†忘却†
「“生きている”… その本当の意味が、お前に解るか?」
「…ふざけるな、このクソアマ」
己の感情を抑えることもままならず…
自らが住まう部屋で、机近くにある椅子に、凭れる形で腰を落ち着けていた懐音は、半ば天災にも近い、降って湧いた災難に、仕方なく体を起こして頬杖をついたまま、不機嫌そうに眉を顰めて呟いていた。
…その言いっぷしは相も変わらず、確かに悪いのだが、“クソアマ”と…
確かに相手を特定して言っている所からしても、その不満の矛先は言うまでもなく、あの一癖も二癖もある少女…
燐藤朱音だ。
──氷皇の例の一件から、時は流れ…
季節柄、朱音の通っている高校は春休みへと入っていた。
学校は休み、緋桜のことは気になる、そして春休みだからといって、別段、家でしなければならないことも、することもない…
となればまさしく三拍子揃い踏み…すなわち、これ幸いと踏んだ朱音は、あの時あの場にいた者たちの動向が気にかかってか…
彼女は春休みになってからというもの、相手(主に懐音)の迷惑など省みることもなく、ほとんど毎日、懐音の住まう邸宅へと足を運んでいた。
…しかし、そんなある日。
唐突に、何か大事なことに気付いたらしい朱音が、誰にともなく噛みついた。
「何でこの家は…変にホラーっぽいっていうか、やたら辛気くさいのかしら!
何だかこう、全体的に見た目も中身も暗いのよね。こんな薄暗い所に住んでるから、その持ち主も比例して陰険になるのよ!」
と、懐音に対して極めて失礼な一言を何の遠慮もなく言い放った挙げ句、その当の室内を薄暗くしている原因が、窓側の厚ぼったいグレーのカーテンにあると知るや否や、その窓という窓にあるカーテンを全てひっぺがし、さて洗濯するわよと、戸惑う緋桜までをも巻き込み、けしかける始末。
…その一方で、これに対して懐音がキレないはずもない。
故に出てきた言葉が、例の、
『…ふざけるな、このクソアマ』
…だ。
懐音は不機嫌な表情をまともに顔に張り付けながら立ち上がり、朱音の手から引ったくるようにカーテンを奪う。
「あ!」
それに気付いた朱音は、何とか懐音の手からカーテンを取り戻そうとするも、身長差があるため、懐音の頭上までそれを上げられると、とてもじゃないがそのままでは届かない。
「懐音、そのカーテン…!」
「あのな…いいか、よく聞けクソアマ」
懐音が左手でカーテンを抱え、空いた右手でびしりと朱音を指差す。
「“誰が”こんなことをしろと言った?
辛気くさかろうが何だろうが、ここは俺の住処だ。
お前には関係ない」
「…まあ、そう言うなよ懐音。別に大したことではないんだし、やりたいようにやらせておけばいいだろう」
素っ気なく言い放った懐音を宥めたのは、いつの間にかその場に姿を現した、柩だ。
朱音はすかさず柩の陰に隠れると、道角に追い詰められた子猫のように、懐音を目で威嚇する。
「……」
双方を見比べて、またか、と疲労の息を漏らした柩は、仕方なく引き続き二人を宥めにかかる。
「二人とも、そういちいちケンカするな…
その度に俺と緋桜がとばっちりを食うんだからな」
「…う"」
それを言われてしまうと、朱音にはもはや返す言葉はない。
それを見て二度めの溜め息をついた柩は、朱音の身体を前面に出すと、懐音へと促す。
「懐音の口振りでは、断りなくやったことなんだろう?
その点は懐音も怒って当然だ。…でもな」
「…何が言いたい、腐れ死神」
「いや、そろそろ懐音にも、浮いた噂のひとつやふたつあっても、と…」
「馬鹿を言うな」
懐音はにべもなく即答すると、緋桜の方に向けて、手にしていたカーテンを無造作に放り投げた。
そのまま、空いた両手で煙草を取り出し、火をつける。
途端に朱音が顔をしかめた。
「また煙草? …1日に何本吸ってるのかは知らないけど、そんなに無闇に吸ってると、マジで肺癌になるわよ」
「…、いちいち煩い…
俺がどんなふうに煙草を吸おうが、俺の勝手だろうが。
これ以上突っかかって来るなら、お前…出入り禁止にするぞ」
「!」
まだまだ反論の余地のある朱音ではあったが、冗談抜きでそうされてはたまらない。
朱音は不承不承黙り込むと、それでもちら、と懐音を見やる。
その視線に懐音が気付いた。
「何だ? まだ何か…」
「勝手にやろうとしたのはあたしが悪かったわ。ごめんなさい。
だから、今から断りを入れるから。
…これ、洗濯させて貰うからね?」
くい、と首で緋桜の抱えている大量のカーテンを指す。
「それのどこが断りなのか知らないが…
好きにしろ」
今更どうこう言っても、また諍いが始まり、柩と緋桜が疲れるだけだろうと判断した懐音は、開き直ったように答える。
すると朱音は顔を輝かせ、緋桜と共にカーテンを抱えながら部屋を出て行った。
…懐音と柩のみが残ったその部屋には、それまでにはあり得なかった平穏が訪れる。
「柩」
くわえ煙草で懐音が呟く。
それは本当に聞き取りにくい呟きではあったのだが、この懐音と以前から懇意にしている柩には、その声は聞こえていたらしく、柩がちらりと懐音へと視線を送った。
「何だ?」
「言わなくても分かっているだろう。
あいつをあまり甘やかすな」
懐音は、さも忌々しげに煙草を指の間へと挟み、嘆息気味に煙を吐く。
それに柩は、こちらも同様に、いやそれ以上に深く息をつくと、眉根を寄せながら、自分の思惑を、懐音に言って聞かせようと試みた。
「あのな、懐音…」
「黙れエセ死神。そもそもお前がいちいちあいつを庇わなければだな──」
そう半眼で呻くように諭そうとした懐音の耳に、次の瞬間に否が応にも聞こえて来たのは、その当の朱音の、未確認生命体のそれにも近い程に不可解な、驚きの声だった。
「…か、懐音懐音懐音懐音ー!」
「……」
瞬間、懐音の表情は、これ以上ない程の不機嫌なものへと一転する。
しかしそれにはまるで構わず、朱音は何故か荒くなったらしい息もそのままに、肩で息をしながら懐音へと言葉を紡いだ。
「!か、懐音… お、お隣さん…!
あのお隣さん、何!?」
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