第4話

 知らない男のひとがやってきて言う。「きみ、そろそろやめたほうがいいぜ」えっ、誰?髪の毛はぼさぼさでもう秋も終わるというころなのにかなりの薄着でサンダルを履いているけど結構イケメンで若い。たぶん二十歳少し過ぎくらい


 私としみちゃんは登校中で、私はというとまだまだショックが残っていて、男のひとが怖かったりする。マジで目も見れないくらい。男の人の声を聞くと足が震えるし、ちょっと吐き気もしてくる。しみちゃんはそういう状況を知ってくれているので私を背後にかばって男の相手をしてくれる。「あんたなに?」そういうのは嬉しいけど、もう無視していこうよ。学校に。学校に行けば私は保健室で無限に数学のプリントをこなすだけでいいのだ。そして放課後は奏多くんを探す。しみちゃんと一緒に町の心霊スポットを巡るのが日課になっていた。たまに出てくる幽霊をやはり彼女は食べる。


「なにって……。なんだろう。おれはなんだろうな。なんでこんなことしてんのか、おれ自身にもさっぱりわからなかったりするんだ。なんでおふくろの股座またぐらからおぎゃあと生まれてきたのかもわからない。そりゃ親父とおふくろがやったからなんだけどさ」「キモイこといってんじゃねーよ。警察呼ぶぞ不審者」しみちゃんはかなりの喧嘩腰だ。「警察は困る。でも話は聞いてほしい。染田麻衣子さん」


 自分の名前を呼ばれてしみちゃんはちょっとたじろぐ。しみちゃんが少なからず怯えてるのが私にも伝わる。しみちゃんは美人だし、気も強いけどけっして無敵の女の子ではないのだ。私にも直接言いはしないけど、私たちと同じように将来に不安を感じ、いつだって好きなひとだけいっしょにいたいと思っていて、そして突然話しかけてくる男のひとを怖いと思ったりもする。ていうかこのひとはマジで何なの?私もかなり怖い。


「もう一度言っておくぜ。これは警告なんだ。染田麻衣子さん。いいか? もうのはやめるんだ。後戻りができなくるよ」このひと、知ってるじゃん!私はびっくりする。しみちゃんもびっくりしている、と思う。男のひとはしてやったりという感じの顔で続ける。「そう。知ってるよ。有名人だぜ。きみ。幽霊を食べちゃう女の子なんてそうそういないからな。でもそれはよくないことだ。何がよくて何がよくないかっていうのは結局のところ誰にもわからないが、意味を限定して言えばそれはかなり簡単な話になってくる。つまり、幽霊を食べることは君の身体に悪いんだ。酒飲みまくったり、若くして煙草すったり、クスリで遊んだりするのと同じさ。早死にするし、なんならことになる」「死ぬより悪いことって?」私は思わず聞いてしまう。自分からそんなにも大きな声が出ることに私は驚く。


「死ぬより悪いことはというのはつまり、死ぬより悪いことさ。生きてるおれたちには想像もつかないくらい、しんどくて、辛くて、苦しくて、永くて、そして悲しいことを言うんだ」


 説明になってねーよ。と言いたいけど、イケメンの言葉にはへんな説得力があって私は私なりの想像力で死ぬより悪いことを想像してしまう。たとえば?私はそれを知っている気がする。誰もいなくなった私の家でひとりで泣いている子供の顔は虚ろな穴になっていて、そこからは地獄で叫び続ける私の声が聞こえるのだ。たぶんそれがそう。死ぬより悪いこと。


 しみちゃんは呆れた風に頭を振って言う。「知らない。アンタが言ってることも、アンタのことも知らない。もうどっかいって。私たちは学校にいかなきゃなの」「ああ。どっかいくさ。おれも君たちにずっとかまってやれるほど暇じゃない。でも君がまだこれから先も幽霊を食べたりするようなら、おれはまたやってくるよ。もう会わないで済むことを願ってるよ。それじゃあ」イケメンはそう言って私たちのそばを通って去っていく。振り向きもしない。私たちは彼が見えなくなるまで彼の背中を見つめ続ける。彼は一瞬私の目を見ていた。彼が何を伝えようとしていたのか私にはよくわかる。「君が止めろ」どうやって?私に何ができるっていうのさ。


