第93話「戻ってこいよ」
「明人……?」
「あの時、俺が選択を間違えてしまった事は今ならわかるよ。中学のチームメイトから逃げ、お前たちからも逃げた結果が今だ」
「だったら……」
「だけど、過去に戻る事はできない。漫画などでは簡単にやり直しが利く事でも、現実では不可能なんだ。もうやってしまった事は取り消せないし、なかった事にも出来ないんだよ」
明人君は優しく笑ったままトーンを変えずにそう話されました。
確かに過去に戻る事は現実では不可能です。
そしておそらく、今の明人君の言い方は漫画なら過去にたやすく戻れると言ってるのではなく、漫画なら簡単に過去の過ちを償ってもう一度やり直せると言いたいんだと思います。
彼はとても真面目で誠実な御方です。
そのせいか、自分の行動に対しては重く受け止めてしまいがちなところがあると私は思っていました。
他人の過ちなら許す事が出来るけれど、自分の過ちは許せない。
そういう御方です。
「しかし、過ちは償えるし、失敗は取り返せる。君がいつも僕たちに言っていた事じゃないか。どうして君はチームメイトのフォローはするのに自分の事になるとそんなにおざなりになるんだ? 自分を苦しめてなんの得がある?」
やはり、彼も私と同じ印象を明人君に抱いているようです。
「俺がしてしまった過ちは試合でのミスとは話が全然違うだろ。俺のせいで何人がサッカーを辞めたと思ってるんだ? 何人の才能ある奴等のキャリアに泥を塗った? 俺はチームメイトを裏切り、あんな恥さらしのような試合をさせて、挙げ句には彰に全治半年の大怪我までさせた。そんな俺が一人のうのうとサッカーをする事を誰が許すんだ?」
笑顔でそう言った明人君の瞳からは涙が流れ始めました。
きっと、ずっと胸の中で抱えていらっしゃったのでしょう。
私はそんな彼を見ていて胸が張り裂けそうな感覚に襲われました。
そして、自分の事を情けなく感じます。
私は、明人君はとても素晴らしい御方で、周りの事にも気を配る事が出来、一人でなんでも出来てしまうような御方だと思いこんでおりました。
自分の事は後回しにして周りの方のために動かれる、優しくて素敵な御方。
そんな表の面しか見ておらず、彼が抱えていた苦悩に気が付く事すら出来ておりませんでした。
いったい私は彼の何を見ていたのでしょうか。
本当に、自分が情けなくなります。
「あれは……何も、明人だけのせいじゃないだろ? チームが君に依存しすぎていたんだ。だから君がいなくなっただけで、あんなにも取り乱してしまった。彰にしても、不利な状況をどうにかしようと無理なプレーをしてしまったのが原因だし、その際に熱くなっていたうちの選手が下手な突っ込みをしたせいで怪我をさせた。そんな事まで君のせいにしてしまっては……」
明人君の涙を見て、お話をされている彼は動揺しながらも声を抑えられたようです。
凄く明人君に気を遣っているのがわかり、怒りで荒っぽい事をしてしまっても本当はお優しい御方なのだとわかりました。
しかし、そんな彼の言葉と想いは今の明人君に届きません。
「だけど、俺がいなかったからみんなに激しい動揺が生まれたのには変わりない。司令塔が試合当日にチームを去れば当然の反応なんだよ。そして、俺がいれば彰にあんなプレーをさせる事はなかったし、チームに変な動揺が生まれずに彰があんな無茶なプレーをする事も絶対になかった。だから、全て俺のせいなんだよ」
明人君は話している間も笑顔をやめません。
優しく微笑んでいるように見えた笑顔は、今ではもう力がない笑みに見えてしまいます。
そして、目から溢れる涙も止まらないようでした。
というよりも、もしかしたら明人君は自分が泣いている事に気が付いていないのかもしれません。
それだけ今の笑顔が無気力に見えます。
私は話を聞きながら今の彼を見ていますと、自分も涙が溢れてきそうになりました。
「だから君はチームに戻らなかったのか? 大会が終われば戻る事は許されていたんだろ?」
「さっきも言っただろ、いったいどの面を下げて戻ればいいんだよ。みんな俺の事を恨んでいたんだぞ? それに――」
明人君は何かを言いかけて、ハッとしたように口を閉じてしまいました。
何かよくない事を言おうとしたのかもしれません。
「それに、なんなんだよ?」
「いや、お前に話す事じゃない……」
「――っ! 君はすぐにそうやって自分の事になると周りに壁を作る! 本当は周りを見下してるんじゃないのか!? だから周りが困れば手を差し伸べるけど、自分が困った時には周りに気付かれないように虚勢を張るんだろ! 相談しても無駄だと思いこんでいるからそんな事をするんじゃないのか!?」
一度は明人君の態度によって落ち着きかけた彼でしたが、明人君の言葉を聞いてまた怒り始めてしまいました。
