第5話
ラブホテル跡地から帰って、私はしみちゃんと解散する。家に着くと午後三時。結局私たちは、奏多くんの残した絵が〈顔〉であること以外は何も突き止められなかった。
仕方ない。会うしかない。もちろん奏多くんに。何かをどこかに置いてきてしまった彼に会って話を聞くしかないのだ。
しみちゃんは連れて行かない。なぜなら信用できないから。しみちゃんは私を愛しているし、私はしみちゃんを愛しているけど、彼女は奏多くんを本気で見つけようとはしていない。私にはそれがわかる。彼女は私についてきているだけだ。そして私が危険な領域に近づこうとすると、絶対に阻止するだろう。
〈顔〉のこと、しみちゃんは知っている。私はそう思う。あの子は知っていて、知らないふりをしている。どこまでが安全でどこからが危険なのか、その線引きを持っている。この件に関して、しみちゃんは私の満足、あるいは諦めを引き出そうしているはずだ。彼女が欲しいのは奏多くんの復帰ではなくて、私との楽しい生活なんだから。
そして絶対にダメなのが、奏多くんの件において、私が何らかのかたちで傷つくことだ。彼女はその綱渡りをしている。私を傷つけずに、私にこの冒険をエンジョイさせる。そのお守りをする。それが、私の考えるしみちゃんが考えているしみちゃんの仕事。なめんなよ。と言ってやりたいね。
というわけで私は奏多くんの家に行く。週に一度、三年A組の蛯名先生が、不登校になってしまった江藤先輩の家に彼の様子を見に行くのだ。それをこっそりとつけて私は江藤先輩の家を、つまり江藤奏多くんの家の場所を認識する。しばらく江藤家を観察して、毎週火曜日のお昼過ぎの時間は、家には江藤先輩と奏多くんだけしかいない時間になることを私は知る。お父さんは仕事。江藤先輩の妹の琴音ちゃんは学校。お母さんはこの時間だけ、つまり一番太陽が高く昇って明るい時間だけ家をあけスーパーに買い物に行く。一時間もないくらいの時間で、私は江藤家に忍び込むのだ。まるでイギリスの秘密スパイのように。ただ私のかけている眼鏡は、あの映画みたいな特殊機能は一つも持っていないけどね。
江藤先輩ちは結構いい系の住宅街にあって、ああ江藤先輩ってお金持ちの家なんだと思わされる。私は小学生のときにこの辺に住んでるクラスメイトに一度だけ家に呼んでもらったことがあってそのときはビックリするくらいおいしいお菓子を食べさせてもらって、えー○○ちゃんちってすっごくいいね!みたいなことをずっと言ってたら次はもう呼んでもらえなくなった思い出があってちょっと辛かったりする。関係ないけど。関係ないけど思い出す。そういうのばっかりで嫌になるけど、まぁしかたない。
ぴんぽーん。と鳴らすと、当然だれもでない。だよね。江藤先輩は不登校で、たぶんもう誰とも会いたくないだろうし、奏多くんはもはやそれどころではない。そういえば私は奏多くんにはあったこともないし見たこともないわけで、奏多くんがやばい状況にあるというのも噂で聞いただけだった。もしかしたら奏多くんは普通に見つかっているだけで、なにかを失ったままでいるというのは、私の妄想なんじゃないのかな、と思い始める。
でも違う。というのはすぐに分かった。ピンポン鳴らしたらドアは開かないけど、二階の窓のカーテンがさっと開いて、そこから奏多くんがこっちを覗いている。奏多くんの顔はちょっと人間の感じじゃなくて、どちらかというと妖精だ。連れていかれたから、戻ってくるまでは人間じゃない。人間の言葉を忘れるし、どんどんこの世界になじめなくなっていく。
でも玄関のドアは開かないので奏多くんには会えないし、どうしよっかな~と迷っていると、ドアは開く。出てきたのは奏多くん。え。え?