 保健室で適当にだらだら過ごして、放課後になってしみちゃんが迎えに来てくれるのを待つ。保健室の先生の飯岡さんは私に優しくて、数学のプリントをやってる私にコーヒーを出してくれる。めっちゃいい。わざわざ教室までいってだるい授業を受けなくたって私はここでこうして中学を過ごせるのかな、と考えるけど、そううまくはいかない。だってそうじゃない? このまま中学を卒業したとして、高校でも保健室にいくの? 高校は義務教育じゃないから退学だって全然あるし、うまくいったとして次は? 保健室がどこにでもあるものじゃないっていうのは私にだってわかる。私は私の居場所を自分で見つけなくてはならないのだ。それが大人になるってことなのかなーなんて思うけど、今の私にはとてもできそうにない。私はどこにいくのかな?


 という話を飯岡さんにすると、飯岡さんは「はぁー。あんたずいぶんとまともなことを考えるのね」(飯岡さんは四十を超えたおばさんだ)なんて言う。「私がアンタくらいの歳のころは、そんなこと考えもしなかったわ」うんうん、関心関心。とつぶやいて飯岡さんは「じゃあ私はちょっと職員室に行かないといけないから。染田さんが迎えに来てくれたら、もう帰っていいから」とどこかに行ってしまう。逃げた。大人は信用できない。いや、信用できない大人がいる?どちらが正しいのだろう。なんにせよ飯岡さんは、私とそういう話をしたくはなかったし、さらに言えば私に大人としていいアドバイスができる自信はなかったのだ。


「正直、奏多くんがなんでいなくなったのかは私にもわからない。悪い幽霊はどこにでもやってくるし、私たちが知らないうちにいろんな大切なものをとっていくんだよ。でもあのひとたちにも家みたいなものがあって、いや、そこに住んでるとかっていうわけじゃないんだけど、この世界にとどまり続ける理由になるような何かやどこかが、あるんだ。そういうものを見つけたらいいんじゃないかな」


 と言ったのはしみちゃんで、というわけで私たちは奏多くんを連れて行った悪い幽霊を探すために私たちの町から私たちの行動範囲内にあるおばけの出そうな場所をしらみつぶしに探索することになったのだ。奏多くんがいなくなったのが本当に悪い幽霊のせいだと決まったわけではないけど、ちゃんとしてこの世界の理屈であの子を探すというのは警察とか奏多くんの家族とかがしているわけだから、私たちは私たちの方法で探せばいいのだ。私たちが見つけることが目的なのではなくて、奏多くんが家族のところに戻ってくることが私たちの目的なのだから。でも私には妙な予感がある。私たちがなんらかのかたちで奏多くんを見つけることになるんじゃないのかな~という予感が。それをしみちゃんに言うと鼻で笑われるけど、私には自信がある。


 私たちコンビがはじめに行ったのは例の交差点だった。私の家からあるいて10分くらいのところにある住宅街のはずれの、街灯がすっぽりとなぜかそこだけにない交差点。ここが心霊スポットになったのはごく最近のことで、なにが起きた場所かというと交通事故だ。私に乱暴をした高校生たちが全員まとめてここで死んだ。まるで何かの罰を受けたみたいに、誰かの恨みを買ったみたいに。ここで何度も死の直前のリプレイを繰り返していた彼らは、徐々に私には見えなくなって、そしてもうここであの事故は起きなくなった。その代わりに、私に乱暴をした彼らを率いていた女の子、佐々木君のお姉さんがぽつんと一人で立っている。たまにだけど。


