胡蝶の夢⑤
避けていたのか、避けられていたのか。
救いようのなくなる前に、彼を排さなくては。ヴァランの人生から欠片も残さず消し去って、排除して、そうすれば、まだ大丈夫だから。
ヴァランの内から囁く声は、どこか遠い。ぼんやりと靄がかかった脳が、いつの間にか思考を放棄している。それでも、彼に会わなければならないという焦燥感だけはいつもあった。
痛くて、苦しくて、街中を亡霊のように彷徨い歩いていれば。
陰に覆われた路地の途中、いつものように顔を隠しながら歩く彼を見つけた。誰を探しているでもなく、ただぼうっと道を歩いている。
その姿を見た途端、どろりと黒い果実が弾けた。
「いっ……つ」
壁に叩き付けた小さな体が、痛みに呻く。元より人の通りが少ない路地は周囲に他者の姿がまったくなく、ヴァランの暴行を止める者はいない。もとより、そんなものを気にする余裕もなく、仮に止められたところで止まれるものでもなかった。
少年の胸倉を掴み上げ、ヴァランはあらん限りの激情を叩き付ける。
「てんめえ! 一体オレ様に何しやがった!!」
「ヴァ、ラン……?」
感情の任せるままに怒鳴りつければ、少年から戸惑いの声が上がった。そこで初めて少年はヴァランに気付いた様子で、ゆらりと視線が彷徨い逸らされる。
けれど、そんなものに構っていられる心境ではなかった。
(何で……何で、こんな……)
こんなはずがないのだ。こんなことはおかしい。
目の前にいる少年は、村の一族を滅ぼした王の息子だ。ヴァランが何よりも憎むべき相手だ。
それなのに、どうして。
ふつふつと胸中に溢れていく疑念に顔が歪む。少年を掴む手は震え出し、ギリッと奥歯を強く噛み締めた。そんなヴァランの様子に気付いてか、少年はヴァランの腕へそっと手を添えてまっすぐに見つめてきた。
「ヴァラン、どうした」
静かに、静かに。
どこまでも落ち着いた声で、彼が問う。
「てめえがッ……!」
詰め寄ろうとした声が、喉奥につかえて吐き出せない。
彼が、何をしたと、いうのだろう。
盗賊王ともなろうヴァランが、たったひとりの少年ごときに何を戸惑っているのだろう。
けれども、彼が何かをしたのでなければ、こんな風になるはずがないのだ。
だって、だって、ヴァランにはもう、彼を――……。
(なんで、殺せねえんだよ……!)
少年を、殺せない。
そう、気付いてしまったら、もうだめだった。
どさっと彼が尻餅をつく。それを視線で追うことさえできず、ヴァランはその場に立ち尽くした。
――我らが敵に、復讐を。
溢れる怨嗟の念は、ただただヴァランを導かんとする。それらは長らくヴァランが抱えてきた闇で、目的を果たすその時まで、付き纏う生存意義だった。
なのに、今のヴァランにはそれを果たすことができない。これでは、ヴァランの生は何のためにあったというのか。
「ヴァラン」
彼が、呼びかけてくる。優しく、優しく、幼子に言い聞かせるような声で、すべてを悟ったような顔をして、少年は告げる。
「お前は優しいな、ヴァラン」
「ふざけんなっ!」
なだめるように伸ばされた手を、ヴァランは強い力で叩き落とした。そんな言葉で騙されると思ったら大間違いだ。
ヴァランは、王族を決して許さない。
許さない。許さない。許すことなど、決してない。
「ふざ、ふざけんなっ! ふざけんじゃねえ! こんな、こんなもん……っ」
否定しても、なくそうとしても、とめどなく溢れてくるあたたかなもの。
それはすべて、あの日に奪われ、なくしたはずの。
こんなものなど要らなかった。こんなものは何の意味もない。ヴァランに意味を持たせてくれない。
要らない。
要らない。
要らない。
「ヴァラン」
「触んじゃねえ!」
震えた声が喉から飛び出た。
怒りと、激情と。
その根本にあるものに、少年は触れようとする。幾度振り払っても、彼は諦めることを知らない。
やがてあたたかな手が頬に触れ、ヴァランの目元を滑らかな指が拭う。愛しさのこめられたその動きに、ひくりと唇が震えた。抵抗を忘れたヴァランの頭をかき抱くようにして、少年はその胸元へ彼を引き寄せる。
「すまない。ありがとう」
こんなぬくもりは、知らなくてよかった。謝罪も礼も何一つとして欲しくない。
彼でさえなければ、良かったのに。
決して覆せない事実に。
それでも変わらぬ自身の情に。
ヴァランは初めて、声を上げて泣いた。
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