サファリング

ボーン

悪魔

「サファリング」




 誠也は教室の窓から、水色の空を眺めていた。校庭を見下ろすと、サッカー部が練習前の準備運動をしている。学校の外に目をやると、ちびっこが集まってはしゃいでいるのが見えた。


 誠也は、はぁと小さなため息をつくと、教科書を閉じてペンを筆箱にしまった。

教壇には、白髪混じりの髭を生やした男性教師が立って、授業締めくくりのアナウンスをしている。


「さあ、これでこの問題集の解説は終わりだ。テストに出る可能性は十分にあるから、ちゃんと復習するように」


 テストというのは、みんなお待ちかねセンター試験のことだ。受験生最初のテスト、大学受験始まりの合図。それは、一月の第二週と決まっている。冬休み明けすぐだ。


「はぁ」


 二度目の大きなため息。受験生になって、いつまで勉強しなきゃならないんだ。


 誠也の通う高校は俗にいう進学校。入学して最初の集会で、大学受験の説明があった。


「一年のうちから勉強ですからね」

「体育祭や文化祭は参加しなくて結構です」


 おかげで勉強はそれなりに頑張ってきたが、高校生の青春と呼べるような思い出は全くない。強いていえば、定期テスト直前に集まった勉強会くらいか。修学旅行も存在はしたが、半年前だというのに記憶は薄い。


 教師が教室を出ると、今日最後の、そして今年最後の授業が終わった。

途端に室内がざわつく。

誠也は座ったままカバンを机の上に出し、帰りの準備を終えるとスマホをいじり始めた。


 今日は長かった。でももう冬休み。嬉しいはずなのに、誠也はイマイチ気分が晴れなかった。それは、今日のイベントのせいだろうか。たぶん、勇気から…


「せいや!悪い、今日は予定ある。先に帰ってくれ〜」

予想通り。勇気が後ろから声をかけてきた。

「いいよ、わかってるって」彼女とお幸せに、と心の中で付け加える。

「すまんな〜、冬休み一緒に勉強しようぜ」

振り返って、またな、のジェスチャーをすると、教室に担任が入ってきて、すぐにホームルームが始まった。


「それでは良いお年を!勉強、忘れずにするんだぞ。結果はついてくる」


 最後の最後まで勉強の話をしてくる担任から解放されると、誠也は耳にイヤホンを付けてそそくさと教室を出た。


 今日は十二月の二十四日。世界の誰もが忘れることのない日。聖なる夜。

クリスマスイヴ。

昨日も明日も流れる時間は同じなのに、なぜだか今日は特別。それは、救世主が生まれた日だから。昨年の今日も同じだった。いつも登下校をともにする勇気も、今日だけは恋人との時間を過ごす。邪魔するつもりは全くない。楽しんでほしい。


 学校の最寄り駅から電車に乗り、家の最寄駅に向かう電車に乗り換える駅で、誠也はなんとなく改札を出た。なんとなくだ。理由があるとすれば、家にまっすぐ帰りたくなかったからだろう。でも受験生だし、どこにも遊びになどいけないから(そもそも彼には聖夜に遊ぶ予定も相手もいないのだが)、乗り換え駅から歩いて帰宅することにしたのだった。


 それが全ての始まりだとは、このときの誠也は知る由もなかった。


 駅を出た誠也は、人通りの少ない通りを歩いていた。この付近は住宅街。もう夕方ということもあり、人々は家でくつろいでいるか、都会のイルミネーションを見に出かけているのだろう。誠也は、手をつないで駅に向かっていくカップル一組と、犬の散歩をしている老人一人とだけすれ違った。


 そうしてしばらく歩き、降りた駅と家のちょうど中間あたりに、誠也は小さな公園を見つけた。そして、ふらっとその中に足を踏み入れた時、事件は起こった。

恐るべき速さで雲が立ち込め、辺りが突然暗くなった。誠也は何事かと不思議に思ったが、何もする暇なく、目の前に巨大な影が現れた。


「え?」


 その影はゆっくりとこちらに近づいた。そして、それは姿をあらわにした。

 天に向かってそびえ立つヤギのような角。深紅の目。異様なほど高く伸びた鼻。顎下にうねる黒い髭。胴には黒い鎧を身に着けている。そして、手には鋭いかぎ爪。その、どこをとってもこの世のものとは思えなかった。

 誠也は一瞬、理解が追い付かなかったが、時間が経って後から心臓がバクバクと暴れだした。しかし、逃げようと周りを見渡すも、黒い煙で覆われて視界が奪われており、足を踏み出せない。まるで、目の前にいる化け物と誠也だけが、スポットライトを浴びているようだった。そう、目の前のそれは化け物だった。そうとしか表現できない。他に名前を付けるとすれば、言うなればそれは・・・


「私は悪魔だ」


 化け物は名乗った。地面から響くような低い声だった。

 誠也の恐怖感は頂点に達し、今にも心臓は張り裂けそうだったが、そのエネルギーを向けるあてがなく、次第に収まっていった。化け物が彼の理解できる言葉を喋ったのも、気持ちが落ち着いた理由の一つだろう。

 悪魔は再び口を開いた。


「死にたいのか」


 その言葉は誠也の心の中にまっすぐに突き刺さった。気持ちが揺らぎ、冷静になりかけた彼は再び不安定になった。悪魔の言葉にはそういう作用があるらしい。

 死にたいのだろうか、ふと悩んでしまった誠也は自分に驚いた。


「迷っているな」


 悪魔は言った。

 落ち着け、落ち着け、誠也は自分にそう言い聞かせ、冷静になろうと必死だった。落ち着いて逃げ道を探そう、そう心の中で唱えていると、悪魔がふっと表情を緩ませた。


「逃げ道などない」


 心の中を読まれた気がして、誠也は余計に狼狽した。この化け物は心を読めるのか。もはや冷静さを装うことなどできない。


「そうだ、心を読める」

「え?」


 誠也は自分をコントロールできなくなった。思い切って悪魔に背を向けると、黒い霧の中めがけて走っていった。すぐに、白い空間が目に入った。


 抜け出せる!


