第3話

 将棋が始まって数分が経過したころ。久々に将棋をしているからか、それとも、仕事で疲れていたからか、思考がうまくまとまらなかった。どんな手を指しても、攻めが繋がっていかないような気がする。私は、一度考えることを止め、ぐるりと頭を回した。その時、ふと、壁に飾ってあるサイン色紙が目に留まった。


「この名前……」


 壁には何枚もサイン色紙が飾られている。その中で、ある一人の名前のサイン色紙が、スペースの大半を陣取っていたことに気が付いた。おそらく常連なのだろう。その名前は、以前どこかで聞いたことがあるような名前だった。一体どこだったか……。


 私の目線を追ったマスターは、何かに気が付いたように「ああ」と一言呟いた。


「その人、聞いたことありませんか? 女性で初めて四段の棋士になった人です。一時期、ニュースで話題になってたんですよ」


 その言葉に、私は合点がいった。今まで、女性で四段の棋士になる人はいなかった。その壁を打ち破ったのが、彼女。以前、ニュースで彼女のことを知った私は、「女性でも四段になれるんだ!」と感動したことを覚えている。


「実は、あなたがいらっしゃる数十分前までここにいたんですよ、彼女。丁度、あなたの座っている席です」


 マスターの口から、衝撃の事実が告げられる。


 まさか、そんな有名な人がここにいたなんて……。しかも、この席に……。


 思わず、椅子から立ち上がってしまう私。そんなわたしを見て、マスターはクスクスと笑っていた。自分の顔が、急速に熱を帯びていく。


「え……と、彼女って、どんな人なんですか?」


 椅子に座り直しながら、マスターに尋ねる。マスターは、「そうですねえ」と呟いた後、ふっと微笑んだ。その姿は、まるで昔を懐かしんでいるかのようだった。


「すごく行動力があって、まっすぐで…………一途な人、ですかね。」


 バーのマスターとその客。もし二人がその関係なら、今のマスターのような言葉が出て来るだろうか。二人には何か……いや、詮索するのはやめよう。だって私は、マスターにとってはただの客なのだから。


「あ、でも、少しだらしないところもありますね。今日も散々お酒を飲んで、『どうしてあんなミスしちゃうんだろ~。……消えたい』って泣きながら言ってましたし」


 笑いながら、面白おかしく語るマスター。


 ……注目される棋士というのも、大変なものだ。

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