ショートケーキ

松藤四十弐

ショートケーキ

 彼女は今にも折れそうな煙管を取り出した。それは昨晩、僕が持ち上げた彼女の脚に似ていた。

 ホテルから2ブロック東にある川沿いのカフェは少し肌寒く、ベッドの中がまだ恋しかった。

「いくらだっけ」

 ウエイターがメニューを置いて去ると、彼女も煙管を灰皿に置き、バッグから財布を取り出した。

 僕は指を三本上げて、値段を示した。満足させられたか不安で、いつもより薬指と小指分少なかった。

「無理しなくていいよ? もっと欲しいでしょ?」

「いいえ、十分です。……十分だと思いませんか?」

「分からない。相場を知らないから。……好きな人でもないのに、するのって疲れないの?」

「疲れるときもあります。でも、悩むことはありませんよ。逆に大丈夫ですか?」

「私は何もしてないから」

 そう言って、彼女はお札を3枚くれた。そして煙管に葉を詰め、マッチで火を付けた。一息吸うと、少し間を置いてから煙を吐いた。煙は通路に消えていった。

 僕は彼女の顔を隅々まで見た。ショートボブの髪型。目元に小さいほくろ。40代か50代前半か、そのくらいの肌。それでもきれいで、顔を撫でたいと思わせた。昨日と同じ少しだけ派手な口紅が、煙管の吸い口に付いている。

「でも、気がひけるからブランチくらいは私が払うよ。好きなもの食べて」

 僕はお言葉に甘えて、メニューを開いた。

ベーコンエッグとトースト。違う。サラダとハムサンド。コンソメスープ。違う。

「何でもいいんですか?」

「何でも。私は、サラダとオムレツにするから」

 僕は彼女の目を見て、もう一度メニューに目を落とした。塩味より、甘味が欲しかった。

「ショートケーキでもいいですか?」

「昼前から?」

「昼前から」ダメだろうか。「ダメです?」

「それ以外でお願いしたいかな」

「じゃあ、やめときます。パンケーキにします」

 僕がメニューを閉じると、ウエイターがやってきて注文をとった。彼女はコーヒーを、僕は炭酸水を追加した。

 事の終わりと同じく僕たちは黙っていた。それは彼女が望んでいたことで、彼女はただ煙を弄んでいるだけだった。肌を合わせている最中とは違う。そのギャップに少し興奮している自分に驚いたが、口には出さなかった。でも我慢できなくなり、代わりに自分の話をしてみることにした。

「僕がこの仕事を始めたのは2年前です。田舎からやってきて、他に仕事が見つかりませんでした。ほら、男の仕事のほとんどは汗臭い力仕事で、そのほかは学歴やらコネが必要でしょ?」

