2話


 かつてステートアマチュア制度というものがあった。一言で言えばソ連時代、「国がアスリートにお金を出すから然るべき成績を出してね」制度だ。シンプルだが非常に効果があり、ソ連のスポーツ選手がやたらめったら強かった要因の一つだ。国がお金を出す→スポーツに関する環境が整っている→選手が競技に集中する→スポーツでいい成績が出る→国から報奨金が出る……というサイクルが出来上がっていた。


 しかしこれも過去の遺産だ。ソ連が崩壊してロシアになり、国からの援助はめっきりと減った。その後10年はどのカテゴリーも最強ロシアを疑う者はいなかった。10年……トリノ五輪までは。


 男子ではこのステートアマチュア制度の最後の遺産と呼ばれたユーリ・ヴォドレゾフがトリノ五輪を最後に引退し……その後にロシア男子の後継者として目されたのが、キリルだった。トリノ五輪直後の世界ジュニアでは、初出場ながら金メダルを手にしたのもその要因だろう。時期バンクーバー五輪のロシアエース候補と。

 だが。


「とりあえず俺、ジャックダニエルをロックで」

「いきなり飛ばすなぁ。マサチカ。じゃあ俺は、スパークリングの白で」

「わあキリル、女子力たっかー。大体そこはスパークリングとか言わないでシャンパンにしなよ」

「このぐらいが丁度いいんだよ」


 ……ロシア人は酒飲みという印象が強い。ウォッカを白米代わりにガバガバのむ奴がいるが、キリルは少し違う。ウォッカよりもワイン。それも、飯に合わせて嗜む派だ。ものすごく親近感が湧く。俺だって中華に合わせて酒をガバガバ嗜む。ーーそれって嗜むっていいませんよ、という弟子の声が聞こえてきそうだ。


 平日は夜。しかも週の半ばなので、店が開店する五時に入店すると、客もまばらになるので好きな席を選べる。入ったのはメニューが多国籍な居酒屋だ。奥の方のテーブル席を取り、薄いワイングラスと厚手のロックグラスで軽く乾杯をする。この乾杯は義兄弟の再会と、もう一つ。キリルにとって念願の、日本のアイスショーに始めて呼ばれたことを記念していた。


「日本のアイスショーって、みんなが言う通り凄いですね」

「大袈裟だなぁキリルは。どこも一緒だって。3公演もやったんだから、もう慣れたでしょ」

「全然慣れません! 日本のショーはどこの国よりもお客さんが入ってくれるって聞いてるよ。だから演技のし甲斐がありそうで、それがまた怖いんですよ」


 今の日本におけるフィギュアスケート事情は、リレハンメル後のスケートバブルだった頃のアメリカみたいなもんか、と思う。トーニャ・ハーディングの問題行動でアメリカは一気にフィギュアスケートの注目が高まり、ソルトレイクまではスケーターも主催者もウハウハに潤う時代だったのだ。今の日本は、トリノから続くスケートバブルが続いている状態だ。


 トリノで日本人初のフィギュアスケートの金メダリストが誕生し、バンクーバーでは紀ノ川彗が男子シングルではじめてのメダルを手にし、続くソチ五輪では現在の日本のエース、菅原出雲が日本人初の男子シングルの金メダリストになった。実力者が連綿と現れる羨ましい時代であり、シングル競技において日本がフィギュアスケート大国だと疑う人間はいないだろう。


 そんなフィギュアスケート大国の日本だが、アイスショービジネスも非常に盛んになってきたのが現在だ。特にシーズンオフになれば週末ではどこかでアイスショーが開催される。日本のトップスケーターからに海外の人気スケーターまで、有名スケーターの招致に余念がない。

 しかし、全てのショースケーターにとって、日本がいい市場なのかと言われたらそうでもない。日本のスケート人気は、フィギュアスケートそのものの人気というよりも、全てスケーターの人気と言ってもいい。人気のスケーターが出演するから、ショーに客が集まる。ショー文化が根付いたヨーロッパ圏に比べると、そのあたりは遅れている気がする。


 それでも、大事な弟分が呼ばれたのは喜ばしいし、彼のようなスケーターと同じショーに出演するのは、素直に嬉しいのだ。


「ホタテと真鯛のアヒージョなんてどうよ? 油まみれで美味いよ?」

「そんな美味すぎて昇天した挙句に地獄に突き落とすような食べ物進めないでくださいよ 。明日体重計が怖くて見れない」

「スパークリングには合うよ?」

「甘い誘惑に乗せようとしないでください」


 俺が提案した油まみれのメニューをやんわりと退け、しかし彼が選んだのはエビと鮭のフリッターだった。疑いようなく揚げ物。しかもマヨネーズで食べる。どっちが油まみれなのだろう。