 しかしパッと飛び出すと、そこは霧のない狭い空間。悪魔が仁王立ちしていた。悪魔の力なのか、霧のせいで方向感覚を失ったのか、誠也はそこから抜け出せなくなっていた。何度試しても同じ。悪魔のもとへ戻ってくるだけだった。


「無駄だ。やめておけ」


 そこで、誠也はなんとなくポケットに手を入れた。硬いものに触れた。スマートフォンだった。


「これだ!」


 わずかな希望にかけて、ロックを解除し、連絡先を開いた。焦る気持ちを抑えるように勇気の番号をゆっくりとタップして、端末を耳に当てた。

 プルルルルルルル・・・

 しばらく待っても応答はない。

 もう一度。

 プルルルルルルル・・・

 ダメ。

 もう一度。


「あきらめの悪いやつだな」


 低い声が響いた。

 誠也は諦めてその場に崩れ落ちた。呼吸がゆっくりとなり、それに伴って冷静になり、やっと事態を受け入れた。


「心を読まれて何ができる。私は人間とは違って何でもできるのだ。できないことなどない。お前に逃げ場はない」


 誠也はただ声を聞いた。会話する気になどなれるはずがない。

ふと視線を落とすと、自分の左腕に銀色の輪が巻き付いていることに気付いた。シンプルで柄も印もない輪だった。誠也はそんなもの持っていないし、付けた覚えもなかった。でも、それは外そうとしても外れなかった。彼の腕にピッタリとはまっていた。


「お前に、三つの人生を与えよう」


 悪魔は言った。意味は全くわからなかったが、その言葉に、誠也は直感的に、とても恐ろしいものを感じた。リングを外そうと、もう一度右手に力を込めたが、それはびくともしなかった。


「それはお前へのプレゼント。お前には試練が必要だ」

「何だ。俺を殺すってこと?」


 誠也は思わず訊いた。


「安心しろ。俺にはお前を殺せない」


 悪魔は、未だに銀のリングを外そうとしている諦めの悪い誠也にやめるよう手で指図すると、低い声を続けた。


「悪魔には何でもできると言ったが。できないことが一つだけある。人の寿命を変えることだ。こればかりは神の仕事だから」


 誠也はまた黙った。


「私の仕事は、人を殺すことではない。人を苦しめることなのだ」


 すると、突然視界が真っ暗になった。

 黒い霧が誠也を包み、そして消えた。


 誠也が気づくと、そこは夕方の公園だった。彼はど真ん中に仰向けになっていた。


「大丈夫かい?」


 頭上から声がして慌てて起き上がると、犬を連れた男性だった。


「あ」


「呼びかけても反応がなかったから。何か、嫌なことでもあったのかい?」

「い、いえ別に」


 男性は、会話して少し安心したのか、気を付けて帰るよう誠也に声をかけると、公園を出て行った。


「悪い夢か」


 誠也はふうっと首をかしげると、左腕を見て驚愕した。銀の輪が付いていた。




 翌日、誠也は図書館に勉強に向かった。銀のリングは付いたままだ。結局、外すことはできなかったのだ。前日の奇妙な体験は、彼の脳にこびりついて離れなかった。家で一人、勉強するのは難しいと判断した。あの恐ろしい悪魔を思い出してしまって、落ち着かないからだ。でも受験は直前。勉強をしなきゃという気持ちはまだ頭の中にあった。そこで、人の多い場所でなら少しは気が紛れるかもしれないと、図書館で勉強することにしたのだった。


 開館とほぼ同時に到着したためか、今日がクリスマスだからか、人はほとんどいなかった。誠也は勉強スペースで席に着くと、その空間を独占できた。でも、それは今は不都合だった。人がいなさすぎて昨日のことばかり思い出してしまい落ち着かない。持ってきたテキストを机に広げてみても、気づけば同じ箇所を何度も読み返していた。


 そうして時間がしばらく経った後、一人の男子が誠也の向かいの席にやってきた。その子は茶髪で、左耳にピアスを付けていた。そして席に着くと、誠也の知っている大学受験対策の問題集を広げた。

 誠也の通う進学校では見ない、別世界の高校生、という感じだった。顔つきは幼い。が、ボサボサの茶髪や時折光るピアスから判断して、誠也の苦手なタイプだった。その彼は、誠也がじろじろ見ているのに気づくと、ニコッと白い歯を見せて笑った。


「どうも」

「あ、どうも」


誠也は唐突な挨拶に驚いて咄嗟に返すも、その後の茶髪男子の視線が気になった。手元の問題集に戻る手前で、止まったのだ。その視線の先は間違いなく、誠也の左手のリングだった。


「それ、もしかして」


茶髪男子は脳内の記憶を辿るように上を向いた。


「いや、そんな有名なブランドとかじゃなくて・・・」


誠也はあまり興味を持たれないように返したつもりだった。が、失敗。目の前の彼は机に身を乗り出して誠也の左手を眺めた。


「知ってるかも。ちょっとよく見せて」


このまま突っ込まれたら面倒なことになるかもと、誠也はほとんど強引に左手を机の下に引っ込めて、嫌な顔をして見せた。すると茶髪男子は「そっか」と言って申し訳なさそうに頭の後ろを掻く仕草をしたが、また少し考える仕草をして、それから席を立って図書館の奥に消えていった。


