第二章:夏の終わりに――一九四五年、上海。
あの人は今夜は遅いようだ。
この暑さではすぐに悪くなってしまうかもしれないと思いつつ、一人分残した夕食の皿に覆いを被せた。
ラジオを点けようかと一瞬、迷ってから、レコードを取り上げて蓄音機に掛ける。
“君がみ
甘く優しい女の声が歌い始めた。
“夢の船歌 鳥の歌”
この曲を聴くたびに日本語は何とのびやかで優しく美しい響きを持つ言葉なのだろうと上海人で日本語は片言程度の私も思う。
ラジオニュースでアナウンサーのどこそこが制圧されたとか無機的に伝える声。
租界で軍人が怒鳴り散らす声。
そんな場面で耳にする時は鬼か悪魔の使う言語のように聴こえるから、言葉はやはり語る声の色に染まるものなのだろう。
“水の蘇州の花散る春を”
蘇州には小さな頃に一度両親に連れて行ってもらったくらいで、あの人と一緒に行ったことはないけれど、何故か懐かしく思える。
“惜しむか柳がすすりなく”
何故か食卓に一人分置いたまま冷めていく夕食の匂いが鼻先に蘇って胃の辺りに締め付けられる感じを覚えた。
久し振りに良い食材が手に入ったからあの人にも喜んで欲しかったけれど、結局、彼の口に入れないまま腐らせてしまうより食べてしまおうか。
そういう自分は随分余裕がなくなってしまったと思うが、どうしようもない。
立ち上がって蓄音機を止めた所で玄関からガチャガチャと鍵を開ける音が響いてきた。
あの人の開け方だとは知りつつ、ビクリとして振り返る。
ノソノソと入ってきた彼は、常よりももっと青ざめた顔つきをしていた。
こちらと眼差しを合わせると、そこで初めて気付いた風に額の汗を拭う。
「日本が
小さな掠れた声で告げられたにも関わらず、胸にワーッと血が集まって、ドク、ドク、と自分の鼓動が耳の中に響くのを感じた。
中国人の私には本来は喜ぶべきニュースなのに。
知らず知らずあの人に歩み寄ると、相手もまるで磁石の対極のように近付いてきて固く抱き合う。
八月半ばの蒸し暑い夜道を戻ってきたシャツの肩からは汗と埃の入り雑じった匂いがする。
でも、これは生きているからこその温もりだ。
「というより、ずっと敗け続けだったのをごまかして、今日、軍がやっとそれを受け入れたのさ」
小さいけれど重たい彼の声が耳のすぐ傍で響いた。
日本が敗けて撤退してくれれば。
これは私だけではなくこの国というかこの
列強諸国に切り分けられたこの街では本来の住民である私たちは人であって人でないように扱われるのだ。
欧米人はもちろん同じ東洋人であるはずの日本人にすら。
日本人が「
しかし、この部屋で三年近くもこの人と共に過ごした私にとって、日本が敗戦国になることは今の暮らしに終止符が打たれることを意味してもいた。
「
東洋鬼、とそこだけぎこちない中国語と告げられてドキリとする。
彼は大きな掌で私の背中をゆっくり擦り始めた。
「
静かだが、酷く苦いものを奥底に秘めた声だ。
通信社の記者をしているこの人が母語で祖国を語る時はいつもこんな声なので、その時は日本語がそれ自体悲歌のように感じる。
「この街にいれば、日本人がいかに憎まれ恨まれているか、嫌でも思い知らされるよ」
確かめるように指先を絡めてくる。
記者のこの人とタイピストの私の手は指が太くて節が高い形が良く似ている。
前は自分の手が嫌いだったが、今は彼の手を一回り小さくしたように思えて好きだ。
「僕もその一人なんだ」
――国など関係ない。
――私は気にしない。
そう言えたらどんなにいいだろう。
だが、祖国同士が戦火を交えている時に租界のこの街で出会って共に暮らし始めた私たちは常に互いの祖国を意識にのぼせ、周りの目からも隠れるようにして二人の生活を守ってきた。
つと、彼の指が私の指をギュッと締め付けた。
「日本に帰る」
思わず見上げたあの人は張り詰めた目でこちらを見下ろしていた。
閉じた唇は、しかし、何事か言いたくて切り出せない風に微かに震えていた。
――一緒に行こう。
――別れよう。
いずれにせよ自分から切り出すのはためらう言葉なのだろう。
再び鼓動が速打ちして、私は深く息を吸い込んだ。
「私、香港に行く」
まだ食卓に一人分残された食事の匂いが二人の間を漂っていく。
「新しい土地でやり直したいの」
こちらの言葉を聞く彼の瞳に震える光が溢れた。
「そうか」
頷く頬に涙が伝い落ちる。
絡ませた指は固く締め付けたまま。
「互いの国が平和になったらまた会いましょう」
今はどちらもまだ焼け跡と貧しさと苦しみの中にある。
「ああ」
がさついた、しかし、温かな手が確かめるようにこちらの頬を撫でる。
「生きていれば、僕らはまた会える」
視野に映る彼の笑顔がジワリと熱く滲んだ。
*****
狭い部屋だと思っていたのに片付けて空にしてしまうと妙にだだっ広く見える。
「これは君に上げるよ」
彼がレコードの一枚を差し出す。
「次に逢ったら、また二人で聴こう」
「ありがとう」
持っていく内に割らないように気を付けないと。
そう念じつつ“蘇州夜曲”と記されたジャケットを服の上に置いてトランクの蓋を閉じた。
*****
ボーッ……。
これまでは遠くに聞くだけだった汽笛の音が今は耳の中を痛いほど震わせて尾を引く。
茜色の夕陽の射し込む船室で私は手元のトランクの取っ手を握り締めて揺れる足元を踏み締めた。
船はまるで上海中から集まってきたように中国人でひしめき合っている(船着き場で待っている間に西洋人らしい顔もチラホラ見掛けだが、彼らは恐らく高い船室にいるのだろう)。
私も人のことは言えないが、どの人も着の身着のまま出てきたような出で立ちで、夏の終わりのまだ蒸し暑い船室の中には汗や垢じみた臭いが漂っている。
ただ、どの人の目も不安な中にもより良い場所を目指して旅立っていく希望が宿っているように感じた。
同胞たちと日本に還る船に乗るであろうあの人も同じだと良いと水平線に沈んでいく
“花を浮かべて 流れる水の”
“明日のゆくえは知らねども”
“こよい映した二人の姿”
“消えてくれるないつまでも”
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