第16話 八月
いつものように髪を切り終えた後、床屋はぴかぴかの櫛と鋏を丁寧に革のポーチに仕舞いました。これらは、普段から「命の次に大事」と公言している、床屋の仕事道具です。
そうして侍女に引率されるままテラスから離宮の広間へ戻ったとき、床屋はふと、その足を止めました。その目は高く、壁面に向けられています。
「これは……」
「さすが目敏いな」
王様はふふっと笑うと、ふかふかの椅子に腰を下ろしました。そうして自らも、床屋の視線の先に目を向けました。
そこには、一枚の肖像画が掛けられていました。綺麗な白馬に跨った、本物よりちょっぴり凛々しい王様の姿です。
「先日、描き上がったばかりだ。本当はここに飾るためのものではないのだが、母上が大変お気に召されて、今だけ、ここに飾っていると言うわけだ」
「しかし、お耳が……」
床屋が指摘するとおり。
額縁の中のお顔の横には、ロバの耳はありません。
「当然だろう、描けるわけがない」
「なんと勿体無い」
「そんなことを言うのはお前くらいなものだ」
呆れた声を上げながらも、王様はくすりと笑いました。
床屋は壁面を見上げたまま、ゆっくり、横へ移動しました。そこには小さな幼子の頃からずっと、王様の成長される様子が、何枚もの絵画として収められていました。
床屋は眩しいものでも見るかのような目でそれらをじっくり眺めていましたが、ふと、あることに気が付きました。
「王様、ここ数年のものがございませんが?」
床屋の言うとおりでした。
本を片手にソファに座る、今より幼い王様の絵と、描き上がったばかりだという現在の王様の絵の間には、ぽっかり、数年の開きがあります。王様はふう、と小さな息をつくと、足を組んで肘掛に頬杖をつきました。
「この耳になってからは肖像画を描かせなかったからな。こんな姿の僕など、残したところでなんになる」
「私はお会いしとうございました」
凛としたまっすぐな声に、王様はどきりとして顔を上げました。床屋はその軽やかな空色の瞳に、ただ王様一人を映していました。
「去年より、さらに前。私と出会う前の貴方にも、会いたかった」
王様はどぎまぎと顔を背けると、膝の上で親指同士をもじもじとこすり合わせました。
「い、今と、そうは変わらぬ」
「きっと可愛らしかったことでしょう」
床屋は笑みをこぼしながら、さも当然といった口調で言いました。そうして改めて、壁に掛けられた数々の肖像を見つめました。
「お小さい頃も利発そうで活発そうで。ほっぺたがとてもやわらかそうで、おひざが愛らしい桃色で。きっとお尻もやわからく桃色の
「大臣。打ち首だ」
「御意」
王様はいつものように兵士達に引っ立てられる床屋を見送っていましたが、ふいに厳しい眼差しになり、一番新しい肖像画を見上げました。
西の国に送るための一枚。
まだ独身の王様の姿絵を年頃の姫に送る――それは、見合いの申し込みを意味していました。
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