3話

 酒も肴も会話も途切れずに進んでいく。ロシア人の嗜むを侮ってはいけない。ウォッカよりワインのキリルで「あんまり飲めない方」と言うが、日本人の感覚でワイン一本あけて顔が変わらないのは、「あんまり飲めない方」とは表現しない。白身魚のアクアパッツァとゴルゴンゾーラチーズのリゾットを胃に収めながら、ここ数年聞きたかったことを、酒の力を借りながら聞いてみる。


「キリルはさぁ、スケーターやめたいって思ったことある? スケーターっていうか、アマチュア」


 無神経と軽薄さが服を着て歩いているような俺だが、酒が入っていてもこの質問をするのは、腹に力が込もった。


 出会った頃、彼はまだ16歳だった。それから11年経った。来月で27歳になる弟分の横顔は、紅顔の美少年から精悍な青年のものへと変わっていた。犬のいいところを集めれば彼のような人間になるだろう。愛嬌があって優しい。人懐っこく、聡明。なによりも、自分の考えを水のようにさらりと伝えられる。それでいて、押し付けがましくない。だから彼はあまりネガティブなことは言わない。

 当たり前だが、11年は長い。大学生だった男の子が結婚して、幼稚園生ぐらいの子供がいてもおかしくない。小学校一年生でスケートを始めたてだった哲也も、高校二年生になって、世界を舞台に戦うスケーターになった。人一人の人生が劇的に変わる時間だ。


 その時間、休む事なくシニアの舞台で滑り続けている。実力がありながら大舞台に恵まれないことも、手酷い怪我をしたこともあったが、シーズンそのものを丸々休むことはなかった。

 男子シングルでは二十代前後に肉体的なピークが訪れる。二十代半ばにもなると、プロスケーターに転向する選手も多い。彼と同じ世界ジュニアでメダルを取った選手は、二人とも競技から身を引いている。引退の二文字が否応なくちらついてくる世代だ。 

 だから聞いてみたかった。やめたいと思ったことあるのかと。


「あるよ」


 そりゃあ、これだけ長くやってればねぇと彼は続けた。そして一番やめたいと思ったのは、二回の五輪シーズンだという。


「ソチの方がきつかったなぁ。原因が自分の失敗以外にもあったからさ。正直、どっちの時も立ち直れる自信がなかったよ。俺も怪我が多いし、五輪とは縁がないしね」


 ……トリノ直後に時期エースと期待された彼だが、彼は一度も五輪旗の下で滑ったことがない。バンクーバーは怪我。ソチは……あまり触れて欲しくないだろう。少なくともワイングラスを傾けながら話す内容ではない。よく世界選手権で二枠持ち帰れたと思う。


「でもさ、そういう時確かにやめたいって思うんだけど、やめた後の自分が想像できなかったし、やめたとしても、やっぱりやめなきゃよかったってグダグダしている自分の方が想像できたっていうか。もしやめるってなったら、毎日練習のためにリンクに行かなくなる、ってことだよね」


 今のままそういう生活になるとは考えられなかった、と彼は言った。


「自分が辛いときにした決断って、あんまり信用できないしねぇ。それだったら、毎日同じようにリンクに来て、新しいプログラムを作ったり苦手な場所を練習して、試合のための準備をしていた方が時間が有意義な気がしたよ。五輪だけが試合じゃないし、他の種類のクワドだって練習中だしね。そーやってやってきたら、いつのまにか10年経っちゃったよ。」


 頷きながら、ああこの子は、本当にスケートと、スケーターである自分が好きで好きで仕方がないのだ、と思った。


「我ながら凄いと思うよ。いい事もあったけど、悪いことも少なくなかったしね。ソチの後、後進のためにさっさと辞めろってお偉いさんに言われたときロシア正教に出家しようと一瞬本気で考えたけど。結局悪いこと全部、俺がアマチュアスケーターを引退する理由にはならなかったよ」


 だから世界選手権で自分がまだやれることを証明したかったのだ。結果は五位。

 選手としての在りようは人それぞれだ。五輪のメダルのために滑る選手もいれば、国のために滑る選手もいる。氷がなくては生きられない選手もいるように、氷と存在が直結しているような選手もいる。共通するのは、皆スケートを愛している、ということだ。

 自分の在りようにだけ拘って他を批判するような愚かしい真似はしたくない。

 これも一つのスケートに対する愛の形で、スケーターとしての理想の一つだ。


「それに、長くやっていれば長くやっているなりにいいことはあるよ。マサチカ。俺はマサチカと同じ試合には出られなかったけれど、俺が憧れた人が手塩にかけて育てた選手を、叩き潰す楽しみだってあるんだからさ。」


 思わず苦い笑いを返した。……そうくるか。


「テツヤはいい選手だね。派手さはないけど、人目をひく綺麗さがある。だから戦えて嬉しいよ。」

 そりゃあ指導者冥利につきるってもんだ。

「まぁね。でも、簡単には叩き潰させないよ。なんつったって、可愛い一番弟子だからね」


 ここまでたらふく飲んで食べて、しかしデザートを抜かすという頭はキリルには無い。オレンジ風味のクレームブリュレとエスプレッソまでキッチリ頂いた。もちろん俺もだ。


「あーうまい。脳みそ溶けそう」


 うまいものには人の語彙を激減させる効果があるようだった。さっき饒舌に自らについて語っていたキリルも、糖分が脳の襞に入り込んでグダグダになっている。もちろん酒も入っているだろう。そんな弟分を横に、俺はアフォガードをバーボンで流し込んだ。

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