胡蝶の夢③

 望んだのは、それほど多くのものだったろうか。

 たったひとときの夢と、ほんの少しの安らぎを。

 いつか覚めてしまうものと知りながら、それでも、手放せずにいた。





 ざわざわと騒ぐ人混みをヴァランは抜けていく。いつも以上に賑わいがあるのは、この後に王子の顔見せがあるからだ。先ほど酒場で耳にした噂によれば、どうやら今日は何某かの祝いの日であるらしい。ヴァランの知ったことではないが、国全体が諸手を挙げて浮かれている様には辟易する。

 めでたいことなど何もない。ヴァランにとって幸せになるかもしれなかったものは、ずっとずっと昔に失われてしまった。

 それを奪ったのが王族であること、彼らに屠られた存在があるという事実は、ヴァランしか知らない。

 この地を治める、一人の王。

 民にとって重要なのはヤツの下で働くことだけだ。王は神の代弁者であり、ゆえに民は抗うことを知らない。そんな考えすら起こさない。

 王族は、その立場をいいように使い、かつてある一族を惨殺し抹消した。

 ヴァランだけが知り、覚えているこの国の真実。

 消されてしまった、歴史の断片。

 真実を隠して頂点にあり続ける王族も、それを知らずにのうのうと生きている民どもも、ヴァランにとっては唾棄すべき存在だ。

 許せるものなど、この世界には、何一つとして――。


『ヴァラン』


 ふと、柔らかな笑みが、脳裏を掠めていく。己の名を呼ぶ、澄んだ声に思考が止まる。湧き上がった記憶をなぞり、じくじくと胸中を埋めていく感情にヴァランは顔を顰めた。

 彼と過ごすようになり、もう二年だ。

 決して長くはなく、さりとて短いわけでもない。明確な形を持たず、ヴァランの中で曖昧に浮遊する時間。

 思い出す笑みは、ヴァランの胸をぎゅうぎゅうと締め付けてくる。痛みよりも甘く響くその歪みを、手放せずにいるのは重ねた時間があるからだった。

 ずいぶんと絆されてしまったものだと疎ましくなる一方で、それを悪くないと感じる心もまた存在している。

 同じものを背負った者同士、感じる温度は妙にあたたかく心地良い。

 得られるはずのなかった安らぎを、与えてくれるのは少年だけだった。


 その笑み。その声。その瞳。


 彼のすべてがヴァランを包み、穿たれた空白を埋めるように癒していく。

 だから、ともすれば考えてしまうのだ。

 いつか、共に歩める未来があるのではないか。

 すべてを終えた暁に、伸ばせる手があるのではないか、と。









 気まぐれに足を運んだ先で、ヴァランは思わず立ち止まった。


 ざわめきが遠ざかる。

 目の前ですべてが、急速に色褪せていく。


 ――ヴァラン。


 音のない世界に響くのは、いつもヴァランを呼ぶその声で。

 それが現実なのか、そうでないのかすら、曖昧で。


 ああ、だって。


 民に手を振り微笑む憎き王の、その横に。


 見知った彼が、立っている。






「は、」


 呼吸を忘れかけていた喉から零れ落ちた自身の声に、ヴァランはその場を駆け出していた。

 寄せる人の波をかきわけて、かきわけて、ただ、遠くへ。


「なんっ、だよっ」


 嘘だ、と脳が事実を否定する。

 そんなはずがない、と心臓が騒ぐ。

 そんな己を嘲るように、闇が静かに嗤っている。


 知っていた。

 知らなかった。

 気付いていた。

 理解したくなかった。


 せめぎ合う二つの感情が、ヴァランを翻弄する。

「ふざ、けんな……っ」

 なんで。どうして。

 亡き日々の幼子は問う。

「なんで、あいつなんだよ……っ!」

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