「…お隣さん?」


柩が訝しげに眉根を寄せて尋ねると、朱音は壊れた人形のように、器用に首だけを連続で、がくがくと縦に振った。


「そう! あのね、さっきの大量のカーテン、今、洗濯機に放り込んで洗ってるところなんだけど、それ、やっぱり、今日中に全部干しきれないと困るじゃない」

「……」


それならそもそも洗うなと、先立って様々に忠告しておいたはずの懐音が、こめかみを疼かせながらも黙り込む。

それに朱音は気付いているのかいないのか、更に興奮気味にまくし立てた。


「…でね、庭だけじゃ追い付かなさそうだから、緋桜と二階のベランダに出て、どこにどの角度で干したらいいか考えてたの。

ここの家のベランダ、広い割に、スペースに変な癖があるしね。

そしたらその時、タイミングよくお隣さんが出てきたのよ!

男の人でさ、何だか凄く透き通った、綺麗な肌をしているなーと思って、思わず見とれてたら…

その人が…なんか、いきなり重力無くして目の前でコンニチハで」

「正確な日本語を喋れ」


途中までの意味は分かったものの、言うまでもなく最後の方は不明に近い。


結果、懐音は不愉快そうに顔を渋くする。

それはどこか柩の反応と似ていた。


「失礼ね、きっちり日本語話してるわよ!

だから聞いてるんじゃないの! あのお隣さん、何なのって!」


相当に興奮しているらしい朱音は、話そのものが既に振り出しに戻ったことにすら気付いていない。

懐音は嫌がらせに、これ以上ない程に深く長く息をつくと、煙草を持っていない方の手で、自らの髪を掴むような形で掻きながらも、朱音の問いに答えた。


「…あの二人のことか」

「え、“二人”? お隣さんって、二人で住んでるの?」


何がそれ程までに気に掛かるのかは分からないが、朱音は興味津々に懐音に食い下がる。

だが、それに懐音が気付かないはずもない。


「お前…何故、そんなにあいつらを気にかける?」

「だからー、重力無くして目の前でコンニチハって」

「それはもういい」


懐音は半眼のまま、即座に言い放つと、どこか呆れた表情もそのままに、再び煙草を口にした。



…くわえる。吸い込む… 離す。



その一連の煙草吸いの動作を終えた時、懐音の持つ雰囲気はいつの間にか、何かを企んだような狡猾なものへと変化していた。


しかし朱音の側は、全くそれに気付いていない。


「…懐音?」

「お前、ア…

いや、隣の奴に挨拶して貰ったんだろう?」

「うん」


朱音がすんなり頷く。

しかしここで懐音は、それだけでは留まらずに事の盲点を指摘した。


「挨拶返しはしたのか?」

「え?」


朱音が思い切りきょとんとしたままに問い返す。


「何だその顔は」


固まったまま、得体の知れない冷や汗を流す朱音に、懐音は容赦のない突っ込みを入れる。


「まさかお前、向こうが挨拶して来たというのに、お前の方からはしなかったのか?」

「!う"」


瞬間、朱音は思い切り口元を引きつらせた。

それを、もはやもう本日何度目かも分からない嘆息と共に見やった懐音は、残り少なくなった煙草を、強く灰皿に押し付けた。


傍らでは柩が、一言も発することなく二人の言動を窺っている。

その表情には、何故かかなりの疲労と諦めが入っていた。


…しかしこれによって、非常に居心地の悪いのは朱音だ。

その先程から流れる冷や汗は、もはや正体の分からない汁と化し、そのまま溶けてしまうのではないかと思う程に、だらだらと流れている。


それでも、こと、この二人と相対して、現状維持など何の意味も為さないことを充分に理解している朱音は、そのまま消え入りそうな声で、懐音に尋ねた。


「…やっぱり、失礼かな?」

「大いにな」

「お詫びして来た方がいい?」

「当然だ」

「懐音、ついて来てくれる?」

「ふざけるな。ひとりで行け」


「…ちょっと、懐音」


さすがにこのやり取りには、朱音の目が必要以上に据わる。


「確かにあたしに非があるのは認めるけど、あたし、お隣さんとは何の面識もないのよ?」

「挨拶されたと言わなかったか?」


素っ気ない返事に、朱音はいよいよムキになる。


「あんた、絶対わざと言わせてるでしょ!

だから、その件でちょっとしか面識ないのに、懐音んちのお隣さん宅に、あたしひとりで押しかける訳にもいかないじゃない!」

「だから、ふざけるなと言ったはずだ。

自分の不始末は自分でどうにかしろ。

ひとりで心細いというなら、緋桜でも連れて行け。

あいつは割と人当たりがいいからな」

「…自分は人当たりが悪いって、それなりにでも自覚してるみたいね」

「何だと?」

「いーえ別にっ」


朱音は、つんとした様相で外方を向く。

結果、懐音は、今度は自らの首の後ろに手を当てた。

…その銀白色の髪が、しなやかな指に触れる。


その様子はそれだけを見るなら、ほんの何気ない仕草でありながら、まるでカリスマモデルが仕事に集中している時さながらの色気が滲み出ている。


それに朱音は不覚にも目を奪われる。

初めに見た時から思っていたが、懐音の造形美は、常人の基準というものを遥かに越えている。


さらさらとした、艶のある銀白色の髪に、宝石のように透き通った灰色の瞳。

美女と見紛うばかりの美貌を持ち、そのスタイルも間違いなくモデル並みだ。


しかしそうは言えど、そんじょそこらのモデルなど、懐音を見れば青ざめるどころか真っ青になり、例えなどではなく、それこそ裸足で逃げ出すことだろう。


ただ、見た目にどれほど完全に見える人間にも、やはり欠陥とはあるもので…

これで口がまともでヘビースモーカーじゃなければ、外見だけでも充分過ぎる程の収入が見込めるはずなのに、と、朱音が心底から嘆息すると、その考えを薄々読んだらしい懐音が、ふと、朱音に疑惑の目を向けた。


それに、今だ柩の陰に隠れている朱音は、腹を悟られたのかとぎょっとする。

…まるで蛇に睨まれた蛙だ。


「…ひ、緋桜!」


結果的に朱音は、言うまでもなく緋桜に逃げた。

緋桜の方も、幼なじみという関係の長年の付き合いから、朱音のこのような性格は、既に嫌というほど分かっているので、こちらもまた仕方なく、嘆息気味に助け舟を出す。


「分かったよ、朱音。お隣さんの所だね?

付き合うよ。

でも、出かけるのは構わないけど、この洗濯物の山はどうするの?

これは今日中に洗いたいんだろう?」


その量が量だけに、出かけた後からでは、とてもじゃないが洗って干しきれないと危惧した緋桜の手から、その不安を取り除くかの如く、まさしくひったくるように全ての洗濯物を奪った朱音は…

あろうことか次の瞬間、それを全て柩に押し付けた。


これにはさすがに、このような事態を予測していなかった柩が驚き、唖然となる。


「!おい、朱音…」

「ごめん! 後はお願いね、柩!

この埋め合わせは必ずするから!」


先方の都合も訊かずに一方的に告げ、緋桜の手を取った朱音は、その勢いでそのまま部屋から飛び出した。


山と化した洗濯物を抱えさせられた、当の柩の手からは、引力に引かれたらしいカーテンが、数枚滑り落ちる。

…その一連のやり取りを見ていた懐音が呟いた。



「だから言っただろう、柩…

“あいつをあまり甘やかすな”と」

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