「いつぶりだっけ、会うのは」

「2年ぶりですよ。2年と4ヶ月ぶりです。ソチ後に開催された世界選手権。フリーの後にちょっと話した」

「ああ、そうだった」


 ソチ五輪の直後の世界選手権は、日本は埼玉県さいたま市で開催された。当時哲也はジュニアだったし、誰かのコーチとして帯同することはなかった。

 テレビ中継の解説席に呼ばれたのだ。男子シングルの担当として。

 その時にキリルは、たった一人のロシア代表として出場したのだ。


『ーー彼は先月のソチ五輪、惜しくも代表を逃したわけですけれども』


 実況席のアナウンサーはフィギュアスケートに対して非常に勉強熱心で、ルールから出場した選手の大体を把握していた。どの選手の何が得意で、どんなプログラムを滑るのか。もちろん、キリルがどのように五輪の代表を逃したかも。


『ええ。ですが、彼が五輪にふさわしくなかった、と私は思いません。だからこの場にいるのです』


 この言葉を吐く時、解説という立場を少し放棄した自覚がある。世界選手権と五輪は大会のグレードが実は同じだ。あまり知られてはいないのは、五輪という場所が四年に一度のスポーツの祭典、という意味があるからだろう。それでも、五輪ばかりが特別視されて同等の大会価値をもつ世界選手権がないがしろにされてはたまらない。


「あの時の俺、ひどい顔していたでしょう?」

「いやぁ悪いんだけど、俺も大して覚えてなくってさ。若年性のボケが始まったんだよ」

「ひどいなマサチカは」


 誤魔化すように、俺はジャックダニエルに口をつけた。もちろんしっかり覚えている。しかし、キリル本人がいうほど酷い顔ではなかった。いつもの彼が愛嬌のあるシベリアンハスキーなら、その時の彼は傷ついたところから立ち直ろうとしているシベリアンハスキーという顔だった。だから演技を纏められたのだ。彼のおかげで、ロシアは一枠だった世界選手権の代表枠が次の年は二枠に増えた。


 酒を飲み、肴を共にしながら、キリルの近況を聞く。モスクワは最近六月でも暑い。地下鉄が特に地獄だ。交通手段として車を買ったこと。しかもドイツ製でもなく日本製。中古でもレクサスは人気らしい。練習拠点のモスクワのリンクが改修工事に入り、少しだけ近代的なデザインになるらしいとのこと。ターシャは設備がよくなるならさっさと変わってほしいとぼやいていた。ターシャはキリルの現在のコーチで、本名はタチアナ・イニシコワという。元シングルスケーターのすらっとしたロシア美人だ。俺の一つ前の世代で活躍していた。フリッターもアヒージョも終わったので、今度はノンオイルのサラダと九種類の野菜のテリーヌを注文する。完全に順序が逆だ。体重計を気にしないといけないのは、二十代のキリルではなくいい年した中年の俺の方だ。


 たまにドラマと映画の小説の話になる。彼は結構な読書家で、海外遠征の時はお守りのように本を持ってくる。カバーを見せてくれることもあるが、会話は出来ても読解は苦手なので、彼が読んでいるネイティブなロシア語の物語はサッパリわからない。どんな内容? 四つの名前をもつ聖者の物語ですよ。遠征の時に本二冊って結構重くない? そうでもないですよ。ポケットサイズのものもたくさんありますし。クリマイの最新シーズン見た? まだ9シーズン目です。ていうか、最新シーズンでホッチがいなくなるって本当ですか?


「マサチカは最近どうなんですか?」

「まあ、オフシーズンだし。ショーがない時は相変わらずリンクと家の往復だねぇ。ああでも、8月にペテルブルクで、ユーリと一緒にショーに出るよ」


 プロになってもう10年、その間にもプロデビューしたアマチュア選手は沢山いる。中には五輪のメダリストも世界選手権の金メダリストもいる。それでも俺にショーのオファーが海外からいただけるのは、本当に感謝しかない。出演するのはユーリ・ヴォドレゾフ主催のアイスショー。トリノ五輪戴冠10周年記念のショーだ。


「それはすごい……。あ、振り付けはしないんですか? マサチカの振付、滑りたいっていうスケーター多いでしょう?」


 もっと色んなスケーターに振り付けしないのか。それは周りの人間からよく言われる。俺の師匠……星崎総一郎も、振付を受けないのですか? と聞いてくるのだ。彼からは人の娘に、品の無いプログラムを作るなと釘を刺されたことがあるほどだ。よく聞かれる原因は、弟子がジュニアの時に振り付けた「千と千尋の神隠し」の評価がだいぶ高かったからだろう。お陰で何故か、デトロイト在住のアメリカ人から振付の依頼がきてしまった。……俺の振付以上になにか理由がありそうだったが、まぁそれは、今は置いておこう。