「はぁ」


誠也は声に出してため息をついた。あの子が持ってくるのはファッション誌か。数分後、帰ってきた彼の手に握られていたのは想定外のものだった。


「これじゃない?」


 示されたページには「主な拷問器具」という見出しがあった。それだけ見て顔を上げると、茶髪男子は首を振って、ページの端を指さした。

 それを見て、誠也の背筋が凍った。


 銀の輪だった。


 挿絵の形はまさにそっくりだったが、そこに書かれた説明文がさらに誠也をゾッとさせた。


【サファリング】

 悪魔が使う、一般的な道具。対象の腕に装着させることで、命を三つに増やし、人生の苦痛を三倍にする。・・・


 誠也は頭がクラッとするのを感じた。その本を閉じて表紙を見ると、『天使と悪魔』とあった。


「命を三つって・・・」

「悪魔に会ったの?」


すかさず飛んできた質問に返す余裕など、誠也にはなかった。


「悪ふざけはやめてくれ」


わざと冷たく言い放つと、誠也はテキストをカバンにしまって、席を立った。


「ちょっと待ってくれよ」

「オカルトマニアに付き合ってなんていられないよ」


誠也は一目散に出口に向かった。昨日の出来事を忘れるために来たようなものなのに、また考えさせられることになるなんて。


「待ってって」


あと少しで外に出るというところで、手首をつかまれた。残念なことに左手だった。つかんだ手を顔の前に持っていってじろじろと観察したところで、「間違いない」と男子は言った。


「これ、外したいと思わないの?」


誠也は何度目かわからないため息をついた。そして、お願い、というよりも、単純な疑問形で訊いた。


「外せる?」


 

 茶髪の高校生らしくない男子は、名前を大賀と言った。浪人生らしい。大賀は誠也の腕を引っ張って歩き出した。

 

二人は街を飛び出した。

誠也は大賀の言われるがままに電車に乗り、気づけば寝てしまっていた。昨晩よく眠れなかったこともあって、相当疲れが溜まっていたのだろう。


 彼は夢を見た。

大人に街を出ろと言われて出たら、途方に暮れたという内容だった。お金も人脈もない、そう思った時には遅かった。社会に出るのに必要なものを持ってくるのを忘れたのだ。でも、ただ引き返して持ってくれば済むようなものじゃなかった。

 思えば、誠也は小さな頃から真面目だった。真面目過ぎた。余計なことは考えずに、「勉強すればいい大人になる」という周囲の教え通り勉強した。高校受験を終え、大学受験も目前。学校の成績も問題なし。ただ、何かが足りなかった。心が空っぽのまま大事な時期を通り過ぎてしまった、誠也自身もそんな気がしていた。

 

 誠也が目覚めたときには、終点だった。


「小田原?」


 大賀は目的地を誠也に告げていなかったが、乗り換えて20分ほどで着くと言われて、箱根だと気づいた。以前に家族で来たことがあったから知っていたのだった。


「なんで?」

「いったん、休憩しよう」


 それ以上大賀は教えてくれなかった。

 今日はクリスマス。混んでないはずがない、と思ったが、大賀は「空いている」の一点張りで、実際到着したら人はほとんどいなかった。

 二人は比較的大きな温泉に向かった。駅から歩きながら、誠也はなんて場所まで来てしまったのかと頭を抱えた。お金もないし、と思ったが、それに関しては、親からくすねたという大賀が二人分払ってくれた。


「よっしゃ!満喫するぞ!」


 脱衣所に入り、カバンと服をロッカーに押し込むと、大賀は湯舟に飛び込んだ。それを見た誠也は静かにするよう叫んだが、温泉に潜った大賀には届かなかったようだ。誠也はため息をついて桶と椅子を持ち、シャワーを浴びた。体を一通り洗い終えると、大賀のいる湯舟に浸かった。


「気持ちいい」


大賀が心の底から幸せそうな声を出した。彼に賛同はしたくなかったが、たしかに気持ちよかった。ここまで移動してきて疲れたのと、駅から歩いて冷え切った体に、温泉効果は抜群だった。


「一度来てみたかったんだよな」


 大賀はぼそっと言った。

 銀のリングを外そうと言って電車に乗ったはずなのに、大賀の連れ添いをやっているような気分だ。大賀は誠也を振り回して、自由に遊びまわっているようにしか見えない。受験直前に何をやっているのだと、誠也は大賀への怒りを通り越して呆れ、さらには自分への自己嫌悪が増して、ため息をついた。


「ため息しかつかないな」


 大賀は初めて嫌な顔を見せた。


「当たり前だろ。何してるんだよ、俺たちは」

「いいじゃんか、たまには気分転換をしろよ」

「おせっかいだな、初対面のくせに。これ外すんじゃなかったのかよ」

「初対面か~」


 そこで、大賀がふっと笑うのを見て、誠也は口を尖らせた。


「え?なんだよその言い方」


 誠也は左手を見せた。


「あ、ごめん。外すよ、もちろん。でもちょっと待ってよ」

「何が待てだよ。こっちはよくわからん化け物に付きまとわれてるかもしれないんだぞ」

「悪魔な。たぶんまだ大丈夫だ」


 大賀は妙に落ち着いていた。何か策があるのだろうか。


「どういう根拠があってそう言える。はやく外せって」

「外すんだけど、それならまず俺の願いを聞いてよ。悪魔は人を殺せないんだ」


 誠也はしぶしぶ従うことにした。言うことを聞くしかなかった。本心では、リングを外せるという証明をしてほしいところではあったが。

 

