第三章:年が明けたら――二〇一九年、シェムリアップ。

“ほら、あなたの赤ちゃんですよ”

 腕に抱いた小さな温もりを示して、私はまだ拙いこの国の言葉で告げた。

「ホギャア、ホギャア」

 私の胸で赤ん坊は万国共通の泣き声を上げる。

 横たわった母親は疲れた空ろな黒い瞳で見詰めた。

 これは恐らくまだ十八歳にもなっていない女の子だ。

 三十二歳の私の半分くらいしか生きていない子供だ。

 褐色の肌をした産婦の頬にまだ残る幼い丸みからそう察する。

 東南アジアでも特に貧しいこの地域では売春が主要な産業の一つだ(昔ほどではないが、ここを訪れる日本人男性は上客と目されている)。

 そうした地域ではこんな風に病院に担ぎ込まれてたった一人で子供を産む少女が少なくないのだ。

“一月一日零時五分生まれ。年の始めに生まれてくるなんて凄く運の良い子ですよ”

 この若いというより幼い母親には何を言っても偽善でしかないかもしれないが、少しでも母子のこれからに幸運が訪れるよう言霊を飛ばすつもりで告げる。

“ありがとうございます”

 血の気の引いた顔の母親はどこか寂しく微笑むとこちらに向かって頷いた。

 その声も、表情も、本来は倍の年齢の私より老成したものに感じる。

 子供が子供として守られない国では、特に女性はあっという間に心が老けてしまうのだ。

 *****

「今年も夜勤してる間に日付も年号も変わっちゃったなあ」

 宿舎の窓辺に置いたソファでほうじ茶を淹れたカップを手に一人ごちる。

 熱帯に属すこの国では、一月でも日本人の感覚では気温としては暑いままだが、ちょうど乾季で酷く乾燥するので、日本から持ってきたインスタントの焙じ茶とのど飴が帰宅後の主食のようになっている。

 湯気向こうの窓ガラス越しには先ほど出てきたばかりの病院の灯りが見える。

 あの灯りの奥ではまだ当直のスタッフが働いているのだ。

 土日祝日だろうが、正月だろうが、病人怪我人が出る以上、医療に休日はない。それはどこの国でも一緒だ。

 ただ、貧しく薬も機器も何もかもが足りないこの国では、日本では助かる病気や怪我でも命を落とす人が少なくない。

 そして、これは日本にいても同じだが、病院に担ぎ込まれた患者の命をいつも守れるわけではない。

 何より、患者を患者たらしめた劣悪な環境から本当に救えるわけではない。

 今日取り上げたあの赤ちゃんと若いお母さんにしても……。

 いや、それは医師としての自分の領域や責任ではない。

 小さく頭を振って息を吐く。

 患者一人一人にいちいち思い入れていては心が持たない。

 それが医師としての宿命だ。

 しかし、どうしてもふとした瞬間、そこに囚われて無力感を覚える。

「もう寝よう」

 明日、というか今日の午前中には日本の新聞社の取材があるのだ。

“海外で医療活動に従事する日本人女性医師”としてメディアに出る以上、疲弊した顔は出せない。

 床に向かいながら、喉を温かに潤したはずの焙じ茶の味が舌の上に苦く尾を引くのを感じた。

 *****

「このくらいでいいかな」

 ファンデーションやマスカラ、ルージュの人工的な香りの混ざり合う中、鏡の中の自分に呟く。

 久し振りに化粧して、ルージュまで引いた顔。

“化粧は女性が自分のためにするもの”

 これは一面では確かにその通りで、私も休みの日に遊びに行く時などは好きな形にフルメイクする。

 だが、こんな風に職業人として初対面の人と会う時の化粧はやはり自分が純粋に楽しむ、気分を上げる為のものではない。

 ふと、街に出た時に見掛ける、露出の多い服に真っ赤な口紅を引いた女性たちの姿が頭をよぎる。

 道行く男性たちに声を掛けているあの彼女たちだって純粋に自分の好きでしている化粧ではないだろう。

 私の葛藤や憂鬱などそうした日々を生きるだけで精一杯の女性たちの比ではないけれど。

「これでいいんだ」

 男性なら最初から化粧をするかどうかすら悩まずに済むのに。

 *****

 宿舎一階のロビーに降りると、もう白々とした陽の光が窓ガラスから射し込んでいた。

 そうだ、今日はまだ元日だ。

 いつもながらのパクチーとセメントの混ざり合ったロビーの匂いのする空気を吸い、半袖の脇の下に微かな汗が滲むのを感じつつ思い出す。

 ちなみにこの国では西暦の一月一日は「インターナショナル・ニューイヤー」として一応は祝日の括りだが、国の暦としての、いわば本番の正月は四月の半ばの五日間である。

 元からカレンダー通りに休めない仕事に加えて、そもそものカレンダー自体も日本と大きく異なる土地で暮らしていると、今日が日本では国民的な祝日週間なのだという感覚すら希薄になってくる。

 自分から望んで海外派遣の組織に所属してこの国に来たとはいえ、どんどん故郷から遠ざかって切り離された凧のような、再び帰る頃にはもう家の消えている浦島太郎のような、寄る辺ない存在に思えてくるのだ。

 郷里の両親とは昨日もメールのやり取りをして互いの生存を確認してはいるけれど、半年前に帰国して両親や旧知の人たちと会った時も元通りのように見えて何かが変わっている寂しさを覚えたのだった。

 そういえば、独身のまま恋愛もここ数年していない。

 この土地に来てあまりにも哀しい女性や子供たちを目にしてきたせいか、男性に夢を見るとか期待するとかいうこと自体があまりなくなってしまった気がする。

――ガシャリ。

 不意に宿舎のドアの開く音がして、さっと視野全体が一段明るくなると同時に外からの土と埃と根強く繁った緑の匂いが流れ込んできた。

 振り返ると、象牙色の肌をした、やや黒目の小さな切れ長い瞳の、初めて目にするはずなのに何故か懐かしい面差しの男がこちらに近付いてくる所だった。

「おはようございます」

 一礼して低い声で語り掛けられたのは、久し振りに耳にする日本語だ。

植田うえだ先生でいらっしゃいますか?」

 丁重な問い掛けに無言で頷いてから、そういう自分の応対がいかにも幼稚で非常識だと思い当たる。

 相手は大丈夫ですよ、という風に切れ長い瞳を穏やかに細めて続けた。

興亜こうあ新聞の石澤いしざわです」

 ガラス窓から降り注ぐ陽の光の中で静かだが臆せぬ声が響く。

「お忙しい中、我々の取材を引き受けていただきありがとうございます」

 胸がざわめくのを覚えながら、こちらも頭を下げて久し振りの日本語で応じる。

「今日はよろしくお願いします」

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