奏多くんは歳にしては細すぎる腕で、高級で重そうな玄関のドアを支えて、私を見上げる。髪はさらさらで、きれいに刈り上げられた襟足が眩しいくらいに青い。もっと野生児みたいな感じになってるのかと想像してたけど、そうでもない。ちゃんと毎日お風呂に入っている子供の匂いがする。でもその奥から流れてくるのは、なにかが腐ったような甘い
短パンとポロシャツという服装は、いかにもお金持ちの家の子って感じだけど、それらの服はむりやりお母さんに着せられてるのがわかる。飼い犬が着てる犬用の服より馴染んでない。なにかちょうどいい大きさの樹にむりやり子供用の服を通しているだけみたい。ちゃんとそでも通っているし、ポロシャツはのりが利いていてばっちりなんだけど、全然これは人間が服を着ているというのとは違うものになっている。きみはやっぱり、まだこっちには来れてないんだね。
「●●●●●●●●●●●●●●●、●●●●●●●●●●●●●●」
奏多くんが何かをぼそぼそと呟く。なに? 何を言っているの?
「あなたがどこにいるのか教えて?」私は聞く。そしてかがんで、奏多くんの口に耳を近づける。
奏多くんが話している言葉が、この世界のものじゃないのだと気づいた時にはもう遅くて、奏多くんは「言いたいこと」を全部言い終えたのかキャキャキャ!と笑い出す。子供の純粋で残酷な笑顔が私を心の底から凍りつかせる。
「お前なにやってんだよ!」と怒鳴り声が聞こえて、私はウギャーと悲鳴を上げる。奏多くんの後ろで、でっぷりしたおじさんが奏多くんを抱き上げて私を睨む。「ふざけんな……ッ、ふざけんなって!」おじさんが江藤先輩だと気づくのに時間がかかったのは、不登校になる前はあんなにやせてしまっていたのに、いまでは、信じられないくらいに彼がデブになっていて、そしてすべてが始まるまで江藤先輩はデブはデブでもきれいで、清潔感のあるお金持ちのデブだったのに、いまでは余裕のない感じの
の、人間のどん詰まりにいるデブになっていたからだった。ヒゲはボーボーで髪は脂と垢でベッタベタになっていた。そして、なにか食べ物が腐ったみたいな臭いがする。ここは本当に人が住んでいる家なのかな? 冗談や皮肉じゃなくて、私は本当にそのレベルで疑問を抱く。
私はゆっくりと閉まっていくドアを掴む。たぶんオートロック。二人はお金持ちの家の子だから、玄関のドアを自分で閉めるという習慣を持たない。ドアは勝手にしまるもので、鍵も勝手に掛かるのだ。そういう世界で生きてきたひとたち。私んちのドアはかなり安っぽいのでドアが勝手に閉まるのに任せると、ドア自身の重みのせいでばいぃ~んとダサイ音が大きくなる。だから私はドアは自分の手で閉める。その感覚で、私は江藤家のドアを掴んでしまったのだ。
二人は廊下の奥に消えてしまった。私がまだ入り口を保持していることに気づいてさえいない。私には選ぶことができた。帰るか、続けるか。
私は玄関の中で、そこは真っ暗で、そして、ドアが閉まる音を聞く。ガチャコン。ほんとにオートロックじゃん。すげ~。
ひとの家に遊びに行くとひとんちの匂いがする。けど、ここは腐った
ひどい臭いのする暗い家には、よそんちの子供が泣いていて、その顔は地獄に繋がっている。泣いているのは誰? よそんちの子供ってだれ? 今は私だ。ひとんちで泣いているよそんちの子供ってのは、私なんだ。
私は玄関でゲロを吐いてしまう。ゲーッ!
