18

一点の曇りもないその美しい緋に、柩は再度、満足げに頷く。


「それでこそだな。“上条氷皇”」

「はい、有難うございます。…でも、それはもう俺の名前じゃありません。

愚かで、浅はかだった上条氷皇は…もう、どこにも居ないんですから」

「…そうか」


柩は目を閉じて笑んだ。

しかし、先程からこそこそとやり取りしているそんな二人の様子を、懐音が見逃すはずもない。


次には、まだ噛みつき足りないらしい朱音の頭を鷲掴みにすることで、その動きを一時ながらも止めると、懐音にしては低い声で言い捨てる。


「いい加減に黙れ」

「何よ、言い逃げする気!?」


この調子だと、朱音には、まだまだこってりたっぷりとした言い分があるようだ。

幼い頃からの付き合いで、それを既に充分過ぎるほど理解している緋桜は、それに仕方なく割って入った。


「…朱音、俺に免じて許してあげて。

懐音さんは…俺を生き返らせてくれたんだから」


朱音が気にするのを意識してか、“寿命を削ってまで”とは言わなかった緋桜に対して、柩は好感を持って微笑む。


すると、緋桜から制止されたことが効いたのか、朱音は渋々ながら懐音の手を下ろして黙り込んだ。

…掴まれたり引かれたりで、すっかり乱れた衣服を、不機嫌そうに直す懐音。

そんな懐音に、緋桜は意を決して話しかけた。


「あの…懐音さん。事情は柩さんから聞かせて頂きました。

今回…俺のことでは、本当にお手数をおかけしてしまって…」


あなたの命まで、と、思わず出かかった、声と感情を伴った気持ちに、緋桜は一瞬、辛そうに唇を噛む。


その様子から、恐らくは柩から、生き返らせるための『真実』を聞いたのだと確信した懐音は、表情を戻して緋桜を見やる。


…懐音にしてみれば、それは本当に普段通りの行動だったのだが、緋桜からすれば、それは酷く重く感じられるものだった。

結果、緋桜はますます唇を強く噛み締めると…

それでも次には、それを解き放った。


「…本当に…申し訳ありませんでした。

出来ることは限られてしまいますが、それでも、俺に出来ることなら、何でも…」

「そんな見返りを求める為に、俺はお前を生き返らせた訳じゃない」


案の定、懐音は冷めた一瞥と共にそれを突っぱね、つと、煙草とライターを取り出すと…

煙草に火をつけ、それを指の間でくゆらせた。



「せっかく生き返ったんだから、楽しめばいい。

それで充分だろう?」



「!…はい、有難うござ…」


懐音の言葉に心底から感謝し、礼を言おうとした緋桜の表情が、瞬間、固まった。

あろうことか、朱音がぎゅむ、と、懐音を押しのけ、緋桜に対して目を据わらせたからだ。


「…ちょっと緋桜、騙されちゃダメよ。

この俺様性格の懐音が、そんな思いやりのあること言う訳がないじゃない。

断言してもいいけど、絶対に腹に一物あるわよ!?」

「…、このバカ女…

一歩聞き間違えればセクハラ紛いの発言をするとは、随分とまたいい度胸だな。

会った時から思ってはいたが、お前って女は、俺のことを一体何だと──」

「!い、痛い痛い痛い!」


苛立った懐音は、空いている方の手で、朱音の耳を容赦なくつまみ上げる。


「誰が聞いても、“ごめんなさい、有難うございました”が先だろう。

謝ることすらろくに出来ないのか? このテンパり女」

「!…た、たた、いた…痛… 痛いって!

これじゃ、それこそろくに謝れないじゃない!

