第2章『支え合う二人』

第76話「天使のようなお姉さん」

「――君は、いつも泣いてるんだね?」


 声が聞こえて顔をあげると、真っ白な空間の中で優しい笑みを浮かべる女性が俺の顔を見下ろしていた。

 見たこともない銀色の髪と可憐な容姿、そして不思議な雰囲気を纏うお姉さんを見て俺は思わず口を開く。


「てんしさん……?」

「あらあら、幼いのに口が上手だね、君は」


 俺の言葉を聞いたお姉さんは一瞬驚いた表情をした後、とても優しく――そして、かわいらしくて人懐っこい笑みを浮かべた。

 この時俺の中では本当に天使さんじゃないかと思ったくらいだ。


「6歳くらいかな? もう日が暮れるのに一人でいると危ないよ?」


 お姉さんは泣いてる俺に対して何があったのかは聞かない。

 ベンチで膝を抱えて座る俺の横に座り、優しく頭を撫でてきながら諭すように一人でいることを注意してきた。


「かえりたくない……」

「お家、嫌いなのかな?」

「みんなきらい……」

「どうしてそんなことを言うの?」

「…………」

「そっか、言いたくないなら言わなくていいよ」


 それからお姉さんは何も聞いてこず、施設の人が迎えに来るまで優しく俺の頭を撫で続けてくれた。


 きっと、施設の人が来たことでお姉さんには俺が孤児院の子供だということがわかったのだろう。

 お姉さんはその日以来毎日のように俺の元を訪れた。

 そして何も聞いてこず、俺が寝るまでずっと優しく頭を撫でてくれていた。

 

