【5滴】ドラクラ・バンピラの花が咲く5

 目覚ましの鳴り響く音。このままもう一度寝てしまいたいと思う眠い朝。それはいつもと変わらぬ、日常の中で何度も繰り返した朝だった。

 必死に閉じようとする瞼を無理矢理上げると仕事の為にベッドから出て支度に取りかかる。

 まずは洗面台前。洗顔を済ませた顔を上げると鏡に映る水に濡れた自分と目が合う。いつもと変わらぬ朝だったはずだが昨日の記憶がスパイスを加えるように少し違う朝へと変化させた。


「吸血鬼...」


 記憶に刻まれた単語をぼそりと口にする。丁度その時、小さく開いた口の隙間から一瞬、顔を覗かせた歯にどこか違和感を感じた。気のせいかと思いつつイの口で前歯を確認する。鏡に映る綺麗に並び手入れの行き届いた歯。その中に混じった犬歯が感じた違和感の正体であるとすぐに気が付いた晴翔は少し注意深く視線を向けた。普段から自分の歯を観察している訳ではないがそんな晴翔でも分かる程に2本の犬歯は鋭く尖っていた。薄い皮膚を突き破り中にある赤い蜜を溢れさせるような鋭さの犬歯はまるで、


「吸血鬼みたいだ」


 だが良く映画などで見る吸血鬼の牙に比べれば短く人間の範疇だと言われれば納得してしまいそうな長さだった。


「変に気にしすぎてるせいなのかも」


 言い聞かせるようにそう呟くと晴翔はさっさと顔を拭く。首まで流れた水を拭きながら晴翔はあの夜に出会った奇妙な女性の事を思い出した。ローブを纏った謎の女性。晴翔はタオルをどかし鏡に映る首筋を確認する。だが唇の触れた感覚があったそこにあのキスマークは残されていなかった。

 唯でさえ現実かどうかを疑っていた記憶だというのに何も残っていなければ、やはり夢か何かだったのかもしれない。晴翔は納得するように頷いた。


「やっぱりあんなことあるわけないんだ」


 そして洗面台を後にすると残りの支度もサクッと済ませた。

 折角の休日が訳の分からないことに巻き込まれて潰れたということを除けばいつも通りの休日明け出勤。少しやる気と気分が低空飛行しているが何とか気合で乗り切る。そんな1日。

 ―――になるはずだった。

 午後の仕事の途中で切れしまった集中力を取り戻そうと晴翔は給湯室へ足を運んだ。何を飲もうかと考えながら給湯室に入るとそこには先客の姿が。


「あっ。おつかれー」

「おつかれー」


 それは同僚の由香。同僚の中では親しい部類の人。


「何か飲むの?」

「うん。気分転換にコーヒー飲もうかなって」

「おっ。一緒じゃーん。ついでだし淹れたげる」

「それじゃあお言葉に甘えてお願いしようかな」

「ブラック?それとも何か入れる?」

「ブラックで」

「りょーかい」


 由香はコップをもう1つ用意し手際よくコーヒーを淹れていく。そんな彼女の横顔を棚にもたれながら何となく眺めていた晴翔。

 すると無意識に視線が由香の首筋へ向いた。手入れの行き届きスラっと伸びる綺麗な首筋。特にそういうフェチがあるわけでもないが彼女の首筋を見ているとどこか惹かれるのを感じた。そんな気持ちを抱えたまま真っすぐ首筋を見つめ1歩近づく。まるで綺麗な花に誘われる蜂のようにまた1歩。もはや目が離せなくなっていた晴翔は更にもう1歩足を踏み出しすぐ隣まで近づいた。皺は無いが透明感はある綺麗な肌。

 そしてそこから薄っすらと見える青い血管。真っ赤な血が今も流れるその血管に晴翔の目は釘付けで微かに胸が高鳴るのを感じていた。実際に見ずとも新鮮な果実のような血を想像するだけで舌舐めずりをしてしまう。今すぐその首筋にかぶりつき心行くまで血を味わいたい。そんな欲望が内側から溢れ出し止まらない。晴翔は唾を飲み込むとそのことで頭が一杯になり口を半開きにした状態で動きを止めた。そして心の奥底から這い出す欲望に体を乗っ取られたかのように意識とは関係なく手が上がっていく。その時間すら楽しむようにゆっくりと。