明人君が他の方を見下されるはずがありません。
周りに心配や迷惑をかけないように強がっておられるだけなのです。
彼は明人君に好意を寄せられていたようなのでそんな事はわかっているはずなのに、こんな事を言ってしまうくらいに冷静をかいているようです。
――しかし、そんな彼の態度が明人君には響いたのかもしれません。
「あの時にはもう、
明人君は右手で額を押さえ、苦しそうにそう漏らしました。
「だからもうサッカーをやる意味を見出せなかったと?」
「…………」
彼の質問に対し、明人君は黙り込んで目を逸らしてしまいます。
図星、だったのでしょう。
明人君と大和撫子さんの間に何があったのか、その頃いなかった私にはわかりません。
しかし、とても深い仲だったという事はわかりました。
大和撫子さんを喜ばせたいためだけに彼がサッカーをやっていたというのが、その証拠でしょう。
だめ、ですね……。
こんな時だというのに、私は大和撫子さんに嫉妬をしてしまっているみたいです。
「……明人、僕は君がサッカーをやっていた理由に関しては何も言わない。見損なったとか、そんな気持ちも抱いていない」
私が自分の暗い気持ちを自覚した時、反対に怒っていた彼は息を吐いて声を落ち着けてしまいました。
そして、少しだけ優しい声を出されます。
逆に明人君は、少し驚いた表情をされました。
「驚いたな、お前なら絶対に言ってくると思ったが」
「君のプレーしていた頃の表情を知っているからさ。一緒にサッカーをしていた時の君は、確かにサッカーを楽しんでいた。そして、誰よりもサッカーと向き合っていた。その姿を見ていたからこそ、僕たちは君に付いて行ってたんだ。じゃないと、あんなにも我が強いチームメイトたちが一つにまとまるわけがないだろ? 知ってるか、君がいなくなった後監督たちは随分と手を焼いていたんだぞ?」
そして、彼は冗談を言うかのように笑みを浮かべて肩を竦めました。
情緒不安定、としか言いようのない彼ですが、おそらく彼自身の中で葛藤が生まれているんだと思います。
明人君に対する怒りと、明人君に憧れを抱いていた想い――そして、今の明人君と話す事によって、色々な感情が沸き整理がつかないんだと思います。
だから言葉によってコロコロと感情が変わってしまうのでしょう。
しかし、完全に気持ちが切り替わっていない事もわかります。
うまくは言えませんが、なんとなく見ていて今彼は自分の怒りを抑えようとしているように見えたのです。
「知ってるさ、彰から聞いていたからな。俺が抜けた後お前がチームをまとめてくれたらしいな。ありがとう」
「礼を言うんだったら、態度で示してほしいものだね」
「俺にどうしろと?」
「もう昔の事に関してはとやかく言わない。君が言うようにもう昔の事だし、掘り返したところで何もならない事もわかってる」
「散々言ってきたくせに今更それはないだろ……」
「だけど、だったら君もいい加減に前を向いてくれよ。君がサッカーをやらないという選択は罰じゃなく逃げだ」
明人君が苦笑いをしながら漏らした苦言は、あっさりとスルーされてしまいました。
そしてその代わりに、遠回しで明人君に誘いをかけられたようです。
どうやら彼は、どうしても明人君にサッカーをやってほしいみたいです。
話を聞く限り明人君に憧れを抱いているようですし、それも仕方がないのかもしれませんが……こんな、責めるような言い方をする事が正しいとは私は思えませんでした。
「逃げ、か……。そうだな、さっきも言った通り俺はお前らから逃げたんだよ」
「わかってるなら早いね。君が本当に償いをする気があるなら、戻ってこいよ明人。君がした事はサッカーでこそ償える」
「それは違うだろ。俺がサッカーをやる事なんて誰も許さない」
「いいや、少なくとも今逃げている君よりは償いになると思うね。君は昔言ってたよな、彰の本来の力を引き出せればどんな固い壁だろうと崩す事ができるって」
どうして急に西園寺君の話になったのかはわかりませんが、明人君は西園寺君の事を凄く買っておられます。
明人君は西園寺君と仲が凄くいいので、贔屓目がないとは言い切れません。
しかし、彼の人を見る目は凄いので、断言されたという事はやはりそれだけの確信があるんだと思います。
「言ったな。事実、あいつは鉄壁と呼ばれたディフェンスからいくつも点を取ってきた。少なくとも俺は、あいつは日本代表には欠かせない人間だと思ってるよ」
やはり明人君は西園寺君の事を高く評価されております。
西園寺君の話をする明人君の瞳には力強い意志を感じました。
しかし――。
「だけど、君が引退してすぐに彰は代表を外された」
彼の言葉を聞いた瞬間、明人君は苦虫を噛み潰したような表情をされました。
あれ……?