 後に施設の人から聞いたことだけど、俺のことはお姉さんが施設に届けるから好きにさせてほしいと話をつけていたらしい。

 普通なら安全性などを考えてそんな話は通らないはずだけど、お姉さんは施設の人が信頼するほどの人だったのだろう。


 お姉さんがどうしてそうまでしてこんなことをしてくれるのかはわからなかったが、俺はこの時初めて誰かの温かみを感じていたと思う。


 施設の人も一応優しくはしてくれていたけれど、可哀想なものを見るような同情した目が嫌いだった。

 何より、俺をいじめてきた奴らを返り討ちにして泣かせてやった時なんて、怒鳴り込んできた親たちに謝るだけで俺を守ってくれなかった。


 それどころか、俺の言葉を信じてくれずに悪いのは俺だと言い相手側に付いたくらいだ。


 それ以来俺は反撃も許されず、ただやられるしかなかった。

 もう俺にとって周りに信頼できる大人はおらず、全員敵にしか見えなかったくらいだ。

 お姉さんと出会ったのはその頃だった。


 やがて一週間くらい経った頃、俺にとってお姉さんは信頼できる人になっていた。

 何も聞かずに優しく頭を撫でくれて、ずっと傍にいてくれるお姉さんに温もりを感じていたんだ。

 だから、自分の置かれている状況を全てお姉さんには話したんだと思う。


 お姉さんは黙ってそれを聞き続けてくれて、その後に俺に道を示してくれた。

 それが、勉強やスポーツで誰にも負けない人間になれということだった。


 結構無茶苦茶なことを言われてると思ったけれど、お姉さんはただ言うだけではなく、ちゃんと勉強も運動も付き合ってくれた。

 だから俺は頑張れたんだと思う。


 ――だけど、そんな関係もいつまでもは続かなかった。

 一年ほど経った頃、お姉さんが帰国しないといけない日が来たのだ。


「おねえちゃん、いなくなるんだ」


 俺はこの言葉をどんな表情で言ったのかはわからない。

 ただ、俺の言葉を聞いたお姉さんはとても辛そうな表情をしていた。

 その表情を見て自分が言ったことが駄目なことだったと理解した俺は、幼いながらに慌てて取り繕って誤魔化す。

 すると、そんな俺に対してお姉さんは優しい笑みを浮かべて頭に手を伸ばしてきた。


「また、日本には戻って来るね。その時は家族と一緒に来るから、今度は一緒に暮らそ?」

「ほんと?」

「うん、だから明人君はそれまで誰かに嫌なことされても負けたら駄目だよ? がんばって、素敵な男の子になっててね。約束だよ?」


 そして俺はお姉さんと指切りをして別れた。

 他の大人は信じてなかったけれど、お姉さんなら約束を守ってくれると信じていた。


 ――それが、ありえないことだと本当は分かっていながらも。


 結局、お姉さんが俺の前に再び現れることはなかった。

 やはり幼い子供を慰める言葉でしかなかったのだろう。


 別にお姉さんのことを恨んではいない。

 こんな俺なんかの傍にずっといてくれたんだから感謝はすれど、恨むなんてお門違いだ。

 だから今でも俺にとってお姉さんは憧れの女性だった。 


 …………だけど――結局、生まれてから中学までずっと俺の人生は裏切られてばかりなんだよな。



          ◆



「――君、青柳君、起きてください、青柳君」


 誰かに体を優しく揺らされ、俺はゆっくりと意識が覚醒する。

 そして目を開けた俺は、懐かしい顔を目にして思わず笑みを浮かべてしまった。


 なんだかホッとした気分だ。

 やっぱり、お姉さんは他の大人とは違った。


「お姉さん、ずっと待ってた……」

「えっ!?」


 しかし、俺の言葉を聞いたお姉さんはとても驚いた表情をした。

 そして戸惑ったように左右を見た後、困ったような笑みを浮かべて口を開く。


「青柳君、寝ぼけてます……よね?」

「えっ……? あっ……シャーロット、さん……」


 段々と意識がはっきりとしてきた俺は、自分の目の前にいる女性が誰かを認識する。

 先程までお姉さんだと思っていた相手はシャーロットさんだったらしい。


「ごめん、いつの間にか寝てたみたいだ……」


 どうやら俺はシャーロットさんがシャワーを浴びに帰った後に寝ていたようだ。

 そのせいで寝ぼけてしまったんだろう。

 そんな俺を前にしてシャーロットさんはとても優しい笑みを浮かべた。


「いえいえ、大丈夫です。ただ、お布団で寝ないとお体に悪いので起こさせて頂きました」

「そっか、ありがとう……」


 俺はまだ若干霧がかかったような意識の状態でシャーロットさんにお礼を言う。

 さすがに起きたばかりだと完全に目が覚めるにはまだ時間がかかるらしい。


 しかしいくら似ているとはいえ、シャーロットさんとお姉さんを間違えるだなんてどちらにも失礼なことだ。


 それに今日は付き合い始めた日なのに、結構歳が離れているとはいえ他の女性のことを持ち出したのも駄目だろう。

 シャーロットさんは気にした様子がないけど、あまりこんなことばかりしていたら幻滅されてもおかしくない。


「お布団でお寝になりますか?」

「いや、まだシャワーも浴びてないし、確か話したいことがあるんだよね?」


 シャーロットさんはシャワーを浴びに帰る前に、戻ってきたら今後のことについて話したいと言っていた。

 だからその話題を持ち出したのだけど、なぜかシャーロットさんは途端に照れ始めてしまう。


「そ、それはそうなのですが……今日でなくても大丈夫なことですので……」


 指先を合わせてモジモジとするシャーロットさん。

 顔も赤く染めているし、見ているだけでとても幸せな気持ちになった。


「大丈夫だよ。それに、明日に回してしまうとまた二人きりで話す時間は中々取れないかもしれないし」


 俺はシャーロットさんにそう言いながら視線を腕の中へと向ける。

 するとそこには、俺にしがみつくようにして寝ているエマちゃんがいた。

 泣き疲れたかの俺たちが話していても起きる様子はない。

 眠るまでは凄く暴れていたし、今日はもう起きないのだろう。


「私、最低な姉ですよね……」


 エマちゃんの様子を見て、シャーロットさんは表情を曇らせてしまう。

 彼女がこんな表情をするのと、エマちゃんが泣き疲れるほどに泣いてしまったことには繋がりがある。


 それは、俺たちがデートから帰ってきた時のことだ。

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