第84話「薄い本とおしおき」 

『――さて、言い訳はあるかな?』


 お母さんは私を椅子に座らせると、寝ているエマを抱っこしながらとても素敵な笑顔で尋ねてきました。

 私にはその笑顔が悪魔の笑顔にしか見えません。


『ありません…………』

『彼氏ができて嬉しいのはわかるし、お隣さんだから気軽に行けるのもわかるけど、ちゃんと線引をしないとだめだよ? 君たちは恋人であって、婚約者ではないのだから』

『でも、将来的には……結婚……』


『彼にその気持ちがあるの? これが体目当てとかだったら――』

『――っ! そんな事ないよ! 明人君はそんな人じゃないから!』


 おとなしく怒られようと思っていた私ですが、明人君の事を侮辱されたので咄嗟に言い返してしまいました。

 例えお母さんであっても明人君の事を悪く言う事は許しません。


 いえ、お母さんだからこそ、より許せないのです。


『……あのね、シャーロット。君、実際あの子・・・の事をどれだけ知ってるの?』

『えっ……?』


 不意を突くようにされた思わぬ質問に対し、お母さんに怒りを感じていた私は戸惑ってしまいます。

 すると、お母さんは畳み掛けてきました。


『生まれは? 育ちは? どういうふうに今まで生きてきたのか、君はちゃんと知っているの?』

『それは……今の彼に、関係ない事だし……』

『つまり、教えてもらえてないんだよね? 隠したい過去があるのか、君が信用されていないのか――そういう事、考えないの?』

『――っ! なんでそんなに酷い事ばかり言うの!? 人の過去を詮索するのはよくないから私が聞かないだけだし、明人君もわざわざそういう不幸自慢をするような人じゃ――!』

『ふ〜ん、不幸があった事は知ってるんだ? だから何が出てくるかわからず、踏み込めないでいるんだね?』

『――っ!』


 図星を突かれた私は、思わず息を呑んでしまいました。

 しかし、すぐに反論すべく口を開きます。


『お、お母さんは何も知らないのに……!』

『そうね、何も知らない。だって、あの子とは話した事がないからね』

『だったらそんな酷い事を言わないで!』

『でも、だからといって君が知らなくていい理由にはならないよね?』

『――っ! 別にいいもん! 私たち今のままで十分に幸せだし、明人君が私に知られたくないんだったら私は詮索しない! だって、私は明人君を信じてるから!』


 虚勢、と言われればそうなのかもしれません。

 本当は心の底で思っていました。

 彼の事をもっと知りたいのに、彼の過去を聞くのが怖い……と。


 お母さんの言う通り、明人君の過去を少し知っただけで私はこれ以上踏み込む事を躊躇してしまったのです。


 私が知ろうとする事は彼を傷つけてしまうのではないか、と。

 思い出したくない過去を私のせいで思い出してしまうのではないかと思ったのです。

 ですから、昨日の朝に教えて頂いて以来、私はもう彼の過去については聞かない事を心に決めてしまいました。


 その事を指摘された私は、怒っていた事もあってつい反発してしまったのです。


『……一つ、お母さんが助言をしてあげる。相手の過去を知るのは、何も疑うためだけじゃないの。今と過去は切り離せない。だからこそ、相手の過去は知っておいて・・・・・・あげないと・・・・・だめなんだよ』


 お母さんは少しだけ私の顔を見つめてきた後、なぜか子供に言い聞かせるような優しい声で言ってこられました。

 しかし、今の私には――お母さんが、過去の事を持ち出して明人君を否定しているように聞こえてしまったのです。


『別に明人君にどんな過去があったって私が好きなのは今の彼! だからこの気持ちは――』

『――君がこの言葉を理解できないのなら、いつか取り返しのつかない事が起きるよ』


 それは、空気を凍らせるようなとても冷たい声でした。

 般若よりも怖くなるお母さんでさえ出した事がない、とても冷たくて怖い声。

 まるで体の芯を凍らせるような声に、私は若干怯えながらお母さんの顔を見つめてしまいます。


 すると、お母さんはニコッと笑みを浮かべてきました。


『お母さんができる助言はここまで』

『お母さん……?』


 戸惑う私に対してなぜかお母さんは背を向け、エマを抱っこしたまま玄関に歩いて行ってしまいます。

 すると、まるで示し合わせたかのようにインターホンが鳴りました。


『――お迎えにあがりました、ベネット社長・・


 お母さんがドアを開けると、なぜか先程のメイドさんが頭を下げられました。

 どうやらお母さんをお迎えにこられたようなのですが、どうして彼女がお母さんをお迎えにこられたのでしょう?


 それに――社長、とはどういう事でしょうか……?

 日本に来る前にお母さんから聞いていたお話と違います、よね……?


『あの、お母さん……?』

『ごめんね、ロッティー。いつか話せるようになったらちゃんと話してあげるから、それまで待ってて。それよりも君は、今話さないといけない人とちゃんと話しておいで』


 お母さんは私の呼び方を戻した後、ニコッと優しい笑みを浮かべになりました。

 今話さないといけない人――それはおそらく、明人君の事を言っているのでしょう。

 もしかしたらエマを連れて行こうとしているのは、私たちを二人きりにしてくれようとしているのかもしれません。


『お母さんはこれからどこに行くの……?』

『日本に来てからずっとしてた、大切な商談の続きをしに行くの。……でも、それも今日で終わらせるけどね』


 昨日から家にずっといたので今日もお仕事がお休みだと思っていましたのに、お母さんはこれからお仕事に向かわれるようです。

 しかし、どうしてメイドさんと一緒に行かれるのでしょうか?

 そして、商談にエマを連れ行くのはどうかと思うのですが、メイドさんも止める気配がありません。

 色々とおかしい気がしますが……多分これは、ツッコんではいけない事なのでしょうね。


 私も明人君とはまだお話ししたい事がたくさんありますので、二人きりにして頂けるのは有難い限りです。


『うん、わかったよ。いってらっしゃい、お母さん』

『行ってきます』


 私が笑顔で送り出すと、お母さんも笑顔で頷かれました。

 お母さんはそのまま部屋を出て行こうとして――なぜか、何かを思い出したかのように足を止められます。

 そして、私のほうを振り返ったと思いましたら、またニコッと笑いかけてきました。


 なぜでしょう、先程と違ってとても嫌な予感がします。


『――そうそう、君がお部屋にたくさん隠し持ってる薄い本みたいな事は、したらだめだよ? あの子が求めているのはそういうのじゃないから』


 一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。

 しかし、言葉の意味を理解すると顔が凄く熱くなってしまいます。


『お、お母さん!?  なんで!?  なんで知ってるの!?』

『し~らない』


 ニコニコと楽しそうに笑うお母さん。


 あ、悪魔です!

 やっぱりお母さんは悪魔です……!


『ベネット社長……意外と鬼ですね……』

『やっぱりおしおきはしないとだめだからね。次からは隠すならもう少しうまく隠すんだよ、ロッティー』


 苦笑いをするメイドさんに素敵な笑顔で答えるお母さん。

 そして、私に再度ニヤニヤとした笑顔を向けて手を振ってきました。


 そんなお母さんに対して、秘密を暴露された私は――。


『お母さんのばかぁあああああ!』


 と、大声で叫んでしまうのでした。

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