 温泉を出ると、その日は近くの旅館に泊まることになった。連れていかれるがままの、無計画の旅だった。誠也が明日の予定を聞くと、大賀は「きっと驚くよ。楽しみにしてて」と相変わらず眩しい笑顔を向けた。


 布団を敷いて寝転がった誠也は、銀のリングと向き合った。外せないものだから腕に巻き付いたまま温泉に浸かったが、温泉の成分なんかで溶けたり劣化して、外しやすくならないかななどと考えて、表面を撫でていると、耳元でけたたましい音が鳴って思わずビクッと飛び起きた。音はスマートフォンからで、勇気からの着信だった。慌てて耳に当てる。


「もしもし?」

「もしもし、誠也?何かあった?」

「え、何かって?」

「いや、ほら、昨日、俺に電話したでしょ?何かあったか?」


 昨日電話したっけと少し考えてから、悪魔が現れた時にしたかも、と思った。すっかり忘れていた。


「ああ。いや、ごめん。何でもない」


 電話越しには話したくなかった。相談するなら大賀よりも先に勇気のはずだが、今クリスマスを楽しんでいる彼に余計な心配はかけたくない。


「そうかそうか、出られなくてすまんな。また何かあったらいつでもかけて来いよな」

「もちろん、ありがとう。楽しんで」


 電話を切ると、誠也は大賀の方を見た。大賀は、横になりながらテレビを見ていた。その楽しそうな後ろ姿に声をかける。


「大賀、リングのことはなんで知ってたの?」

「俺、そういうの好きなんだ」

「見た目に反して、オカルト好きなのか」

「うるせーな」


 大賀はこちらに向くと、楽しそうに語りだした。


「ちょっとハマってた時期があったんだけどな。まさか、こうやって当事者に会えるとは」

「悪魔、見たことあるのか?」

「ない」

「どういうのか気になるだろ」


 すると、大賀は、図鑑では見たことあるけど会いたくはないかな、と返してから、身を乗り出して言った。


「知らないだろうから教えてあげるよ」


 大賀が語ったのは、彼曰く、世界の本当の姿だった。でもその内容は、誠也が少しだけかじったことのある神話とは全く違うものだった。


 遠い昔、神は人間界をつくった。

 神はそれからしばらく見守っていたのだが、人間が増え、争うようになり、一人では秩序を保てなくなった。やがて神は、自分の遣いとして悪魔を従え、人間の生涯を監視させた。悪魔は神から力を授かり、おかげで寿命を操作すること以外は、何でもできるようになった。そんな悪魔の役割は、苦しみを与えてシンプルで平坦だった人間の人生を複雑化して充実させること。悪魔らは人間界を常に監視しているのだそうだ。


 これを聞いても誠也は納得できなかったが、悪魔から直接聞いたのと一致する点もあり、あながち間違いではないのかもしれないと思った。でもやっぱり、実物を見たとはいえ、信じ難い。


「それじゃなぜ、あの悪魔は俺にリングを?」

「誠也に苦痛を与えるため」

「苦痛なんて味わってないけど・・・」


 誠也はそう答えながら、これから何か恐ろしいことをされるのではないかと思うと、全身に鳥肌が立った。苦痛と一言で表現されることが余計に恐ろしさを感じる。


「そもそも、苦しみを感じたら人間の人生が充実するとは思えない」

「それは俺もそう思ってるよ。多少の壁を乗り越えるのはいいんだろうけど」


 大賀がふと、目の奥に悲しみを浮かべたのを、誠也は見逃さなかった。大賀は普段、うざったいくらいの笑顔を見せるのだけれど、時折ネガティブな一面を見せる。

 

 誠也がテレビを消すと、室内は一瞬にして静けさに包まれた。それから二人が眠りに落ちるのに、5分とかからなかった。




 翌日、誠也と大賀は旅館を出ると、さらに西へと向かった。これにはもちろん誠也が猛反対したが、結局丸め込まれてしまった。


 二人は、昼食は名古屋で済ませ、それから買い物等をして過ごし、夕方には大阪に到着した。有名すぎる観光スポットを巡り、買い物をして、映画を見終えた頃には夜の十時を回っていた。なんとか空きのホテルを見つけると、二人は倒れるようにベッドに向かった。


 疲れて眠ってしまった大賀の横で、誠也は天井を見つめていた。大賀と遊び尽くした一日は楽しかったが、悪魔が現れたらどうしようという不安は、一時も誠也の頭から離れなかった。


 でも、誠也は自分の中に現れた、それとは違うもう一つの不安に気づいた。逆に悪魔が現れなかったらどうしようという不安だ。本番の受験がやってくる。余計なことは考えていられない。まだ勉強漬けの日々は続く。

実は彼はずっと前から気づいていたのだった。それも、悪魔と会うずっと前から。実は、勉強しかやることのない空虚な毎日に、何か起きないか、ハプニングがないかと、密かに自分が期待を抱いていることに。

 悩みが頭の中でぐるぐるする中で無理にでも寝ようとした。


翌朝、二人はシャワーを浴びて、ホテルで朝食を食べた。

そして、今日はどこへ行くのか、誠也が大賀の後について、ホテルを後にした時。突然、それは起こった。期待したハプニングはこれではないのにと、誠也は叫びたかった。物事は期待した通りにはいかない。