 だが何がそうさせたのか晴翔は切り替わるように我に返った。そして自分とは思えぬ先ほどまでの自分に動揺しながら大きく顔を逸らす。先ほどの延長線上で強く脈打つ心臓だったがその意味はすっかり変わっていた。


「大丈夫?」


 そんな晴翔を心配そうに覗き込む由香は同時に湯気を立ち昇らせるカップを差し出した。


「え?あっ、うん。ありがとう」


 戸惑いながらもそれを悟られないようにしながらお礼を言いカップを受け取った。


「疲れてるんじゃない?ならちゃっちゃと仕事終わらせて帰った方がいいわよ」

「そうだね。じゃあこれでもうひと頑張りするよ」

「お互い頑張りましょうね」


 由香は軽くカップで乾杯するとそのまま先に給湯室を後にした。

 そして1人残された晴翔は1度カップを置き口元を覆った。


「何だったんだ? さっきの」


 手の中で呟きながら彼女の首筋が――その内側に流れる血がご馳走のように思え今すぐにでもかぶりつきたいという衝動に駆られていたさっきを思い出す。


「あのままだったら...」


 確実に彼女の首筋へゾンビのように噛みついていただろう。そう思うと直前で我に返ったことに心の底からホッとした。一体どうしてしまったのだろう。同時にそんな疑問が頭を過る。だが考えたところで答えが出るはずがなかった。

 仕方なく晴翔はカップを手に取りデスクに戻り仕事を再開した。

 それから仕事が片付くまで特に問題はなかったがその帰宅途中、再び異変が晴翔を襲う。突然、立ちくらみがしたかと思うと腹の虫が叫び声を上げた。しかしそれはいつもとは違う空腹。ふと給湯室の出来事が脳裏を過る。あの時の自分を思い出すだけで微かに喉が渇くのを感じた。兎に角今は――晴翔はふらつく足を動かし家へ向かった。

 ドアを開け靴を脱ぎ捨てると廊下を進みながらネクタイを緩める。今すぐ何かを食べないと死んでしまいそうな程に空いたお腹は急かすように何度も音を鳴らしていた。その音を聞きながら鞄は適当に床へ放り投げ真っ先にキッチンへ。

 冷蔵庫を少しでも早く開けると、まずペットボトルを手に取り零れることなどお構いなしに口へ流し込む。だが飲めど飲めど喉の渇きも空腹も満たされない。あっという間に飲み干したペットボトルを投げ捨てると今朝の残りのサンドイッチに手を伸ばした。ラップを剥がし手に取った1つ目を一口。連続でもう一口。大食い勝負をするように急いで飲み込み更に口へ運んだ。2つのサンドイッチもあっという間に完食するが何も食べないというように腹の虫は依然と鳴いている。それに加え喉の渇きも潤わない。

 晴翔はただ腹を満たし喉を潤そうと冷蔵庫にあったのもを片っ端から食べて飲んだ。だが地獄で罪を償うが如く喉の渇きと空腹は収まらない。

 しばらくして晴翔はゴミや零れた液体、食べカスで汚れた中に蹲っていた。酸素より優先し飲み食いをしたせいもあり呼吸は乱れ、依然変わらぬ空腹と渇きで視界が霞み始める。

 するとドアが開き足音が1つ廊下歩き近づいて来た。しかしそんなことに気を配れる状態ではなかった晴翔は全く気が付いておらずただ蹲るのみ。そして家主に気づかれることなく家に上がり込んだ足音はキッチンまで来るとそこで立ち止まった。


「やっぱこーなってたか」


 その声で初めて誰かいることに気が付いた晴翔は顔を上げその人物を見上げる。赤みがかった晴翔の目に睨まれるように見上げられていたのは、ノアだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る