第20話「後輩との時間」

 ――外が暗闇に包まれた頃、俺は亜紀の家で家庭教師のアルバイトをしていた。


「今日はこれくらいにしておこうか」

「はい、先輩。今日もありがとうございました」


 終わりの旨を伝えると、椅子に座っている亜紀が人懐っこい笑みを浮かべてお礼を言ってきた。

 亜紀は頭がよくて物覚えがいいだけでなく、とても素直でいい子だ。

 勉強を教える生徒としては理想的な子だろう。


「この分ならうちの学校には九割方受かるだろうな」


 亜紀が行きたい学校は俺が通ってる学校らしい。

 だから、志望校の入試を経験している俺に家庭教師を頼んできた。


「絶対とは言ってくれないんですね?」

「当たり前だ。この世に絶対なんてものはないんだからな」


 正直亜紀の学力なら当日体調を崩さない限りはまず間違いなく受かるだろう。

 俺が通う学校は県内でも中堅だ。


《岡山五校》と呼ばれる、県内で上位五つの学校のどれを受けても余裕で入れる亜紀なら、うちの学校を受けて落ちるはずがない。

 しかし、甘く見れば足元をすくわれる可能性があるし、絶対受かると言って落ちた場合俺に責任を取る事は無理だ。


 もし落ちた時には辛い思いをするのは俺ではなく亜紀なのだから、あまり調子のいい事を言うべきではない。

 だがそれでも、亜紀のためを考えると言いたい事はある。


「それよりも本当にいいのか? 亜紀の学力なら旭丘あさひがおか高校を受けたほうがいいと思うんだけどな」


 俺は県内で一番偏差値が高い学校を亜紀に勧める。

 将来の事を考えるなら少しでもいい高校に進んでおくべきだ。

 亜紀なら旭丘高校でも上位に入れるだろうし、わざわざ中堅校に通う意味がないと思う。


「いいんです。私は先輩と同じ瀬戸山高校に通いたいんですから」


 俺の発言をどう捉えたのか、亜紀は頬を膨らませながら自分の希望を言ってきた。

 容姿だけではなく中身までも子供っぽいが、それが亜紀のかわいいところでもある。


「うちの学校が悪いと言うわけではないが、もったいないと思うんだよ」

「むぅ……いいじゃないですか、私がどこを受けようと私の勝手なんですから。それに他の人に言われるならともかく、先輩にだけは言われたくないです」

「それを言われると反論しづらいが……」


 亜紀が俺にだけは言われたくない理由。

 それは、当時担任だった先生の反対を押し切ってまで、俺が旭丘高校を受けなかったからだ。


 別に先生方に反発したくて受けなかったわけではない。

 必要だからこちらの高校に進んだだけだ。


「私だって私なりにやりたい事があって瀬戸山高校を受験するって決めたんです。例え先輩が相手だとしても、これだけは譲れません」


 そう言う亜紀の目にはしっかりとした意思が宿っていた。

 意気地になっているわけではなく、ちゃんと自分が正しいと思って言っている。

 だったら、もうこれ以上俺に言える事はない。


「――さ、先輩。それよりも食事にしましょう。私、今日も先輩のために腕によりをかけて料理を作りますので」


 強引に話を打ち切るようにして、亜紀は椅子から立ち上がった。

 亜紀は優しい分、揉め事を人一倍嫌うからな。

 別に言い合いになるわけではなかったが、その片鱗ができる前に話を切りたかったのだろう。


「あぁそうだな。楽しみにしてるよ」

「はい!」


 俺も亜紀の言葉に乗らせてもらった。

 進路の話なんて他人があまり言っていい事ではないし、受験生の亜紀は耳にたこができるくらい普段から言われている事だろうからな。

 それに亜紀の手料理はとてもおいしい。

 お腹も空いたし、早く亜紀の手料理が食べたかったというのもある。


「――あっ」

「ん、どうした?」


 部屋を出ようとした亜紀が、急になぜか立ち止まって固まってしまった。

 よくわからないが、困ったような表情を浮かべて俺のほうを振り返る。

 そして、ガバッと頭を下げた。


「ごめんなさい先輩! 今日ギリギリまで学校にいて慌てて帰ってきたので、買い物出来てないんです! 今から急いで食材買ってきます!」

「なんだ、そんな事か。いいよ、それだったら一緒に買いに行こっか」


 あまりにも焦った表情を浮かべるものだから何事かと思ったが、ただ食材が買えてなかっただけのようだ。

 別に焦る必要なんて全然ない。


「いいんですか?」

「あぁ、もう外は暗いんだから亜紀一人で行かせるわけにはいかないだろ? 美優先生もまだ帰ってきていないんだしな」


 美優先生は業務があるそうで、今日は遅くなると亜紀に連絡していたらしい。

 いつ帰ってくるかもわからないため、帰りに食材を買ってきてもらうよりは亜紀と一緒に買い物に行ったほうがいいだろう。


「あ、ありがとうございます。…………えへへ、先輩とお買い物デートだぁ」


 俺の言葉を聞いた亜紀はなぜか頬を赤くしてお礼を言ってきた。

 後半は小さく呟いていたため聞き取れなかったが、熱でもあるんじゃないかと俺は心配になる。

 だけどどこか嬉しそうで、鼻歌まで歌い始めたので問題はないのかもしれない。

 ちょっと変だなと思いながらも、俺は一旦様子見する事にするのだった。

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