「知ってる? 人がいっぱい死んだり、人の強い感情が残ったりした場所には幽霊が集まりやすいんだよ」しみちゃんは言う。でもここにいるのは佐々木くんのお姉さんだけなのだ。交差点の隅に立って、佐々木くんのお姉さんはじっと私を睨んでいる。私に話しかけてきたりもしないし、襲い掛かってきたりもしない。ただじっと私を見ている。佐々木くんのお姉さんは案の定怒っているようで、彼女たちが私にしたことについてなにか負い目を感じているようには一切思えない。こんなにもシンプルに誰かに敵意を向けることが、人間にできるんだ。と思うと怖くなる。こういうかたちの感情がこの世界にあることそれ自体が、私にはとんでもなく恐ろしい。私は言う。


「ねぇ。しみちゃん。ここには何もないよ。奏多くんもいないし、奏多くんを探す手がかりもない。ここにいるのはあの人だけだよ。もう帰ろう。疲れたし、怖いよ」


 しみちゃんは私の言葉を無視する。あなたはどうしてここに私を連れてきたの?そう思った瞬間、しみちゃんが持っている黒い何かを私は感じる。ここには意味があるんだ。ここに私を連れてきたことには、私の知らないしみちゃんだけの理由があるんだ。だってしみちゃんはここにきてからずっと、ちょっぴり口をゆがませて笑ってるもんね。そしてしみちゃんは脈絡なく語りだした。しみちゃんが自分のことを話すのはとても珍しいので、私はそれを、絶対に聞き逃さないようにした。そういうつもりで聞いた。


「私はね。実は昔からけっこう幽霊とかおばけとかが見えてて、それでいろいろ困ったことになったりしてたんだ。いつもはオオガミさんに助けてもらってたんだけど、あるときオオガミさんが男の人に騙されて福岡まで行っちゃってた時期があって、その数か月間、私はそういう不思議なものたちから自分を自分で守らなきゃいけなくなった。そしてそのときに、私は幽霊の食べ方をんだ」


「誰に教えてもらったの?」「言わない」いつかは教えてくれるよね?私が言うと、しみちゃんは黙ったままだった。


 幽霊のことを知っている、というか本当にいるものとしてまともに話の通じる唯一の大人であるところのオオガミさんは、残念ながら私たちの奏多くん探しには協力してくれない。事情を話しても、彼女は言う。「それは私の仕事じゃないから」えー。じゃあオオガミさんの仕事って何なのと聞いたら、神社の掃除なんだって。違うでしょ絶対。そしてさらにはこんなことまで言う。「海野ちゃん、もうやめたら? そういうことしている時間はあんたたちにはないはずだよ。中学生は3年間しかないんだから、もっといろいろ楽しいことをしなきゃだめだよ。幽霊とか、おばけとかそんなものに時間を使ったってこの世の中ではなんのためにもならないんだから。私はそんなことにばっかりかまけていたから、婚期も逃したし。あなたに大変なことがあったのは知っているけど、それは理由にはならないでしょう?傷ついて、変わってしまったあなたにだって、まだまだ人生を楽しむための方法はあるんだから。ないのは時間だけ。それはあなただけじゃなくて、ほかの人にも言えるし、麻衣子にも言える。私にだって。みんな時間がないの。ない時間を求めて歩き続けていると言ってもいい」


 そんなわけのわからないことを言って問題をはぐらかすオオガミさんは、やはり飯岡さんと同じで悪い大人なのだろう、と私は考える。でも悪いというのは間違いかもしれない。今私がしなくちゃいけないことは間違いなく奏多くんの捜索なんだけど、それがいまの14歳の私の時間を食いつぶしていることは確かなのだ。「しなきゃいけないこと」というのはなんだろう、と私は思う。いわゆる使命?日本に住んでいる中学生の私に使命なんかあるのだろうか。私は正義の味方なんてかっこいいものじゃないし、どちらかというと確実に弱い側の人間だと思う。弱い私に使命なんてあるのかな?じゃあ逆に、弱い私は何もしなくていいのかな?どちらともいえない気がする。答えがない。こっちが正しいとかいうのはない。大人は答えをくれそうにない。


