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「…、あいつ、だてにお前の副官はやっていないな。
随分としっかりし過ぎている」
「文法が変だぞ、懐音」
「何か間違っているか?」
「…いや」
この懐音を相手に、これ以上の指摘は無駄だと判断した柩は、その時点で頭を抱えると、あっさりと引き下がる。
しかし、ここで柩ほどにはあっさり引き下がらない人物が、この場にひとりだけ居た。
「…兄上は手厳しいな」
さも楽しげに、それでも冷笑に該当する笑みを浮かべる懐音の弟──サガ。
対して、その当の懐音の先程からくすぶり続けていた苛立ちの矛先は、この一言で、完全にそちらへと向けられた。
「…お前に言われる覚えはないが」
「ふ… つれないことだな、兄上。
それ程までに、氷皇の件が引っかかっているのか?」
「……」
サガのこの問いを、懐音は一見、無言のままに、冷静に受け流したかのようだった。
しかしその瞬間、部屋の空気が逼迫し、周囲の壁がぴしりと音を立て、見えぬ各所に無数の罅が入ったらしいことを、柩が見、聞き漏らすはずもなかった。
「!おい、懐音…」
さすがに柩が窘める。しかし懐音の瞳は、それに反して鋭くなるばかりだ。
──そう、それは孤高の月のように。
「その残忍さで言えば、なるほどお前は確かに、あのクソ親父の息子だ。
…だが、生命を軽視し、好き放題に弄び、気に入った者以外、何の躊躇もなく切り捨て打ち捨てるその様は、およそ生死を公正な立場で司るはずの、冥界の王子の言動ではない」
「……」
「何故分からない、サガ──
幾らお前の母が、生粋の冥界の者であろうと、俺たちには幼い頃、共に過ごしたという、共通の経緯があるはずだ。
…あの頃のお前は、親について回る雛鳥のように、常に俺の後ばかりを追いかけていた…
そう、俺の母が、短命の人間であることを知りながらも──
それでも屈託なく、純粋に明るく笑いながら…な」
「……」
サガは無言のままに、兄の言に耳を傾ける。
「当時のお前の全てが嘘であったとは、俺にはどうしても思えない…
サガ… 俺が冥界から離れてから、一体何があった?
そして何故、今のお前は…それ程までに狂気にまみれている…!」
「…俺が真に、狂気に染まっているのだとしたら…
そうさせたのは他でもない。
──兄上、貴方が…」
「…サガ様」
それまで双方の出方を窺うことで、黙っていた柩が、この澱んだ空気を断ち切るかの如く口を挟んだ。
「懐音の心境を考慮し、無礼を承知の上で申し上げますが…それは懐音には、一切、非はありません。
全てはサガ様…貴方の弱さが原因です」
「…、さすがは死神の長。公明正大な判断だ」
皮肉にも近い評価を、鋭い視線と共に残して、サガはふと、身を翻した。
しかしそれに釈然としない懐音が、ここでさすがに待ったをかける。
「…待て、サガ。お前が何の画策もなく、人間界に下るはずがない。
白状しろ。今度は何の爆弾を撒いた?」
「爆弾とは人聞きが悪いな、兄上」
サガは振り返りもせずに答えたが、その声には僅かに喜の感情が含まれていた。
「爆弾にだって不発や、解除の仕方くらいあるだろう…
そう…、“誰かが爆発させなければ”いいだけの話だ」
言葉の最後は明らかに企みを含ませて、サガはそのまま魔力で姿を消した。
と同時、サガに意見をすることで、些か固まり気味だった柩に、懐音は手にしていたカーテンを、山と手渡す。
それによって柩が、ようやく我に返った。
「!って懐音、これ──
まさか、今から俺に全部干せと!?」
「やかましい監視役。お前が変に俺に隠し立てさえしなければ、サガにああも好き放題言われることもなかっただろうに」
懐音の強烈な切り返しに、柩は言葉を探すように視線をあちこちに向け、言い淀む。
「!う、…そ、それは…」
「…この貸しを、たったこれだけのことでチャラにしてやろうというんだ。
安いもんだろうが」
憮然としたままに言を纏めた懐音は、いつの間にか取り出し、火をつけた煙草で洗濯物を差した。
対して、柩は懐音の思惑を充分過ぎるほど理解していながらも、その剰りの洗濯の量に、自然、項垂れずにはいられない。
「…、この、無理やりというか、こじつけというか、俺様万歳な手際と手腕…
さすが、あの王の息子というのはダテじゃ…」
つまり懐音は、“監視していること”、それ自体を自分に伝えなかった柩の行為を、咎めることはしない代わりに、こちらの用件も呑むようにと。
そのように言っているのだ。
そしてそれが解るからこそ、柩の方には全く反論の余地はない。
挙げ句、限りなく難も癖もある性格の懐音が、これだけで事を済ませるはずもなく、
「運が良かったな、柩。
これでもう少し早い時間なら、シーツやテーブルクロスまで間違いなく引っ剥いでいたぞ、あいつは」
と、極めて楽しそうに宣い、悪魔の笑みを浮かべる始末だ。
確かにそれが間違いでないだけに、柩の頬が否応なしに引きつる。
あの朱音のことだ。今回はたまたま隣家に興味の矛先が向いたから良かったようなもので、実際、あの騒ぎさえなければ、懐音の言っていることが免れないだけに、その背には当然の如く、ぞうっとするものが伝う。
するとそんな柩の様子から、良く言えば放っておいても大丈夫、悪く言えばお咎め無しと踏んだ懐音は、徐に煙草をくわえると、唐突に扉から、すいと外へと抜け出した。
「!おい、懐音っ…」
柩が反射的に腕を伸ばすも既に遅し。
当の俺様ヘビースモーカーは、悠々とその場から姿を消してしまっていた。
「…全く、あの俺様王子と来たら…」
柩が、日頃の気苦労と合わせた形で嘆息する。
──冥界の王の第一子でもある懐音は、当然の如く、冥界からは王子として認識されている。
その美しい外見も、高貴な血を匂わせる立ち居振る舞いも、備わり漂う気品も、その全てが確かに素晴らしいというのに…
あの口の悪さでぶち壊しだ。
付け加えてあの性格。俺様気質、高飛車、腹黒の三拍子。
…柩は呟かずにはいられなかった。
「…相変わらず懐音は、“動かすまでが”時間がかかるんだよな…」
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