「そうかな。でも、そういうものなのかも」

「それで、僕はまず手当たり次第に、それと分かるような合図と声かけを女性にしていきました。できるだけ、お金を持っていそうな人に。でも、まあ、上手くいきませんよね」

 彼女はそうかも、と頷く。

「そしたら、その筋の人たちに見つかって、みかじめ料を取られるようになって。仕事を紹介されたときは、仲介料も取られるようになりました」

「怖いでしょう」

「いえ。僕の場合、きちんと支払っているし、おかげで安全性は守られました」

「……やっぱり多く払うよ」

 僕は首を振った。

「もういいんです。必要なお金はほぼ貯まったし、そろそろ辞めます」

「怖い人たちに、引き止められないの?」

「話は付けています。そのためのお金をあと少し稼ぐだけです」

 ウエイターがやってきて、サラダとオムレツとコーヒーを置いていった。彼女は料理には視線を送らず、真っ直ぐに僕を見ていた。そういう人だった。

「いくら? あと残っているのは。払うよ」

「そういうつもりで話したんじゃないんです。僕も、それなりのプライドを持ってこの仕事をやっています。ただでもらうことはできません」

「そっか。じゃあ払えないな。これを最初で最後にするつもりだから」

 僕が口を開く前に、彼女はそれを制した。

「別に悪かったわけじゃないよ。傷つかないで。ただ、違った。それだけ」

 僕のところにパンケーキと炭酸水が届いた。でも、彼女の好きなように、視線は離さなかった。

「最初で最後だから、聞いていいですか?」

「何? プライベートなこと?」

「はい。本当は聞きません」

 視界の隅にあるパンケーキの上を、バターが滑っていった。

「すみません。聞かれたくないですよね」

「そうね。でも、ひとつだけならいいよ。なんできみを買ったのか以外の質問ならね」

「なんでショートケーキはダメなんですか?」

 僕は間髪入れずに聞いた。

 初めて彼女の方から目線を外した。

「それ聞くのね」

「はい」

「きみ、モテないでしょ。体ばかり得意になって」

「はい」

「人の気持ちを考えているのか、考えてないのか」

「はい」

 ふっと、諦めたような、呆れたような息が漏れた。

「いいよ。もう会うことはないから」

「はい。実は海外に行くんです。だから、もう会えません」

「安心した」

そう彼女は言って、煙管を叩き、灰皿に灰を落とした。

「恋人が二十年前に、いなくなったの」

「なぜいなくなったんですか?」

「私が聞きたいくらい」

彼女は髪を後ろに払い、物の位置を正すように、視線を僕に戻した。

「教えてください」

「あの日は彼の誕生日で、ザッハトルテとショートケーキと、モンブランを用意してた。全部、彼が好きなもので、でもきっとショートケーキを選ぶと思ってた。料理も全部完成させて、部屋で一人待っていると彼が帰ってきた。スーツ姿で、でも、どこか慌ただしくて」

 僕は頷いた。

「そしたら、急ぎの仕事ができた。ごめん。ごはん食べてて。また出かける、だって。私は小娘で、うんうん聞いて、ケーキだけでも食べていけばと言ったの。でも、気にしないで全部食べていいよって。だけど私は、ショートケーキは残しとくからって言った。それきり。帰ってこない。消えたの。世界から」

「何をしていた人なんですか? 仕事は? 会社は?」

「全部、嘘だった。ううん、最初から存在してなかったのよ、きっと」

「探したんですか?」

「探したよ、もちろん。血眼になって。裸足で焼け野原を駆けるように、ボロボロになりながら。でも、いなかった。背の高いあの人は、世界に生まれていなかった。テレビの中にも本の中にもいなかった。だから、きっと幽霊と付き合ってたんだと、思うことにした。二十年も前の話で、もう御伽話ね」

 彼女はオムレツをナイフで割った。半熟の卵が流れた。

「きっと、帰れないわけがあったんですよ」

「ありがとう。でも、慰めてもらわなくてもいい」

「じゃあ、ショートケーキ、一緒に食べませんか?」

 心の内を読まないまま、僕は言った。

「僕もすぐに消えます。だから、一緒に食べてくれませんか?」

「私に、彼を忘れてほしいの?」

「……僕はケーキを食べてほしいと思っただけです。だって、ショートケーキですよ? このままずっと食べないのは、もったいないと思いませんか?」

 彼女と僕は、それから数分間、冷めていく料理をそのままに違う世界に閉じこもった。先にそこから飛び出したのは彼女で、左手でウエイターを呼び、ショートケーキを頼んだ。

 僕らは一本のフォークで、それをお互いの口に持っていった。一言も喋らず、衣擦れの音を聞きながら、指先の動きを見逃さないように食べた。最後のいちごは、彼女にあげた。

 彼女はそれを奥歯で噛み、世界から消し去るように咀嚼し、喉の奥へ隠した。

「バカみたいね」

 ようやく彼女が笑ったとき、僕は安心した。深い眠りから目が覚めた気分だった。そして、これが僕の仕事なのだと思わせてくれた。

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