 私たちが町中の心霊スポットを巡って遊んでいる間に、奏多くんはついに見つかる。でも奏多くんはもう自分が奏多くんであることさえ忘れてしまっていて、なんなら自分が人間であることさえ忘れてしまっている。


 奏多くんが見つかったのは国道沿いのつぶれたラブホテルの駐車場で、彼はそのコンクリの湿った地面に小石で傷をつけて絵をかいていたところを保護される。非番の警察官がドライブをしているときに彼を目にして、ようやく奏多くんはほぼ三か月ぶりに家族のもとに変えることになる。ただし、言葉をなくしていて、食べて、寝て、おしっこをあちこちで漏らし続けて、そして、暇さえあればその「何か」の絵を描き続けるようになってしまったのだが。


 そうした噂が出回って、どうやらそれが本当のことらしいと分かったのは奏多くんのお兄さんである3年の江藤先輩が、そうした噂を全く否定することもなくついには不登校になってしまったからで、わたしたちは実際に奏多くんがみつかったラブホテル跡地に向かう。奏多くんは見つかっていない。奏多くんは本当には帰ってきていないからだ。自転車で一時間。遠い。いよいよ肌寒くなる季節だというのに、目的地に着くころには、私はじんわりと汗をかいている。しみちゃんは相変わらず飄々としている。それもそのはず、私は変速もないママチャリを精いっぱいこいでいる一方、しみちゃんは3×8の24段変速のクロスバイクで駆けている。この差はなに?


 お昼過ぎ、という時間を選んだというのに、その場所は暗く、湿っていて、行方不明になった子供が一人でいるにはおかしな場所に思える。こういう場所に来ると、私はなにか嫌なものを感じる。ラブホテルっていうのはつまりそのための場所で、ここはそういう情念みたいなものがこもっていると私は感じる。欲望がむき出しになって、でろでろに臭いをまき散らしているような感覚。実際には古いコンクリートの湿ったにおいや、建物の中から流れてくるカビの匂いしかしないんだけど。


 ラブホテル跡地の所有者は見つかってない。地方紙の記事によれば、ホテルの経営者と建物の持ち主と土地の持ち主の三人は全員別人で、しかもそれら全員が死んでいるのだそうだ。相続をした人間はわからない。宙ぶらりんの場所で、奏多くんは発見された。服装や持ち物はいなくなったときと同じ。まったく外見は変わりない姿で見つかった。外見だけは。


「ここに幽霊はいないね」と私が言う。私にはそれがわかる。目が悪くなってから、私には幽霊の姿が前よりもずっとはっきりと見えるようになった。しみちゃんは言う。「こっちのものが見えづらくなって、あっちのものが見えるようになったんじゃない?」こっちとかあっちというのは私にはよくわからないが、確かにたびたび見えてしまう幽霊たちは、明らかに私とは違う場所にいるものだとわかる。彼らは死んでも終わらなかった時間を鬱々として過ごしているか、誰か生きているひとを傷つけようとしている。つまり悪い幽霊だ。幽霊には悲しい幽霊と悪い幽霊がいる。というのが私が幽霊を見るようになってざっと考え出した分類で、それはあながち間違いじゃないと思う。


 幽霊はいない。でもそこにはかつでなにか普通ではないことがあったのだ、と示すものがある。奏多くんの絵だ。


 その絵はつかみどころのないぐにゃぐにゃの模様で、私にもしみちゃんにも意味がわからない。マジでなに?これ。「これ、ホントにただの落書きだよ。意味なんかない」しみちゃんが言う。でも私はそうは思わない。意味のない絵なんかない。この模様には何か意味があるはずだ。奏多くんは今も絵を描き続けているらしい。なんの絵かは誰にもわからない。狂ってしまった奏多くんが狂ったように描き続ける絵の始まりが、ラブホテル跡地の駐車場に白く描かれたこの絵なのだ。私は探す。ヒントを探す。奏多くんはなぜ絵を描く?奏多くんは小学生でもう文字は書ける。なのに絵を描く。それは絵でしか説明できないものを説明しようとしているからだと思う。言葉では説明できないものも絵なら表現できるかもしれない。古代のひとたちもそうしていたはずだ。奏多くんは自分の時間を精いっぱいに使ってこの絵を描いていた。なにかを説明したいのだ。それはなに?


