


「あっ」


 小此木さんが声を出した。彼女の視線は、初め私の油揚げに向かうけど、すぐに離れた稲荷神社の入り口に飛ぶ。私はそれを追いかける。


 稲荷神社の入り口に何か立っている。細長いシルエット。十二月近くで、もう秋も終わろうとしている季節なのに、それは白い着流しだけの姿をしている。人だとは思わない。私には人間と人間じゃないものの区別がすぐにつく。それは男と女を見分けるのに近い感覚だと思う。たまにわからないときがあるけど、ほとんどわかる。


 真っ白の肌は生きている人間の色じゃない。光の当たり方がモノとしての身体とは違う。それ自体がほんの少し光っているような感じがする。切れ長の目は意地悪な感じがして、いつも人間を騙そうしているのがわかる。でもはそれを不快には思わないだろう。人間のものではない美しさがあるから。それは笑っている。にやにや笑って私たちを見つめている。危険だ。幽霊じゃない。これは死んだ人間じゃない。初めからそれとしてこの場所にずっといた何か。食べる?わからない。食べられるかわからない。私は、私がかえって食べられるかもしれないともまで思ってしまう。


「違うんです。海野さん。彼はともだちなんです。お願いだから、食べないでください」小此木さんが言う。ともだち?あれと?


 私は小此木さんの顔を見る。小此木さんの顔は、寒いからか赤く染まっている。彼女が私の声をかけたのは、私ではなく〈彼〉を気にかけているからだ。ピーンとくる。すぐにわかる。あぁ。小此木さん。だからあなたはすごく素敵な女の子なんだね。

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