第15話 七月
いつものように西のテラスで、整髪しているときのこと。
いつものように王様の横には、王冠を預かる大臣の姿がありましたが、その彼の元へ使いのものがやってきました。
大臣は使いからの一筆を確認すると、真っ白な眉毛を一瞬歪めました。それを見た王様は何も聞かず、すっと片手を上げました。
「よい。火急の用であろう。下がってよいぞ」
「しかし……」
「案ずるな、私室の前にもテラスの下にも、充分兵を引いておる。そなたは良いから、
鏡越しに視線を送ると、大臣は深く一礼して、テラスを後にしました。
眩しい日差しの下、遠く青空に、小鳥のさえずる声が聞こえます。
ざざ、と風が緑を揺らし、そこで王様は初めて、床屋と二人きりになってしまったことに気が付きました。
しょきしょきと音を立て、鋏が軽やかに踊ります。
銀の櫛がさらさらと髪を梳かします。
いつも通り、いつも通りのことなのに、どうしてこんなにどきどきしなくてはならないのでしょう。
王様はこほんとひとつ咳をすると、どさっと深く座り直し、口をへの字に固く結んで、おもむろに瞼を閉じました。こんな場合は、眠ってしまえばいいのです。その間に、散髪など終わってしまうことでしょう。王様は高く弾む心臓の音を聞きながら、微かに睫毛を震わせました。
頬を、涼やかな風が撫でていきます。
瞼の向こうで、重なり合う葉裏から木漏れ日が注いでいるのが感じられます。
そうして背後では、大きな手が優しく髪を整えています。
あまりの心地よさに王様は、いつしかとろとろと本当に眠たくなっていきました。
「王様。……王様? お休みになられたのですか?」
遠くに床屋の声が聞こえましたが、王様はそのまま瞼を閉じていました。
「……王様?」
瞼の内からでもわかりました。その影でも、気配でも。
床屋が、王様の顔を深く、間近に覗きこんでいます。
どきん、どきん、心臓が激しく王様の胸を叩きました。床屋の顔がますます近くなり、王様はぎゅっと瞼を固く閉じました。
けれど吐息が重なりそうになったそのとき、すっと気配が離れました。
しばらくの沈黙が続き、王様が目を開けようとした頃に、ぽつりと、床屋が呟きました。
「王様、私の夢を聞いてくださいますか? 馬鹿げた、決して叶わぬ夢です」
王様は何も言わず、目を閉じたまま、夏の風が髪を遊ばせるに任せました。
「私の夢は、小さな田舎町で、床屋を開業することです。今よりずっと、小さな店です。
私の店にはひっきりなしにお客様がいらっしゃいます。みんな、馴染みの仲間たちです。
私は朝早くから日が沈むまで働きます。そうして私の隣には、いつも、貴方がいるのです」
眠っているはずの王様の耳が、ぴくん!と大きく揺れました。
「貴方は私を叱ったり、拗ねたり、怒ったり、……ああ、これではいつも不機嫌みたいですね。
でも、王様。そんな時でもいつも貴方は、心では笑っているのです」
床屋はくすくす笑いましたが、ふいにしっとりした声で、ちいさく、ちいさく囁きました。
「私の夢の中では貴方は、そのお耳を隠す必要もなく、皆の前で自然に振舞っています。誰一人として、貴方のお耳を笑うものはいません。
そうして私たちは、二人の家に帰るのです。私達はそこで、一緒にシチューを食べるのです」
床屋の言うとおりでした。その夢はとても馬鹿げていて、決して叶うことがありません。
なのにどうしてでしょう、王様の目尻には、星のようにちいさな雫が、一粒、きらりと光っていました。
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