 作品を作るのは大好きだ。新しい曲を聴いて、どう表現すればいいのか模索する。実際に振り付けの段になって、一から曲の世界を氷の上で作り出す。次に考えるのはショーの時、どういう風に滑ればお客さんが楽しんでくれるか。自分の技術を見つめなおして、新しい技を作ったり、作品をつくるのがするのが楽しくて仕方がない。小説家が次々に新しい作品を出すのと似ているだろう。同じように、例えば弟子の新しい魅力を出すにはどうしたらいいか。現時点での最大限の技術で、最高の表現を引き出すには、どう滑らせ、表現の中で昇華させていくか。それは「氷の上で新しいものを生み出す」という、創作者にとっては非常に尊い作業だと思う。


 だが、競技になると話は別だ。世の中にはもっと素晴らしいコレオグラファーが沢山いるのだし、俺の本職はプロスケーターで指導者なのだから、そっちの仕事を優先したかった。


「へぇ、意外ですね。マサチカのことだから、ノリノリで受けているのかと思った」

「いやぁ、でもねぇ」

「俺だってマサチカの作品滑ってみたいですよ」

「……いいこと言ってくれるね」

「もし、マサチカが俺を振り付けるのだとしたら、何にしますか?」


 キリルだったらどうだろう。二十代中頃から、ロシア人作曲家の音がよく似合うようになった。五位になった2014年世界選手権も、そういえばニコライ=リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」だった。年がもたらす魅力というのも確実に出てくる。だが……


「そうだねぇ……。思い切って、ジャズなんてやってみない?」


 長いキャリアの中で、彼はジャズは滑ったことがないはずだ。


「ジャズですか……考えたことなかったです。あんまり似合わないと思っていたので」


 それはフィギュアスケートでよく使われるジャズの曲が、リズム感もりもりの跳ね上がるような曲が多いからだろう。テイクファイブ。Sing SingSing。素敵なあなた。大体このあたりの曲は、ステップが得意で踊り心のある選手が滑りたがる。


 しかし曲によってはやれるような気がする。現代の軽快なジャズよりも、男性ヴォーカルがしっとりと歌うような渋みのある曲が似合うだろう。そう、山中千尋よりもビル・エヴァンス。


 考えてもみよう。まずキリルは、愛嬌のあるシベリアンハスキーなイメージが俺の中で強いが、客観的に見れば結構な美青年だ。甘いマスクというより、愛嬌と精悍さが半々な不思議な雰囲気がある。だがちょっと目を伏せるだけで、ギムナジウムの図書室にいるような哀愁と繊細さが増長される。これで甘い言葉でも囁けば、落ちない女はいないだろう。二郎系ラーメンのニンニクマシマシの如く破壊力が凄まじくなる。表現おかしいか。


 だから、甘い言葉の代わりに甘い音のジャズを滑ればいいのだ。深いエッジを使った重厚なスケーティングに、姿勢の綺麗なスピン。ステップも年々よくなっていっている。ゆとりのあるスケートから繰り出されるワルツ・フォー・デイビー。トランジッションもりもりのスケートも勿論魅力的だが、すっと滑るだけでも魅力なスケートもある。そこから繰り出される完璧な放物線のトリプルアクセル。想像してみて……うん。自分で言っちゃなんだけど、イケる気がしている。

 一通り俺の案を聞いたキリルは、穏やかに口角を上げる。


「じゃあ平昌五輪のシーズンで、それを俺に振り付けてください。このプログラムで勝負に出ますから」


 そうくるか。

 少し考える。繰り返すが、自分の本職は振付師じゃない。世の中には俺じゃなくても素晴らしいコレオグラファーはいるのだ。哲也のプログラムの評価が高いのは、俺の創作者としての性と選手の個性が合致したからに過ぎない。

 だけど。


「そうだねぇ……じゃあ来年、うちに来たらいい。とびっきりのものを作るよ」


 平昌五輪はもう次のシーズンだ。ロシア男子が三枠になるか二枠になるか、現段階ではわからない。ただ、世界選手権銀メダリストのアンドレイ・ヴォルコフの出場は硬いと今から言われている。来年、国内を勝ち抜けるかどうか。繰り返すがスポーツは水物だから、本当にわからないのだ。


 そんな五輪出場をかけたチャレンジに、俺のプログラムを使いたいと言ったのだ。

 なら断る理由はない。


「約束ですよ」

「おう」


 子どもがよくやる指切りげんまんの代わりに、もう一回グラスを合わせた。

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