幕間② 一握の星




 願えるのは、ほんのひと握りだけ。




▽*△ Φ ▽*△


 からから、からから。

 砂にまみれた髑髏が詠う。

 ――憎め、恨め。我らが仇に、復讐を。

 どろどろと張り付くような憎悪と悔恨が、いつまでも脳に響く。決して忘れてはならない、あの日から積み重ねられていく亡霊たちの怨嗟に、ヴァランは唸るように返す。

(わかってる)

 わかっているのだ。

 無残に殺され、国の礎とされた、同胞たちの無念を。罪なきまま屠られたその怒りを。

 あの光景を目にしたその瞬間から、ヴァランの生は彼らのためだけにある。その無念を晴らさねば、ヴァランには「今」がない。

 生きる意味など、何一つとして。

「ヴァラン」

 ふいに、暗闇の回廊を割るようにして、一つの声がヴァランの鼓膜を震わせた。

 凛とした、濁りを掬うように澄んだ、涼やかな声。

「ヴァラン」

 己を呼ぶ、その声を、ヴァランは知っている。なぜだがいつもヴァランに纏わり付いてくる、鬱陶しい少年。利用するためだとしても、親しげに交流する必要などないというのに、それでも振り払えない、小さな手。

 ざあっと水音が耳朶を打つ。額に触れた冷たい感触が、熱にうなされる身体を癒していく。


 ヴァラン。


 名前を呼ぶ声は、酷く優しい。

「大丈夫だ、ヴァラン」

 そっと頬に手が添えられる。

 大丈夫、大丈夫と、まるで赤子でもあやすかのように繰り返される言葉。

 触れる温度は冷たくて、火照った体には心地が良い。手を伸ばして掴めば、驚く気配がしたけれど、ヴァランの知ったことではなかった。

 黙ってそこにいれば、それでいい。

 口に出したつもりはなかったが、押し殺したような笑いが聞こえたから、恐らく意図は伝わったのだろう。こういうところは無駄に聡くある。いつもは年相応の子供に見えるのに、時としてどこか大人びた雰囲気を見せる彼の正体を、ヴァランは正確には知らない。恐らく神官の子供なのだろうと見当をつけてはいるけれど、それ以上踏み込んで聞く気はなぜだか起きなかった。

「お前が眠るまで、傍にいるさ」

「……ああ」

 ふしぎと少年の言葉にはひどく安心できる。

(……安心?)

 己の心情を理解し、ヴァランは首を傾げる。

 安心とは、なんだろう。

 同胞を殺されたあの日から、ただ一人となったあの日から、ヴァランには心安らげる場所などなかった。

 そんな場所など、できるはずもなかった。

 ならば、今のは一体、何だというのだろう。

「大丈夫だぜ、ヴァラン」

 ヴァランの思考を遮るように、幼い声が響く。

 ああ、全く。

 出会った当初から、ずっとそうだった。まるで己の考えなどお見通し、と言わんばかりの態度には腹が立つ。それなのに、どうしてか、この空間を心地良いと思ってしまうのだ。その理由が、少年が相手であるがゆえか、それとも誰でも良かったのか、ヴァランにはまだわからない。

 今はただ、このぬくもりを手放したくないと、そう静かに思う。

 腕を掴む手になお力を込めれば、少年がくつくつと笑い出した。

 それすら悪くないと思ってしまうのだから、ヴァランにしてみれば笑えない話だ。それでも、そんな少年の存在に安心し、ヴァランはゆっくりと意識を閉ざした。



▽*△ Φ ▽*△




 太陽が消える日を知っているか。

 そんな雑談をしたのは珍しく夜も近い頃合いのことだった。沈んでいく日差しを見つめながら、世間話のように振られて、何を言っているんだこいつはとヴァランは怪訝に眉を顰めた。

「は? あれは沈むもんだろ」

「日没ではなく、昼に消えるんだ」

「昼に?」

「蛇が、太陽を飲み込むんだぜ」

 そう書いてあるのを見ただけで、実際には見たことないんだけどな。

「なんだそれ」

 神官様の子のことだ、そういう文献やら何やらはよく目にするのだろう。だが、聞いたこともない説にヴァランが素直に疑問を口にすれば、少年は簡単に概要を説明した。

 曰く。

 昔々、蛇と鳥の兄弟がいた。彼らはとても仲良く日々を送っていたが、ある時彼らの前に神様が現れた。神様はとても困っていて、それを見た鳥は彼に手を貸してその願いを叶えた。神様は礼にと鳥に太陽の権能を引き渡し、鳥は世界を輝かす太陽となった。

 けれどもそれに嫉妬した蛇が、ある日鳥を呑み込んでしまった。世界から太陽が消え、全ては闇に覆われたが、知らせを受けた神様の助けを得て鳥は蛇の腹から出てこられた。鳥が兄弟である蛇を助けてくれるように頼んだため、命を奪われることはなかったが、以来、蛇は神の力が弱まる時に太陽である鳥を狙いにくるのだという。

