蜘蛛の糸③

 本当に良いのかと、赤い瞳は幾度も問う。

 その問いに、ヴァランは何度も是を示す。

 何度だって応えてやる。そうでなくてはきっと、この選択は割に合わない。

 少年にとっても、盗賊にとっても。

 少年はすべてを許すことを知り、すべてを捧げることを知っていた。

 そうして、痛みも嘆きも憂いも怒りも、ヴァランのすべてを受け入れた少年に、返せるものなど一つとしてなかった。


 何もなかったのだと知っていた。だから、奪って生きていくことを選んだ。

 何もないのだと理解していた。それでも、与えてくれる手があった。


「王サマ」

 ようやく得た呼び名は少年にそぐわず、ギシギシと世界が軋みを上げる。息苦しいわけではないのだろう。ただ、歪んでいるだけの話だった。咎めるように響き渡るその音は、決して心地のよいものではない。

「王サマ」

 それでも、ヴァランは彼をそう呼ばった。それ以外に、彼の存在を証明する術を知らなかった。

「ヴァラン……」

 振り返った彼は困ったような顔をしていて、その理由は、問うまでもない。

 仕方が、ないのだ。

『……誰も、呼ばないんだ』

 かつてまみえた寂しそうな瞳を思い返す。その癖、満足かと問うた声に返ったのは、己の在り方に疑問すら抱いていない幼さだった。

『構わないさ。オレはそのためにいるからな』

 幸福に綻んだ花は、どうあろうと救われようとしない。名を奪われてなお、世界に搾取を許す。己が身の喰われていく事実など、どこにもないと笑う。

 それが王の在り方だというのなら、ヴァランに理解などできようもない。

『悪いが、名は教えられないんだ。名乗れなくてすまないな、ヴァラン』

 されども、あの日に浮かべられた慈愛の笑みだけは、確かにヴァランに対してのものだった。

 だから、仕方がないのだ。

 少年の有り様をヴァランが認めることは一生ない。それでもヴァランは、少年とともにある道を選んだ。己に名さえ告げることのできない、寂しい少年の手を掴んだ。

 だから、仕方がないのだ。

 答えが決まっているのなら悩むことなど無意味であり、そもそもヴァランには悩みなど似合わない。

 自分たちはどこから来て、どこへ行こうというのか。それすら分からずとも、もう構わないのだ。

「行こうぜ、王サマ」

 呼びかけて、少年の手を引いて歩き出す。触れる温度を振り払われることはなく、その小さな奇跡を噛み締める。

 ざわざわと風がざわついて、周囲の景色は虹の光を帯びてヴァランの視界に映される。眩暈がするほどに美しいこの世界を、輝かせている太陽はあまりに小さい。

 ともすれば幸福とさえ称してしまえそうなこの一瞬を、されども言葉にすることは誰にも叶わない。自然と己の歩幅を相手に合わせていることさえ、ヴァラン自身知らずにいる。

 それが、彼にとってどれほどの価値を持つかすら。

「今日は機嫌がいいんだな」

 ぽそりと宙に散った少年の呟きを拾い上げ、ヴァランは繋いだ手に力を込めた。

 手放しなどしない。

 もう二度と、失うことはごめんだった。

 見つけたものは本物で、出会ったことは本当で。

 重ねた時間は何一つとして捨てられないから、抱えて縋って生きていく。迷子の盗賊に生まれて初めて与えられた、たった一つの宝物なのだ。

 だから、ヴァランの望むものは一つだけ。

 もう一生どこにもたどり着けなくても構わない。贋物だろうと本物だろうと、どちらでもよいのだ。

 この少年さえ、傍にあるのなら――……。

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