今気が付いたのですが、明人君はいつの間にか力のない笑みをやめておられました。
話している間に活力が戻ったのでしょうか……?
「それは全治半年もの怪我をしたからだろうが……」
「いいや、違うね。本当はわかってるんだろ? 僕たちが一緒にプレーをしていた頃、彰の動きに合わせられる人間は君しかいなかった。その君がいなくなったら必然彰も力を出す事ができず、力不足として監督たちは外したんだ」
「…………」
「無言の肯定、か。さすがに高校にもなれば彰に合わせられるパサーは出てきたから彰も再び代表に召集されるようになったけれど、正直今の彼が全力を出せていると僕には思えない」
「だから、俺に戻って来いと……?」
「そうさ、彼の力が必要だというのなら、その全力を引き出せる君がいなくてどうする。ましてや、君がいればチームのレベルは確実に数段あがる。そうなれば僕たちはまた、世界と戦えるんだ」
どうやら彼は本当に明人君の実力を買われているようです。
テレビで言われていた事ですが、確か彼は十年に一人の天才といわれるほどの実力を持たれている御方です。
そのような御方が、まるで明人君に縋ろうとしているようでした。
何か訳ありなのかもしれません。
「なるほどな、お前が俺の後を付いてきた本当の理由はそれか……。確かに昔とは違い、ここ最近海外勢に連敗を重ねているようだな。だから焦りを抱き、過去の幻影に縋ってきたわけか」
「言っとくけど、挑発に乗る気はないよ?」
挑発に乗る気はないとの事ですが、散々明人君にお怒りになられていたような気がします……。
それに今も、言葉とは反対に目が凄く怒っていらっしゃるようなのですが……?
明人君も明人君でわざと怒らせる言葉を選んでいるようなので、それも仕方がありませんが……。
ただ、明人君が本気でこんな事を思っているわけではないという事は、私にはすぐにわかりました。
なんせ、先程の言葉を言う際に明人君の目は一瞬だけ申し訳なさそうに彼から視線を外したのですから。
相手を傷つける事を直視出来ない、彼の優しさの表れです。
ですから、学校で彼をずっと見続けていた私には、彼がわざと嫌われようとしているんだとすぐにわかりました。
「そんな他人に縋ってるような奴がエースストライカーのチームが勝てるわけがないだろ。もっと現実を見ろよ」
しかし、明人君も引くわけにはいかないようで、まだ相手を傷つける言葉を選んで使います。
本当は言いたくないはずなのに、どうしてここまでされるのか。
学校での行動と同じく、周りのための行動なのでしょうが……本当に、見ていて辛いです。
「君がどう言おうと、君は代表に必要な人間なんだ」
「俺には二年のブランクがある。仮に昔はお前の言うような力があったとしても、今はもうあの時の感覚はないんだ。そんな俺が代表で通じるかよ」
「そんなの取り戻せばいいじゃないか。君なら一年もあれば十分だろ?」
「簡単に言ってくれるな……。漫画じゃないんだぞ? 二年のブランクは大きすぎる。あの頃に比べてお前たちに大分実力を離されているんだ。お前ならわかるだろ?」
「誰に言ってるんだ、君は? 今僕が戦っているステージはどこだと思う? オリンピック代表やJリーグの1部だぞ? 何歳も離れた年上と戦っているんだ、年数が実力に関わらない事は身をもって知っているぞ? それなのに君はプレー期間を言い訳に使うのか?」
確かに彼の言う通り、彼は時に倍以上になる年上の方と戦われております。
この事に関しては失言だったと明人君も思われたようで、眉を顰めてしまいました。
「確かに君が言うように僕たちは世界のトップクラスとは戦えなくなってしまっている。だけど、そんな時に君が現れてチームを勝利に導けばどうだ? 皆、君の事を称えるだろう。そして、日本サッカーに大きく貢献した君の事を過去のチームメイトたちは自慢げに周りへ話すだろうさ。人間、そういうところは単純なんだ。君はダシにされる事は嫌いだろうけど、それが罰だと受け入れればいい。少なくとも、こんなところでくすぶっている君よりも彼らのためになる」
「…………」
そう言われた明人君は、目を閉じて考え込み始めます。
本当にそうなのかどうかをお考えになられているのでしょう。
正直言いますと、元々その舞台にいたというのであれば、彼なら本当に一年くらいで代表にまで上りつめてしまうと思います。
彼はやるとなればストイックと呼べるほどに努力をするタイプでしょうからね。
そうなりますと一緒にいられる時間が減ってしまい、私は寂しくなってしまいます。
ですが、明人君が望まれるのであれば私は精一杯応援させて頂こうと思います。
やはり私としましても明人君にはやりたいようにやって頂きたいですからね。
そんな彼を私は応援したいのです。
しかし、望まれないのであれば無理してほしくございません。
そして、おそらく彼は――。
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