現状を見たって、明らかにあんたが手を離す方が先でしょう!?」


なおも耳をつまみ上げられて、朱音は痛さのあまり涙目で叫ぶ。

それを唖然としたまま眺めていた緋桜の口から、当然のごとく問いが漏れた。


「…柩さん… “懐音さんが恩を”… 何でしたっけ」

「…、前言撤回だな」


柩は眉を顰めながらも、跋の悪そうな表情で頭を掻く。

その前方では、相変わらずの懐音と朱音が、ガチンコ状態で睨み合っていた。


…するとその時、不意に、部屋の扉を勢い良く叩く音が響いた。


「──氷皇様! ご無事ですか!?

氷皇様っ!」


「もう目を覚ましたのか、あいつ。存外早かったな」


懐音は、そのようにさらりと言いつつも、朱音の耳を離して呑気に煙草をふかす。

それに緋桜は、何やら嫌な予感を覚え…

次には恐る恐るながらも、懐音に自らの疑問をぶつけていた。


「…あの…懐音さん、その口振り…

うちのSPに、一体何を…?」

「ここに入る時に、ウザいくらいに絡んで来たんでな。

…昏倒させて放置してきた」


にべもなくというか、はたまた、あっけらかんというか。

懐音はあっさりと白状すると、吸ったばかりの煙草の火を、指先で無造作に捻り消した。


その間にも、扉はやかましい程にどかどかと叩かれている。

それに、何より面倒事が嫌いな懐音は、瞬時に顔をしかめた。


「…逃げるぞ。面倒だと分かっている奴に関わる気はない」


…あの扉の叩き方。

室内の異常を感じ取ったのか、ノックにしては随分と乱暴で、荒々しい。


恐らくは数分もしないうちに破られる…、と、そう判断した懐音は、次には朱音と柩の腕を、逃がさないように強く掴んだ。



──その、次の瞬間。



「え? あ、ちょっ… 懐音ぇぇぇっ!?」


…何故、朱音の語尾が疑問符なのか。


懐音が、開いていた窓から、朱音と柩の体を容赦なく放り投げたからだ。

そして知っての通り、ここは一階ではない。



「いたいけな女の子を放り投げるなんてぇぇぇっ! 覚えてらっしゃいぃぃぃっ…」



朱音の、呪いに近い悲鳴は、その体が地に引かれるにつれて遠ざかっていく。


「…全く、懐音の奴…

心の準備くらいさせないでどうする?」


一方の柩は、朱音と共にいきなり空中に放り出されたというのに、その表情はいたって平然としたものだ。

次には空中で器用に体を動かすと、背中から地面に激突すると思われた朱音を、地上で受け止める。


その反動と、朱音の体重が柩の腕にまともにかかって、柩は一瞬だけ、苦痛に呻いた。


「…っ!」

「!…っ、た、助かったぁ… 有難う、柩…!」


朱音が、乱れた髪の下から柩を見上げる…

と同時に、未だ上に残る懐音を見据え、悪態をつく。


「後でこの御礼は、たぁぁっぷりとさせて貰うからねっ!」

「…いいからさっさと逃げろ、馬鹿」


下で喚いている朱音に、懐音は煩げに目を細めて呟く。

やがてゆるゆると戻されたその目を、懐音は今度は緋桜へと向けた。


「…緋桜、お前はどうする?」

「!え… 俺…ですか?」

「俺と一緒に来るか?」


懐音が、不敵な笑みを浮かべて緋桜に手を差し伸べる。

その様子には、扉を叩かれて焦っているという様子は、塵ほども見られない。


「あなたと、一緒に…? 構わないのですか?」


緋桜は差し出された手を、呆然としたまま見つめる。

すると懐音は、注意していなければ分からない程、微かに頷いた。


「そうでなければ、こんな対応を取ると思うか?

お前が真に、生き直したいと考えているのなら…

以降の生活は気にするな。お前の面倒は、俺が見てやる。

ついて来たければ、この手を取れ。…嫌なら振り払えばいい」

「!…い、嫌だなんてそんな…!」


緋桜は、躊躇うことなく懐音の手を取り、強く握りしめた。

…温かい、その手を。



「こちらからお願いしたいくらいです。

…お世話になります、懐音さん」

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