喪失

「僕と結婚してください」


 緊張で震える僕が取り出した指輪に、奈々は大きく目を見開いた。

 それから本当に嬉しそうな泣き顔で笑って、頷いてくれた。


 奈々を抱きしめながら、僕は幸せだと思う。

 明日からも変わらず二人でこの幸せな日々を歩んでいく、そう思っていた。






 けれど。


 翌朝目が覚めると、昨夜確かに奈々がいたはずのベッドは冷たいままで。

 家中にあった彼女の物は跡形も無く消え。

 僕のスマホからは奈々のメールもアドレスも写真の全ても、そっくり失われていた。



 訳が分からぬまま、僕は奈々を知る人物—僕の親や友達に片っ端から連絡を取り、一様にこんな言葉を返された。



 —奈々って、誰?—





 





 僕は彼女の実家を訪ねたけれど、そこに住んでいたのは全くの他人だった。彼女の勤め先にも足を運んだし、探偵にも依頼した。

 けれども彼女の行方は、いや、彼女の存在する証は何一つ見つけられなかった。







 それでも、時は容赦なく過ぎていく。







 すっかり年老いた僕は、奈々を失ったまま死に逝こうとしていた。

 結局僕は、あれから生涯独身のまま。

 正直に言うと、奈々の顔や声は随分前からあやふやだ。

 忘れたくないと強く願うのに忘れゆく、そんな自分が腹立たしく悲しかった。

 別の誰かと結婚するなんて、どうしても考えられなかった。


 病院を勧めてくれた人は大勢いた。

 確かに周りからすれば僕はさぞかし異常に見えただろう。

 でも僕は病気じゃない。

 全てが消えてしまっても、皆が彼女を忘れてしまっても、奈々は確かにいた。


 僕だけは覚えている。

 僕だけは信じている。

 僕だけは愛している。


 死んだら奈々に会えるのだろうか。

 もしそうならば、死は何も怖くない。



 僕は、霞んでよく見えない目をゆっくりと閉じた。











「…?!」


 ぴくりと動いた指を見て、奈々は息を呑み、慌ててナースコールに手を伸ばした。


 あのプロポーズの後、彼は真夜中に突然苦しみ出して倒れた。以来二年間、一度も目覚めぬまま病室にいる。


 慌ただしくこちらに向かってくる足音が廊下に響く。

 奈々は指輪をはめた手で、すっかり痩せてしまった彼にそっと触れた。


 自分の親も友人達も、さらには彼の両親までも、彼に縛られる必要はないのだと言ってくれた。それは皆の優しさであり、とてもありがたいことなのだろう。


 けれど自分は、何があっても彼の傍にいると決めていた。


 そう。


 こうして彼が目覚めた時、一番に声をかけてあげられるように。


「おはよう」

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