ゲロはばしゃばしゃ!って感じじゃなくて、お昼に食べたシャケと昆布のおにぎりが海苔で連なってねとぉ〜って口から出てくる。ちゃんと噛んでから飲み込めよ、私。それが床に落ちて私の食道から切れるまで数秒。私はその間、ずっとゲーゲー言い続ける。我慢できなくて、手でそれを喉の奥から引き抜く。気持ち悪いし臭いけど、私はそうしなくてはならない。ずっとゲーゲー言うわけにはいかないのだ。
大丈夫。吐くってことは、私は生きてるってことだ。と、私は自分に言い聞かせる。生きてる私はどうするの?私は靴を脱ぐべきかどうか迷って、やはり脱いで江藤家に踏み込んだ。
私は考える。家には江藤響さんと江藤奏多くんの二人がいる。私の目的は?奏多くんと正面から向き合うこと。奏多くんは自分を失っているけれど、絶対に戻ってくる。その手がかりを、いまの彼から手に入れるのだ。よし。じゃあ私は奏多くんに会いに行こう。この家のどこかに必ずいる。広そうな家だけど家なんだから大丈夫。壁があって床があって天井がある。
玄関から通じている廊下は昼間だというのにあまりにも暗い。私は玄関のスイッチを押す。温かいオレンジの光がぱっと広がって、廊下を照らす。でも暗い。物理的には明るくなって、私には見えなかった廊下の奥のドアが見える。でも暗い。まだ暗いというのではなくて、電灯なんかではこの家の暗さは取り除けない。そういうことなのだ。やばい。と私はようやく実感し始める。この家はヤバい。私がこれ以上進むのなら、私はこの家で何かに出遭うだろう。ヤバい何かに。暗い家っていうのはほんとうにヤバい。何がヤバいって、私は真っ暗で誰もいない家にいるもののことを、よぉ~く知っているわけなんだから。
ふらっと立ち上がって、ふらっと歩き出す。この感じでふらら~っと奏多くんたちを見つけてさっさと家に帰って、熱いシャワーを浴びてお茶漬けかなんか軽いやつを食べて寝たいな~。でもそれは無理で、私はある程度の覚悟を決めなくてはならない。
玄関から伸びあがっている階段に足をかける。まぁ普通奏多くんをつれていった江藤響先輩は自分の部屋に帰るよね? で普通子供の部屋(というか寝室?)って家の二階とかにあるよね? という理屈で。一階なんか見なくていいじゃん。というか余計な部屋に入ってこれ以上余計に消耗したくないだけなんです。
私は一瞬だけしみちゃんのことを考える。こんなに大変なことになるんだったら、絶対に彼女を呼んでくるべきだった。しみちゃんならこの異常な場所でも、ちょちょいのぱくりでぜーんぶ食べちゃって解決してくれるはずなのだ。あーあと深く後悔しながらも私は思う。いや違う。私はこれを自分の力一つで解決するのだ。それこそが私の求めていたもので、それができたからこそ私はたぶん、失っていたものを取り戻すことは無理にしても、まぁたぶん、幸田さんの毛でもじゃもじゃの脛を蹴っ飛ばすことくらいはできるようになるはずだ。それってそんなに大事なこと? いやいや、かなり大事なこと。
二階に上がると、またすぐそばに次は三階に続く階段が見つかる。あれ? ここのおうちそんなに階数あったっけ?と思いつつも、私はその階段を目指す。なんとなく、こっちが正解のような気がするからだ。三階に上がると四階へ、四階上がると、五階へ続く階段がある。いやいやいやいやないないないない、と思って窓の外を眺めると、そもそも窓がない。四階には窓はない。なーんか怪しいな。
私は次に続く階段を見る。上がる? いやぁ~。ないでしょ。おかしいもん。……帰ろうか。うん、帰ろう。ここは変!明らかにやばい!どうみても普通の状況じゃない。危ないもん。私はとっくのとうに気づいていたはずのことをふたたびようやくあらためて確認しなおして、やっぱりやばかったのだとわかる。遅すぎるのかな、遅すぎたか……。とか思っている間に後ろから誰かにがばっと羽交い絞めにされる。大きな手が私の口を塞ぐ。私はあまりにもびっくりして心臓が止まりそうになるけど、なんとか正気を保つ。誰だ?たぶん江藤響さんだ。私を襲いに来た?それってまさかさ……。
