お祝いはスパークリングワインで

神山雪

1話

 

 JR名古屋駅。東京から新大阪までをつなぐ東海道新幹線の中間地点は、都会的なエッセンスと、都会と言いたい田舎のエッセンスがうまいところ混ざり合っている。これから首都に向かうもの。これから古都へと向かう者。古都を過ぎ、さらに西に向かう者もいるだろう。名古屋は西への入り口だと思っている。台湾ラーメン。徳川美術館。コメダ珈琲。櫃まぶし。……フィギュアスケートの街。


 そして名古屋はフィギュアスケーターなら割と頻繁に来る場所だ。全日本選手権の主な開催地の一つだし、GPシリーズ等の国際大会も開かれる。来年のGPフイナルの開催地は、そういえば名古屋だ。来年、指導している鮎川哲也の調子がよければ6人の中に選ばれるかもしれないが、スポーツは水物だから本当にわからない。


 2016年現在。男子シングルはとんでもない技術改革の最中にある。哲也いわく別の惑星にいるあんちくしょうこと、ロシア出身の宇宙人アンドレイ・ヴォルコフを中心に、空前のクワドジャンプ合戦が繰り広げられている。

 もちろんクワドだけじゃない。ステップでレベル4を得て。ポジション変化が多彩なスピンを回り、スケートの質も抜かりなく質がいい。トータルパッケージを求められている時代だ。


 ……午後四時。関西の名阪テレビ主催のキャッスル・オン・アイスは名古屋公演が昨日終わり、明日には来週末のショーの為に大阪にむかわなくてはいけない。今日は中休みの日で、一緒に招致された弟子も、仲のいいスケーターと息抜きに出かけていった。


 それは俺も同じだった。今日は人と約束をしている。


 待ち人はすぐにやってきた。彼は俺を見つけると、手を挙げて小走りにやってきた。少しブラウンが入った金髪にターコイズブルーの瞳。白いシャツに黒のパンツというスタイル。綺麗に整った顔立ちは、笑うと目尻が少し垂れる。パンツ越しにも大腿筋が立派に発達しているのが分かる。クワドジャンパーの宿命だ。

 年の少し離れた、よく出来た弟のような存在。


「おうキリル。ピエール・マルコリーニのチョコ食べる?」


 目の前のロシア人は甘党だった。名古屋駅の駅ナカにはピエール・マルコリーニの店舗があると聞いて、早速買ってきたものだ。情報元は安川杏奈ちゃん。彼女は名古屋駅の駅ナカのヘビーユーザーなのだ。お陰で目の前のロシア人の目尻が垂れるような、うまいチョコが買えた。


「これから食べにいくんじゃないですか、マサチカ。でも、ひとつだけ今貰っていいですか?」


 よくできた弟分は目元を少し緩ませる。彼の印象は出会った頃から変わらない。愛嬌のあるシベリアンハスキー。

 キリル・ニキーチン、二十六歳。国籍はロシア。現役のアマチュアフィギュアスケーター。


 *


 俺、つまり堤昌親とキリル・ニキーチンの出会いは2005年まで遡らなくてはならない。2005年。まだ俺が競技スケーターだった頃。そして、最後のシーズンと決めた頃だ。

 トリノ五輪シーズン、5月から7月にかけて、当時師事していた星崎先生ーー星崎雅の父親であるーーの元を離れてロシアに渡った。理由はいろいろある。たとえばその前の世界選手権で途中棄権したこととか、それによって少し先生とギクシャクしたから一旦離れてみようとか、五輪用のフリーのプログラムをアレーナ・チャイコフスカヤに振り付けを依頼したから、そのついでに長期合宿をしてこようとか。


 その時にホームステイ先に受け入れてくれたのが、モスクワにあるキリルの家だった。


「マサチカ! 実はファンなんです! サインくださいお願いします!」


 当時の彼はまだ16歳で、ジュニアだった。初めて聞いた時は驚いた。当時、ロシアにはユーリ・ヴォドレゾフという絶対的王者が君臨しており、彼に憧れるロシア男子も多かったのは想像に硬くない。ユーリは俺の友人でもあるが、俺は彼に一度も勝てなかった。まぁそれは今はどうでもいい。


「ユーリはユーリで凄いですが、マサチカの滑りが好きなんです。ザ・侍って感じがして!」


 そんな嬉しいことを言ってくれた。これ、時代が時代ならGEBに連行されていたな、と当時思ったことをはっきりと覚えている。


 モスクワに滞在中、彼にはかなりお世話になった。ロシア語からロシアの料理、文化、歴史に町の事情。どうしたらスリにあわないか。地下鉄の乗り方。赤の広場にクレムリン宮殿。英語を交えてのロシア語で、様々なことを教えてもらった。彼のお陰で、日常会話程度のロシア語は話せるようになった。

 代わりに俺は彼に、どうやったら綺麗な四回転が飛べるようになるか。今と昔の採点法の違い。ジャッジは何を求めているか。海外遠征の体験談。自分の技術や培ってきたものを、彼は目を輝かせながら聞いてくれたものだ。この時にはじめて、誰かに教えることの楽しさを知ったものだ。キリルみたいな弟がいると楽しいだろうねと言ったら、彼はマサチカみたいな兄がいると楽しいけど苦労するかもねと穏やかな声で返してきた。苦労ってなんだよ。このやりとりが義兄弟の契りのようなものだっただろう。


 以降親しくなり、何かと世話をやいたり逆に世話になったり、一緒にメシを食べたり、日本の大河ドラマのDVDを貸したり逆にロシアのマイナーメロドラマのDVDを貸してもらってりしている。

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