 悪魔が現れたのだった。そして、何もする間もなく、大賀が死んだ。悪魔に吹き飛ばされ、とんでもない力を受けて、通りの向かいの車に衝突したのだった。何もできず、誠也は叫ぼうとしたが、悪魔はそれも許さなかった。パッと誠也の目の前に移動すると、突如世界の景色が変わった。


 誠也と悪魔は、高層ビルの屋上にいた。

 悪魔の顔が目の前に近づいた。真っ赤な目が誠也を覗いた。誠也はあまりのその威圧感に硬直してしまった。

 直後、焼けるような痛みが彼の腹部を襲った。

 悪魔の鋭いかぎ爪がお腹に突き刺さっていた。ドボドボと鮮血が流れ出た。すっと力が抜けて、誠也は悪魔の腕に体重を預ける形になった。余計に痛みが大きくなる。


「うっ」


 彼は、喉の奥から生暖かいものがせり上がってくるのを感じ、むせた。

真っ赤な血が足元の乾燥したコンクリートを染めた。

顔を上げると、悪魔がわずかに笑っているように見えた。


「そうだ、苦しめ」


 悪魔はぼそっとそう言うと、誠也を突き飛ばした。体に突き刺さっているものが抜け、さらに血液の流量が増えた。痛みが遠のき、意識も体から離れようとしていた。

誠也はすべてが気にならなくなり、死ぬのだろうかと頭の端で考えた。

悪魔が誠也の首を掴むと、力任せに放り投げた。

誠也は宙を舞った。


 屋上が離れていくのが見えた。

 誠也は落下した。

 地面が近づいた。

 走馬灯なんてものは流れず、あっという間に、誠也は地面に激突した。

 

 起き上がると、誠也は病院にいた。

近くにいた看護師が目覚めに気付くと、優しい顔で近づいてきた。


「起きられましたか。具合はいかがですか」


彼は、状況はよく呑み込めなかったが、これだけで生きていて良かったと思えた。


 って、え? 生きてる?


 おかれた状況を把握しようと体を動かそうとすると、猛烈な激痛が襲って、思わず体を縮めた。

 彼の体には無数の管が繋がっていた。


「俺は・・・生きてる?」

「安心してください。三日眠ってましたが、大丈夫ですよ」


 看護師さんは優しく言った。それから、ちょっと待って、と言うと、部屋を出て行った。誠也は咄嗟に左腕を確認した。銀のリングがかっちりとはまっていた。

数秒後、看護師が誰かを連れて戻ってきた。

誠也の母親だった。


「せいや!」


 彼女の声は震え、目には涙を浮かべていた。


「よかった」


 母親がため息をつくようにそう言った。目に溢れた涙は、頬を伝って床にポトリと落ちた。それを見て、誠也の涙腺も緩み、大量の涙がとめどなく流れた。彼はそれを拭わず、涙で顔をくしゃくしゃにした。塩甘い涙のせいで、頬がヒリヒリした。

 

 その日、母親のいる間に、たくさんの人が誠也のもとを訪れた。クラスの担任、中学の頃の友達、塾の先生、中学の時の部活の顧問、近所の家族、勇気。皆、悲しい顔を少しも見せず、ずっと笑顔だった。

 誠也が驚いたのは、一人も彼が受験生だということに触れなかったことだった。この時期にどこに行っていたとか、勉強をすぐにでも始めなきゃなんて言わなかった。

誠也は、幸せだなと思った。


 次の日も、誠也は身動きが取れなかった。少し体をひねるだけでピシャッと痛みが走る。看護師にテレビを付けてもらって、映画を見た。「夜明け」という題のその作品は、世界の終末と、そこからの再生を描いたSF映画だった。物語では、記憶を失った主人公が自分探しとともに、世界の再生をかけた戦いに参戦した。壮絶なバトルの末にやってくる衝撃のラストは、誠也の心を動かした。でも、それ以上に衝撃の結末が、誠也を待っていた。物事は予想通りには進まない。


 その日、体調が急変して、誠也は死んだ。




 誠也は目を覚ました。

そこは夕方の公園だった。彼はど真ん中に仰向けになっていた。


「大丈夫かい?」


 頭上から声がして慌てて起き上がると、犬を連れた男性が立っていた。


「え?」


 誠也は飛び起きて、目を大きく見開いて男性を見た。


「呼びかけても反応がなかったから。何か、嫌なことでもあったのかい?」


見た光景だ、誠也はそう思った。


「あ」


 何も答えられずにいると、男性は犬を連れて公園を出て行った。

 誠也はふと思い立って左手を見た。

案の定、銀のリングが巻き付いている。顔を近づけて確認すると、小さなひびが入っていた。わずかな期待を抱いて、力を込める。でも、相変わらず頑丈で、外れることも、壊れることもなかった。

 

 そこで、ひゅうと風が吹いた。

 首をぐるぐると回して辺りを警戒する。あの化け物、悪魔はいなそうだった。

 そこで、誠也は自分が怪我一つなく、健康状態であることに今更ながら気付いた。記憶では、つい先ほどまで激痛で身動きできなかったはずなのに。もう一度周囲を見渡すと、彼は走って図書館へ向かった。


 まるで、ホラー映画だった。でもこんな恐ろしい映画は見たことがない。よく主人公だけが特別な力を持ったり、化け物と会話することができるという物語があるが、実際には魅力的ではない。誠也は一瞬だけ、もし映画の主人公だったらヒーローになるのかと考えた。でも一瞬だけ。そんな夢物語は2時間分で十分。長い人生に持ちこまないでほしい。せっかく生き返ったのだ。誠也は二度目の人生を、ヒロインを助けたり、世界を救うことに使う気はなかった。前に図書館で会った茶髪ピアスの男子、大賀の言うことを信じるのであれば、命はあと三つ。それを確かめるために、誠也は図書館へと向かったのだった。