とまで考えるのは響さんに失礼だけど、私には私の経験と思考の癖があるので許してほしい。そして響さんは私を襲ったりはせず、言う。
「静かに。頼む。ただ静かにしてくれ。この家ではそれがルールなんだ」
もごもご!という感じで騒いでいた私は、響さんからまともな人間の気配を感じて、おとなしくする。ぶくぶくに太りまくって、元気なころよりも太ってしまった江藤響先輩は、見るからにデブのニートって感じの汚いヤツになっている(そして汗の臭いがひどい!)んだけどまぁそれは外見の話ということにしておいて、どうやらこの妙な家の中でもちゃんと冷静を保っているらしい。
「君がどこの誰か知らないけど、何をしに来たのかも知らないけど、とにかくこの家から出て行くんだ。危ないんだ。弟は弟じゃない」
「それ! そこに用事があんの! 奏多くんは? あの子に会わなきゃ」
「奏多を知ってるのかい? というか君、うちの中学の制服着てるね……二年生?」
「二年の海野です。まぁ、その、ちょっといろいろあって、江藤奏多くんにあわせてほしいなって……」
「駄目だ。帰ってくれ。うちは今、ほんとうにみんなが必死なんだ。ちょびっとの余裕もないんだよ。君みたいな冷やかしは本当に勘弁してほしい」
「冷やかしじゃない! 私は奏多くんを助けにきたの! 奏多くんはまだ帰ってきてない。そうでしょ? 私には分かるんだから、知ってるんだから。ずっと顔の絵を描いているんでしょう?」
響さんは黙る。顔の絵。大きな顔の絵のことをこの人も知っている。やはり奏多くんは、こっちに戻ってきて以来、ずっと、顔の絵を描いているのだ。そしてその儀式は、まったく私たちの世界のしくみとは嚙み合わない。
「君が何を知っているのかはわからないけど、無理だ。弟はもう戻ってこないんだ。中身が違うんだよ。乗り移りだ。奏多はよそから来たものに負けちゃったんだ。だから、もう、戻ってこない。俺は戻ってこないってことのほんとうの意味を分かってなかった」
響さんの腫れぼったい目が、少しだけ濡れた。そして大きな涙がどろりと零れ落ちた。
「もう無理なんだ。この家は全部、おしまいなんだ。とんでもないものに目をつけられてしまった。俺は、俺は、もう止められない。だってみんな連れて行ってしまったんだから。奏多は俺が持っていく。俺が地獄まであの子を連れて行くんだ。責任がある。めちゃくちゃにしたのは俺だから、俺は諦めないで最後まで続けなきゃいけない。それがみんなへの、なにより、俺の魂に対しての礼儀なんだ」
「なに。まって。説明して。ぜんぶちゃんと説明して」
「説明? 説明だって? 何が起きているのかを知ったとして君に何ができる? 君はただの、首突っ込みの、女子中学生に過ぎないって言うのに? それにこの世界のどんな誰だって、もうどうにもできないところにまでことは進んでしまったんだ」
そう言う響さんの着る服の汚れが、血の汚れだということに私は今更になって気づく。黒い血や赤い血。新しい汚れも古い汚れもこびりついてそのまま洗わずのひっどいシャツを着ている響さんだけど、彼にはその血が噴き出す傷がない。血はどこからやってきたんだろう? 幸田さんの言葉を思い出す。
――調子に乗るな。君らでは余計にほかの人間の足を引っ張ってことを大きくするのが関の山さ。
響さんは息を荒立たせ始める。それはさっきまでの悲しい涙のせいじゃなくて、もっとどす黒くて生臭い欲望からくるもののせいだ。響さんがぐるりと目だけを動かしてあたりを
「まだ足りないんだ。もっとたくさんいるって、彼らは言ってる」
私は駆けだして響さんから逃げる。叫びながら逃げる。私は人間がおかしくなったとき、彼らがなんでもするということをよく知っている。彼らは本当になんでもするのだ。そのとき、私たちはその狂気に対してとても弱い。