「くだらねえ」

 話を聞き終えたヴァランはそう吐き捨てた。

「まあ、子供への寝物語だしな。多少はわかりやすくしてあるみたいだな」

 何かを思い返すようにそっと目を伏せた少年は、ヴァランの反応も理解できると頷く。

「とはいえ、実際に太陽が消えた記録はいくつか残っているんだぜ」

 ヴァランはうげえっという顔で鳥肌の立った腕をさすった。世に起こる現象を神だの何だのに仕立て上げ、権力の礎にしようというその態度が気色悪い。ハハッと少年が笑ったが、何がおかしいのかヴァランにはさっぱりだ。

「ところでヴァラン、お前はどう思う」

「どうって、気色悪い以外に思うことなんざあるかよ」

「それはいい。聞きたいのはそうじゃなくて、蛇が鳥を呑み込んだのだのはなぜだと思う?」

「は? さっきてめえが話してたじゃねえか。嫉妬したんだろ」

 そんなことをわざわざ聞いてくる理由がわからない。どっかで頭でも打ってきたのかと、ヴァランは少年の頭に手を伸ばした。布の上から押さえた限りでは、どうやらたんこぶはない。ヴァランの行動の意図を汲み取った少年は、わざとらしくふくれっ面を作る。

「相変わらず、お前は失礼だな。話はあくまで子供にわかりやすい理由にしてあるんだ」

 だから、と少年が告げる。

「時々考えるんだ。本当に弟を飲み込むくらいに憎かったのかって」

「弟?」

 急に出てきた表現にヴァランは首を傾げる。

「ん? ――ああ、言ってなかったか。蛇が兄で鳥が弟だった。たまたま見つけた魂子をな、蛇が孵したって話だぜ」

 そんな細かいところまで決められているのか。そもそも羽毛のない蛇が鳥の玉など返せるのか。

 神話というのは実に力を入れる箇所がわからない。神が光をもたらしただの地を起こしただの、妙な力で雑な説明を入れる癖に、親族間の関係性を掘り下げて書いていることもあるときた。単に語る人間側の習性か、くだらない争いは血縁だろうとどこでも起こりうるのだという事実の記述か。どちらでもあるかもしれない。

 どちらにせよ、くだらないことには違いない。

「なあ、考えてみてくれないか」

 いつになく強請る少年に、ヴァランは乗り気でないまま、さてと思考を巡らせる。

「弟食ったやつの気持ち、ねえ」

 沈みゆく太陽。朝が来れば全てを照らすもの。神から与えられた権能であるにせよ、そんな役割を弟が負わされたとしたら。


 ――ヴァラン、と。

 響く声を、幻に聞く。


「別に、憎かったわけじゃねえだろ」

 口をついて出たのは無意識であった。憎いのではない。神から何を与えられようが、それが嫉妬に変わることはない。ならば浮かぶ感情はなんだろうか。卵から返したとはいえ、本来天敵であるはずの己を慕う相手。手を伸ばせば、当たり前のように触れられる温もり。

 そんなもの、神などよりも。

「大事だっただけだ」

 続いた言葉の根拠はない。それでも確かにそうであったのだと、不思議な確信がヴァランの心の内にあった。

 少年は虚をつかれたように目を丸くして、何ともまあまぬけとしか言いようのない表情をしていた。

「んだよ。お前が考えてみろっつったんだろーが」

「――ああ。だが、意外なことを言うんだな」

 まあ確かに、少年の言い分は正当だ。物語には憎いと捉えられるように書かれているのだ。おおむねそう考えるのが普通だろう。それに、少年が話を振った相手はヴァランだ。らしくない答えを出したことは、ヴァランとて自覚している。

 改めて考え直せば何やら気恥ずかしくなり、少年の頭を布の上からガッと押さえた。そもそもがおかしな話題を振ってきた少年が悪い。

「うるせーな! つか、んなどうでもいい話を振った理由はなんだよ」

 オレにとっては別にどうでも良くはないんだけどな、と少年。

「オレが成人する頃にちょうどあるらしい。思い出したから、ついでに聞いてみたんだ」

 その返事に、相変わらずわけわかんねえ奴、とヴァランは心中でごちる。本当に、この少年の思考は読めた試しがない。

「その頃にはオレたちはどうしているかな」

「んな先のことなんざ知るかよ。別に変わんねえだろ」

 なんでもない顔で会って、なんでもない日を過ごして、次の約束もせずに去るのだ。今まで通り、何も変わらない。

 ヴァランの言葉に少年がフフッと楽しげに口角を緩めた。


「そうだな。そうあれること願うよ」


 じゃあな、と背を向けた少年の先では、星が小さく瞬き始めていた。




 それは、ほんの一握りの砂のような――……

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