 検索機のおかげで目的の本はすぐに見つかった。本棚から手に取り、『天使と悪魔』と書かれた表紙を確認すると、誠也はその場で本を開いた。


 【サファリング】

 悪魔が使う、一般的な道具。対象の腕に装着させることで、命を三つに増やし、人生の苦痛を三倍にする。一度装着すると、増えた命を失うまで外れない。命を使うごとにリングは脆くなり、命が失われたとき、破壊される。


 誠也はさらにページを送った。そして、気になるページを見つけて手を止めた。そこには、誠也にリングを付けて、彼を痛みつけて、さらには大賀を殺した、あの悪魔のイラストが描かれていた。その絵には、アルファと名前が付けられていた。が、その隣に、別称が記されていた。


「ルシファー」


 誠也はその名を読み上げた。堕天使、ルシファー。

 そのとき、彼の頭に疑問が浮かんだ。

 悪魔は人の寿命を操作できないはずだ。大賀も、悪魔自身もそう言っていた。それはつまり、悪魔は人を殺せないということ。それではなぜ、大賀は殺された?


 次のページをめくると、その答えが出た。

 誠也は震えた。

 大賀とそっくりな顔をしたイラストが載っていたのだった。茶色い髪、左耳にピアス。全く同じだった。名前の部分には、「オメガ」とあった。大賀って、オメガを日本語読みにしていたのか。誠也は気を失いそうだった。が、なんとか彼の意識を留めたのは、そのページのタイトルだった。


 太い明朝体で、「天使」と書いてあった。


「バレたか」


 後ろから声がした。その一言で、声の主が笑顔でいることが伝わった。

 振り返ると、ピアスと茶髪の大賀が立っていた。彼と初めて会った時、誠也ははうんざりした気持ちだったが、今は違う。恐れ多い。頭を下げてでも味方につけたい。死ぬまで一緒にいてくれたことに、感謝しないといけない。でも、悪魔から守ってくれはしないのだろうか。

 大賀、いや、オメガは笑顔を作ったままだ。天使のスマイルと言われると、なるほどとうなずくことしかできない。


「あ、今まで通り大賀と呼んでくれればいいから」


そう言ってから彼は続けた。


「俺は死んでないよ。ただ、アルファに邪魔されただけ」

「邪魔?」

「ここでは話しづらい。場所を変えよう」


 誠也と大賀の二人は図書館を出ると、人通りの少ない細い道を歩いた。

誠也が知らない世界について、大賀は説明を始めた。


「神がこの世界をつくったことは前に話したね。実は、神の遣いには二つ存在する。天使と悪魔だ。どちらも、強力な力を持っている。何でもできるんだ」


 すると、大賀が手を伸ばしてきた。それは、誠也の目の前で大きくなり、爪が伸び、不気味な毛が現れては急速に伸びて、獣の手となった。


「ああああ」


 誠也はその不思議な現象に声を上げてしまった。

 通りにいた数人の視線が一気に集まったが、その時には大賀の指は人間のものに姿を変えていた。


「人間に化けることができているのも、力のおかげ。あまり人間界に干渉しすぎてはいけないとされているから、こうやって化けて紛れ込むんだ。あくまで、神話として少し知られている程度に留める。天使も悪魔もだいたい同じだ。ただ、天使と悪魔には根本的な違いがある」

「正義か、悪か?」

「そう単純じゃない。天使は、人間に快楽を与えることが使命。悪魔は・・・前に言ったな。苦痛を与えることを使命としている。両者とも、そうやって人間の人生を支えている。なくてはならない存在なんだ」


 誠也は悩んだ。今まで、楽しかったこと、辛かったこと。すべて、自分が選択して歩んできた結果だと思っていたものが、崩れた。すべて、神の遣いに踊らされているだけだったのか。

 すると、大賀が言った。


「そんなネガティブにならないでくれ。もちろん、君たちの人生は、君たちの選択でできている。俺たちは、そこにちょっとだけ、飾り付けるだけだ。最近、悪魔側がやりすぎているのは感じているよ」 


 大賀の、君、という言い方が自然すぎたが、それが天使と悪魔というものが本当に存在し、遠くから人間を本当に見てきたのだという説得力になった。

 誠也が左手を見ると、銀のブレスレッドは静かに輝いていた。


「俺の人生はあと二回?」


 大賀はうなずく。

 誠也は考えた。天使と悪魔は何でもできると言っていた。寿命操作以外であれば。悪魔は誠也の寿命を縮めてはいないはずだった。あんなに苦しめられたが、寿命は変わらないはずだ。でも、誠也は死んだ。それはつまり・・・もともと寿命が、その長さしかないということを指しているのだろう。