泣きわめきながら、家じゅうのものにぶつかりながら逃げる。階段を駆け下りていく。振り返ると、響さんが追いかけてくる。大きな身体を私よりも素早く翻して、どんどん私との距離を詰めてくる。この家は彼の家だから、私はどこに逃げようと彼の知っている場所で、私の知らない場所にしか行けない。私は玄関を目指す。私がゲロを吐いてべとべとに汚してしまった場所まで逃げるのだ。靴を履いて、家を飛び出して、しみちゃんのいる場所まで走る。
逃げながら携帯でしみちゃんを呼び出す。ちゃんとしみちゃんは出てくれる。
『もしもーし。どうしたの?』
「しみちゃん! 助けて! いま江藤先輩の家にいる。江藤先輩に殺されちゃう!」
『はぁ~? わけわかんないよ? なんで江藤先輩ちなの? 殺される?』
「江藤先輩なんかおかしいの!」
『え~? でも私江藤先輩の家とか知らないしぃ』
私は江藤先輩の家がどこにあるのか、早口で言う。ガラス通りのマックのそばから変電所に向かって歩いて、酒屋で左に曲がってから三つ目の角の屋根の黒い一軒家。
「お願いしみちゃん! 助けて!!」
『……涼子さぁ』
『私のこと信用しないで一人で江藤先輩ち行ったんでしょ』
私は息が止まる。身体は動き続ける。ここがどこの部屋なのかさっぱりわからないままであちこち逃げまくる。後ろからどたんばたん響さんの足音が聞こえる。うおぁぉ~んという獣のような叫び声もする。でも心はつま先からちんちんに冷えていく。それがわかる。ぎゅう~っと心が縮む。あぁやばいかも。
『江藤先輩ちに行くのはさ、いつかりょーが言い出すとは思ってんだよね~。
危ないから絶対に行かせないつもりだったんだけど』
「しみちゃん、江藤先輩ちが、江藤響さんがこうなの、知ってたでしょ。知ってて言わなかった」
『話をそらしてんじゃねーよ。今わたしは、あんたがわざと私をのけものにしたって話をしてるの。涼子さ。私もう、
責任。確かに私には責任があるかもしれない。幸田さんの警告を無視した責任。しみちゃんを信用しなかった責任。自分一人でやると決め込んでとんでもないものをつつきだした責任。じゃあその責任はどうやってとるんだろう?このまま江藤響さんにむちゃくちゃに殺されることが私の責任なのかな。そうすれば私は自分の行動について少しは胸を張れるのだろうか。死んで冷たく硬くなった小さなおっぱいが付いた私の胸を。
そして私は地獄に行く。そこでずっと叫び続けるのだ。悲しくて痛くて辛くて寂しい人生の無意味さを嘆き続けて、その声を聴くひとは誰もいない。それが死ぬより辛いこと。
余計なことを考えていたせいで私は私のすぐ後ろにまで響さんが来ていることに気が付かない。だから彼が持っていた包丁にも気づかないし、それが私の脇腹ぎりぎりをかすめて、ちょっと肉が削れて、ようやく私は飛びのく。でも遅い。紺色の制服の端っこが裂けてそこから血が出る。
「あぶッ、んふぅ。んふぅ」響さんは私の血が付いた包丁をしゃぶっている。私の血が彼の身体に入っていく。しみちゃんが幽霊を食べるように、響さんは人間を食べるのかもしれない。もしかしたら、ほかにも彼に食べられたひとがいるのかも。そう思うと私には変な怒りがわいてくる。響さんはこんな私だけじゃなく、ほかのなんの罪のないひとたちも食べたりしているのだと思うと、彼個人に対して、こんな奴はぶっ殺してやんなきゃいけないという感情が芽生えてくる。
この気持ちは不思議なもので、私に力を与えてくれる。誰かを憎む気持ちがこんなにも私を元気にさせるなんて。さっきまではビビり散らしてたのに、私は目の前の江藤響さんがただのデブ
「んじゃ、いーよもう」 『は? なに? 逆切れか―― 』