「あ! 君たち! おいっ」 


 声がして私たちは地面に描かれた絵から顔を上げる。廃墟の中から人が出てくる。私たちはそのひとを知っている。いつぞやのイケメンはサンダルをペタペタと鳴らしながら私たちに歩み寄ってくる。なんでいるの?


「まーた君らはこんなとこにやってきて。何をしようってんだい? ここは子供が来るところじゃないんだよ。それに言ったよね? もう幽霊は食べるなって。幽霊を食べるなって言うのはに近づくなってことでもあるんだよ。中学生でもそれくらいはわかるだろ、まったく」


 イケメンの名前は幸田こうだというそうで、その幸田さんは仕事の関係上ここに来たのだという。仕事って何?幸田さんは警察のひとなんですか?と私が聞くと、その声は届かなかったみたいで、幸田さんは私を無視する。私はしみちゃんの後ろに隠れる。「幸田は警察なの?」しみちゃんが聞く。「おれ? おれは……まぁ、警察みたいなもんだよ。うん。ていうか呼び捨て……」絶対嘘。


「君ら、ちょっとはわかるみたいだから言うけど、江藤奏多くんの件にはもう関わっちゃだめなんだ。危ないんだよ。君たちまであっちに行っちゃうかもしれないんだぜ」幸田さんは箒みたいな頭をばりばりと掻いて続ける。「例えばさ、えー、イスラエルとパレスチナの対立問題、わかる? わからないでしょう。聞いたことはあるかもしれない。でも、おれたちはそれを、。とても関わろうとは思えない。でしょ。それと同じなんだよ」


「だってさ」としみちゃんは私に振る。やめてよね。二人の視線が私に向く。そう。奏多くんを助けたいと言い出したのは私。私には責任がある。この問題についての責任はないけれど、自分の言葉についての責任はある。私は自分で言い出したことを自分の中でどうにか決着をつけなくてはいけない。「やっぱり無理でした。私には奏多君を助けられませんでした。あとは警察とか、幸田さんとか大人にお願いします」と言ってもいい。誰も責めはしない。しみちゃんだって、そもそも乗り気じゃない。私だけなのだ。私だけが勝手に舞い上がっていると言っていい。


「はっきり言おうか。君らじゃまったく力不足なんだよ。その辺の中学生が、この問題に踏み込むのはまるで場違いだぜ。調子に乗るな。君らでは余計にほかの人間の足を引っ張ってことを大きくするのが関の山さ。、いますぐに。家に帰って、スマホやゲームで頭を空っぽにしろ。同じくらい頭からっぽの男と手をつないだりデートしたりしろ。そんでたまには勉強して、将来のことを考えろ」


 しみちゃんは私を見ながら黙っている。守ってくれない。なぜなら、彼女も同じように思っているからだ。しみちゃんは私と一緒ならなんでもいいから、とりあえず私に付き添ってくれているだけ。本当は奏多くんのことなんかどうでもいい。もしも私が危険な目に逢うようになれば、しみちゃんも幸田さんと同じような言葉を吐くだろう。でも私は……。


 幸田さんの目が怖い。幸田さんは私たちを守ろうとしているのかもしれない。でも私には彼の目が怖い。私は男性が怖い。なぜなら私は傷つけられたから。男が怖い。怖い。怖い。お父さんも怖い。近所のおじさんも怖い。学校の先生も怖い。同級生たちも怖い。男は持っている。私たちは持っていない。怖い怖い怖い怖い怖い。


 私はそれがまやかしだと知っている。本当は怖くないものまで、私は怖がっている。私はなにもわかっていない。奏多くんのこともしみちゃんのことも。でも私がどうすれば戻って来れるのかだけはわかっている。連れていかれたのは奏多くんだけじゃない。私は連れていかれた私を私のところに引き戻さなくてはいけないのだ。私が見る夢はいつも「あの家」の夢で、そこは私の家の中のはずなのに私もお父さんもお母さんもいなくて、薄暗い青い黒いリビングには子供一人で泣いている。泣いているその子の顔は真っ黒な穴になっていて、そこから聞こえるのは、私の叫び声。その私を私は連れてこないといけない。