「その通りだよ」


 誠也の心を読んだ大賀が言った。


「気づいたか。その通り、誠也はあと数日しか生きられない。俺たちは人間の寿命を知らない。が、誠也の三つの命が一つ減ったとき、理解したよ」


 誠也は絶望した。とても受け入れられなかった。

 あと数日の命。それがあと二回。

 一回につき、一週間生きれるかどうか。


「天使も、寿命をいじることはできないんだよな?」

「ああ・・・寿命を延ばすには、神に頼むしかないかな」


 大賀はばつが悪そうに笑った。


「邪魔して悪かった。人生に干渉しすぎたな。すまない」


 大賀は言った。その表情はいつもと変わらない笑顔だったが、誠也はどこか悲しさを感じた。


「後悔のないよう生きてほしい。人生はあと一つだから、大切に。ちなみに、アルファは今我々が拘束しているから安心してくれ。君に手出しはしないよ。干渉しすぎた罰だ」


 そう言って天使は消えた。




 受験本番まであと一か月を切った。

 年末。

 街のどこを見てもこの時期は、年明けののんびり期間のためにせかせかと忙しない。大掃除をして、今年の仕事を締め、買い物に出かけたり帰省したり。


 誠也は家に閉じこもっていた。死というものに恐怖を感じて、行動が消極的になってしまう人間は山ほどいる。でも、どこも悪くない健康状態なのに、数日後の死が確定している誠也は、怯えて何もできずにいた。少しでも死を遠ざけようと、窓に鍵をかけてカーテンを閉め、外界との接点を絶っていた。

 初めは母親が無理にでも入ってきて、掃除をしたりとかご飯を運んできたりしていたが、諦めたようだった。

誠也はほとんど人と会わなくなってしまった。

 

 そんなある日、誠也しかいないはずの小さな部屋に光をまとった者が現れた。

 大賀だった。


「気持ちもわかるが、もっと幸福を感じてほしい」


来た理由は天使らしい、もっともな理由だった。


「干渉しないんじゃなかったのか」


 誠也は顔も見ずに言った。


「受験期でうつろな目をしてた誠也を助けたいと、こちらから近づいたのは事実だ。でも、それで良い方向へと進めることはできなかった。無理やり連れ出すのはもうやめるよ」


 大賀と誠也は部屋で、二人だけで食事することになった。大賀はどこからか、美味しいものを集めてきた。どれも、誠也の好きなものばかりだった。しかし、どれも味がしなかった。

 誠也が重い口を開いた。


「よければ、今まで見てきたいろんな人間について語ってくれないか」

「いいよ」


 二人は人生についての話をした。大賀は今までに見てきた、膨大な数の人間のことを話した。実親に捨てられ、孤独な幼少期を過ごした挙句、歴史に名を残す殺人犯となってしまった男性。がんと闘い、余命わずかと宣告された後も、世界中を旅して最期まで夢を叶えつづけた女性。学生で起業し、今では世界中が知る企業にまで巨大化させた男性。

 どれもドラマみたいな話だった。誠也は、その一つ一つに人生があったのかと考えるとゾッとした。大賀の長い人生の中では、誠也もその中の一人に過ぎないのだった。


 夜が更け、眠くなった。

 誠也は布団に入ると、一瞬で夢の世界に行った。

 大賀はそんな彼の姿を確認すると、この部屋から姿を消した。


 翌朝、誠也は荷造りを始めた。

 押し入れから、自分が持っている中で一番大きなリュックサックを引っ張り出すと、シャツ、ズボン、下着、タオル、誕生日に買ってもらったカメラ、お気に入りの文庫本をしまった。それから、誠也は机の下に潜り込んだ。そこにある小さな棚には、埃をかぶった金属の筒があった。貯金箱だ。小さな頃からもらっていたこづかいやお年玉が詰まっていて、見た目以上にずしりと重い。ペンチを持ってきて口をこじ開けて、広げたビニール袋の上で逆さまにした。大小さまざまなお金がどっさりと溢れ出た。誠也は袋の口を縛ると、丸めてリュックへ放り込んだ。


 人はなぜ生まれるのか。


 どんなにがっぽりと金を稼いでも、どんなに人を殺しても、いずれ同じように死ぬ。それなら、なぜ生きるのか。

 誠也は思った。

 どうせ死ぬなら、自分が生まれたこの世界を知ろう。周りの人よりも少しでも多く。そして、たくさんの経験をしてから死のう。まだ猶予はある。今すぐにでも世界へ飛び出さないと。


 誠也は家を出ると、迷わずに電車に乗った。それからモノレールにも乗った。

数時間後、空港に到着すると、チケットカウンターで今すぐに乗れる便はないか聞いた。受付の女性は怪訝な顔をしたが、すぐに空席のある直近の飛行機を教えてくれた。


 長くて、あっという間の旅だった。

 最初に訪れたのは中国。最初にこの国になった理由は時間と空席で好条件だったからだが、行ってよかった。上海国際空港。降り立って、誠也はこれまでに感じたことのない自由を感じた。気の向くままにレストランに入って、電車に乗って、ホテルに入った。

 次に訪れたのはタイ、バンコク。大人の街で有名なところだが、昼間は誠也にも楽しめる不思議な場所だった。次の日にはチェンマイという都市に行って象に乗った。さらに次の日にはバスでさらに東に行ってラオスへ、のはずが朝宿で起きると誠也は高熱を出していた。マラリアとのことだった。誠也は覚悟した。宿で隣に泊まった優しい男性が看病をしてくれた。誠也と同じ年の頃から世界中を旅しているとのことだった。誠也は丸二日、熱にうならされた。