私はしみちゃんの返事を待たずに電話を切る。目がぐっと開いて、あたりの少ない光をドントン取り込んでいく。胸もふわっと膨らんで家の汚れた空気をそれでもたっぷり取り入れて私の力に変えていく。私は切られた脇腹を手で触る。ぬるっとした感触。そしてびりっと痛みが走る。その電気が私の頭をしゃっきりとさせるけど、吐き気みたいに膨れあがる響さんへの敵意は消える気配がない。それは私の中の何かを食べてどんどん太っていく真っ黒の泡で、あまりにも量が増えるもんだから私の眼鼻口からブクブクと溢れ出す。私はそれを気持ち悪いとも怖いとも思わない。それは私の中からやってきた自然なものだから。
手についた私の血を私は舐めて、私は私にその塩っぱくて鉄い流れがぱんっぱんに詰まっていることを改めて知る。ゲロと腐敗の臭いでいっぱいになっていた私の口の中であまりにも強すぎる血の香りが広がり、その砂糖菓子みたいな甘さに私はくらくらしてしまう。
「殺す……」
と呟いたのは響さん?それとも私?私にはもうその区別はつかなくて、響さんが叫びながら私に飛びかかってくるので多分響さんだろう。でも響さんはこの土壇場で足をもつれさせて転ぶ。すてーんと頭から倒れる彼の手から包丁は逃げ出して私の足の間を滑って飛んでいく。
があっ、と飛び上がる響さんのほっぺをその辺にあった重そうな花瓶でぶっ叩いたのは私で、響さんはそれでノックダウン。黒目がぐるーんと回ったと思うとその場にひっくり返る。やりぃ! 私はそのままその場にひざまずいてもう一度花瓶を振りかぶる。迷いはない。私は私の覚悟の強さにびっくりする。倒れた響さんの頭に花瓶をたたき込むことに躊躇はない。絶対に殺す。私を殺そうとしてくる男は殺す。私は犯そうとしてくる男は殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺
というところでしみちゃんが私の頭をがつーんと蹴り上げる。私は舌を噛むし何なら歯が折れたかもしれない。いつの間にかやってきたしみちゃんは、明らかに怒っていて、私を見下ろしている。呆れてるようで、しっかり怒っている。私はまだしみちゃんを失ってはいないんだね。よかったね。と思う。気づけば私の中の黒い泡はどこかに消えている。
「涼子、いまこいつのこと殺そうとしてたでしょ」
「うん」言ってから私はビックリする。あれ? 殺そうとしてたっけ。いや、してたな。信じられないけど、でもその信じられない気持ちと同時に、私は私の殺意が本当に私のものだったということをよく知っていて、変に納得してもいるのだ。私はひとを殺そうとした。それはいけないことだ。でも私は私の気持ちとして、本当に迷いなくこの江藤響さんをぶっ殺してやろうと本気で思えてしまったのだ。
「マジやべぇこの女」としみちゃんはため息をつく。尾けてきて正解だったよ。え? 尾けてたの?
「当たり前でしょ。こんなとこに一人で乗り込むとかマジいってるから。そもそも面識ないひとの家に勝手に入るとか非常識だから」
しみちゃんにまともな指摘を受けると私は悔しくてたまらないのだが、それはそれとしてしみちゃん来てくれてありがとう。止めてくれてありがとう。と思う。私は私の花瓶攻撃を食らった響さんを見る。起きる気配はない。気絶してる。お~。すご~。
ケラケラケラ! と甲高い笑い声が聞こえて私たちは声のほうを見る。そこにいるのはもちろん江藤奏多くんで、でも江藤奏多くんは江藤奏多くんではない。子供の顔をした何かが私たちを見て笑っている。でもそれは子供の表情じゃなくて、なんなら人間の表情でもない。人間の口はそんな風に開かないし、目はそんな風に歪まない。どこかで見た表情。すぐに思い出す。ああ。〈顔〉だ。ラブホテル跡地のでっかいでっかい〈顔〉。あれはあなたの顔だったんだね。奏多くんの身体はキャアーと子供らしいはしゃいだ声をあげて走り去っていく。
「追いかける?」しみちゃんが心底疲れたとでも言いたげに私に聞く。
「もちろん」私は答える。
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