「私は、私のために今これをしているんです。私がやることに意味があるんです。ほかの人に任せたって駄目なんです。失敗したって、私が全力で私のために奏多くんを助けないと、私はいつまでたってもこのままなんです。私の知らないことは知りません。誰かの足を引っ張るのなら、私はその足を引っ張ります。私だって必死なんです。誰よりも切実に、いまここにいるんです」


 私は言う。幸田さんの目を見て言う。途中で怖くなって何度も目をそらしてしまう。でも何度も彼の目を見つめなおす。今だってそう。立ち向かうことが大事なんだと思う。ちょっときつく言われたくらいで私はひっこんだりしないんだよ。


「なるほど。気合だけは十分というわけだ」幸田さんは私の目を見つめ返す。何に納得したのか、うんうんとうなずく。そして口を開く。「海野さん。海野涼子さん――」





 幸田さんにボロクソに論破されて、私は涙でぐしゃくしゃになった顔で自転車をこいで家に帰る。あまりにも怖くて、悔しくて、ぶひぶひ喚きながら泣いて帰る。しみちゃんは私を慰める。大丈夫。あいつ頭おかしいんだよ。気にしなくていいよ。りょーは悪くないんだから。わかってる。悪いとか悪くないとかの話じゃないんだよ。あいついつか絶対殺してやる。たぶんそんなことはしないだろうけど、そのくらい嫌な奴。もう二度と会いたくないと思うけど、私の心はまだ折れていないようで、明日もここに来ようと思っている。それを言うと、しみちゃんは「泣きながら言うこと?」とあきれるけど、私を止めようとはしない。


 そして翌日。私たちは学校をさぼってもう一度ラブホテル跡地にやってくる。今度はさすがに幸田さんはいなくて、私はほっとする。大丈夫。私はまだ大丈夫。今度は建物の中に入ってみる。ボロボロのホテルの中はいかにもお化けが出てきそうだが、私たちにはそれは感じられないし、見ることもない。ここには何もいない。気持ち悪い欲望の残り香があるだけ。吐きそうになるけど我慢する。


 そして私たちは気づく。なんと奏多くんの絵は建物の中にもある。にだけ。それより上の階には奏多くんの残したものは一切ない。そして私は気づく。一階フロントのそばに火事の時の避難経路の図があって、それをスマホでとって保存。建物内の奏多くんの絵がある部屋に印をつけて、いったん外に出る。そして、駐車場一面に広がる巨大な模様を少し離れたところから眺めて、廃墟を一周する。そして今度は、スマホの小さな画面にざっくり奏多くんの絵をまねして書き写す。「あ~。これ、あぁ。奏多くん、けっこう絵がうまいんだね」しみちゃんが覗き込んで言う。


 奏多くんの絵には意味があった。駐車場からでは無意味な模様に見えたその絵は、壁を貫通してホテルの床に続いている。ホテルの敷地を空からまっすぐ見下ろして、それをキャンパスに巨大な絵を描いたのだ。私のへたっぴな写し絵でも、奏多くんが何を描いていたのかがよくわかる。


 それは大きな大きなひとの顔で、男とも女ともつかないそいつは口をぱっくり開けて何かを飲み込もうとしている。不気味だ。絵心のないひとが描いた人間の顔はだいたいヘンテコだけど、これは違う。奏多くんは見たままを描いたのだ。顔面のパーツの並びがゆがんでいて、普通の人間の顔じゃない。「でもさ。この顔を描くならもっと小さく描いても良かったんじゃない? なんでこんなにでかく描いたんだろうね」としみちゃん。それは、たぶん……


「たぶん。奏多くんが見たものが、そのまんまこの大きさだったんじゃないかな」

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