 そうして宿に着いてから3日目の夜、誠也は息を引き取った。



苦しみから一瞬で解放されて、誠也は目を覚ました。

そこは夕方の公園だった。彼はど真ん中に仰向けになっていた。


「大丈夫かい?」


頭上から声がして慌てて起き上がると、犬を連れた男性が立っていた。


「あ」


誠也は飛び起きて、目を大きく見開いて男性を見た。


「呼びかけても反応がなかったから。何か、嫌なことでもあったのかい?」


 同じ光景だ、誠也は呟いた。

 男性は犬を連れて公園を出て行った。

 誠也は左手を見た。

 案の定、銀のリングが巻き付いている。縦に入ったひびがリングを破壊しそうなくらい大きくなっていた。でも、相変わらず頑丈で、壊れそうな感じはしない。


「いよいよラストか」


 誠也は目を細くした。




 誠也は最後の人生を一生懸命生きると決めた。といっても、世の中のほとんどの人間は最後の人生を生きているのだから、最後なのは特別なことではない。しかし、なかなか生きるという意識ができないのは事実だ。それはいつ死ぬかわからないからだろうが、死ぬ時がわかったら人生が充実するというものでもない。

そもそも、一生懸命に生きなければいけないなどということはない。大切なのは、自分の納得するように生きることだろう。悪魔と天使は、それを気づかせるために誠也に接触した。これで物語は終わりを迎える。誠也は思い通りに生きた後に命を落とす予定だ。としたいところだが、物事は予想通りには進まない。


 死期が近づいた頃、夜の7時、渋谷。夜景を見ようとやってきた誠也が駅前の交差点を歩いていると、一台の乗用車が信号を無視して猛スピードで誠也めがけて迫ってきた。


 あまりに一瞬の出来事で動けずにいる誠也と車の間に何かが飛んできて、目を疑う超常現象が起きた。

 飛んできた乗用車が誠也の目の前で跳ね返されて、宙を飛んだのだ。その場にいた人が悲鳴を上げた。腰が抜けて道路の真ん中に倒れこんだ誠也の前に、あの悪魔が立っていた。本の情報が正しければ、名前はアルファだ。あの時と同じ、恐ろしい姿をしている。


「ああああああああ」


 この姿を見た者が次々と今まで生きてきて聞いたこともない声をあげた。そして、我が先にと目の前の人を押しのけて、蹴飛ばして、近くの建物に逃げていく。


 唯一動かずにじっとしていたのが、誠也だった。


「また俺を殺す気?」


 悪魔はニヤッと笑うことも、あの低い声を発すこともなく、ゆっくりと誠也に近づいた。


「どうする気だよ」


 すると突然、上空からパリンというガラスの割れる音が聞こえた。見上げると、ビルの窓ガラスが割れて、破片が誠也に降りかかってくるところだった。


「今度こそ死ぬ」


 誠也は目をつぶったが、ガラスの破片は降ってこなかった。近くで地面にぶつかって砕ける音が響いた。

 悪魔が大きな翼を広げて、誠也を守ったのだった。


「俺は間違っていた。苦痛は押し付けるものではないな」


 悪魔は低い声を唸らせた。


 すると、今度は大きなトラックが猛スピードで二人の元めがけて走ってきた。


「誠也、お前は頑張った。まだ死なせたくないよ」


 トラックが悪魔に接触する直前のタイミングで、悪魔が大きな翼を返すように羽ばたかせた。トラックは物理法則を無視して反対方向へと吹っ飛んでいった。

トラックがビルにぶつかる衝撃音がした直後に周囲から悲鳴が上がる。

次いで、上空に煙を上げたヘリが姿を現した。大きく回転しながらも軌道はこちらに向いている。いくら悪魔が邪魔しようと、誠也は死の運命から逃れられないようだ。

近くのビルに一度プロペラをぶつけると、回転を増して誠也に襲い掛かった。


「ああああああああ」


 悪魔が宙に浮いて、ヘリに立ち向かって行った。



 渋谷の有名なスクランブル交差点は黒い煙に覆われた。周辺の建物は半壊し、コンクリートの塊や飛び散ったガラスの破片で、以前の面影は微塵もない。悪魔の力も神のつくったルールの中では無意味なようだった。

 悪魔が瓦礫をかき分けると、胸に鉄骨の突き刺さった誠也が倒れていた。赤い血が上半身を濡らしていた。


「すまない」


 悪魔は初めて謝った。


「仕方ない。寿命を縮めたわけじゃないから。定めだよ」


 大賀の声だった。

 誠也は息絶え絶えに言った。


「さようなら・・・」

「まだだ」


 悪魔は誠也の声を遮った。


「苦痛は押し付けるものではないとよくわかった。俺は何をしたかったのか・・・」


 天使が言った。


「人生ってなんだろうね」


 誠也が言った。


「苦痛も快楽もあってこそ、なんだろうな。でも、なぜそこまでして人間を見守るんだ?」


 天使が言った。


「この世界は生まれ変わりのシステムでできているんだよ」


 悪魔が言った。


「死んだ人間は天使か悪魔として神に仕えることになる」


 天使が言った。


「神に仕えるという仕事をまっとうした者は、人間界に戻れるのさ。何でもできて何にもできない人間にね。皆、一生懸命働くさ。でなければ一生神の遣いだからね」


 まだかろうじて意識の残る誠也が言った。


「でも、どうしてそんなに・・・」


 悪魔が言った。


「なぜかって・・・人間になりたいからだよ」


 こうして誠也は亡くなった。

 アルファとオメガは人々からこの事件の記憶を消した。

 世界に日常が戻った。



 誠也は目を覚ました。

 そこは夕方の公園だった。彼はど真ん中に仰向けになっていた。


「大丈夫かい?」


 頭上から声がして慌てて起き上がると、犬を連れた男性が立っていた。

どこかで見たような光景だ。誠也は飛び起きて男性を見た。


「呼びかけても反応がなかったから。何か、嫌なことでもあったのかい?」


 なんとなく手首を見たが、特別変なことはなかった。

 

 誠也は立ち上がると家へと帰っていった。

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