胡蝶の夢②

 ばしゃん。

 勢い良く上がった水飛沫が、太陽の光を受けてきらきらと輝く。濡らさぬようにとまくり上げられた布から、艶めく黒の肢体が覗く。果実のような瑞々しさを伴った肌は、二人の幼さを強調するように潤いに満ちている。熟しきる前の不安定さを抱えながら、少年たちは今日も時を重ねていく。

「ヴァラン!」

 嬉しそうな声でヴァランを呼ぶ少年は、普段は被いたままでいる布を豪快に取り払い、陽光の下へ素顔を晒していた。惜しげもなく捧げ出されたその紅い瞳にヴァランが抱くのは、やはり綺麗だという感想で。

 それがどんな感情から来るのかを明確にすることは未だ叶わなかったが、それに付随する想いだけはヴァランとて自覚していた。

 復讐を、諦めたわけではない。そのための道を今も突き進んでいるし、着実に準備はできている。

 けれども、この少年との日常にヴァランが安らぎを得ているのもまた、確かな事実だ。今さら失うことなど、考えるだけで不愉快だった。

「あんまはしゃいで転ぶんじゃねえぞ」

「わかってるぜ!」

 ばしゃっ、ばしゃっと、黒い足が水の中で躍る。子どものような動作を繰り返す少年は、やはり年相応に見えてしまう。そんな彼に幼い弟でも見るようなまなざしを向けながら、ヴァランもまた水の中に足を浸している。

 オアシスと称されるこの場所には、商人の一座が留まることもあるが、今は彼とヴァランの二人しかいない。ちょうど商人がいなくなる頃合を見計らってヴァランが連れて来たのだから当たり前の話だったが。

 何を気にするでもなくこうしてはしゃぐ少年を見ると、ヴァランとしても遠出をしたかいもあったというものだという気持ちにさせられる。


 青く澄んだ水はきらきらと陽光を反射し続けているる。

 砂に覆われ枯れた地に、ぽつりと浮かんだ水の恵み。

 それは、まるで、少年の存在そのもののようだった。

 すべてを失くし、復讐のためだけの人生に放り込まれた、一筋の光のように。


「おい!」

「あ、わっ!」

 倒れかけた体を支えようとヴァランはとっさに手を伸ばしたが、支えきれずに二人でずぶ濡れになる。倒れこんできた少年の体を受け止めて、ヴァランは深く溜め息を吐いた。

 まったく、手のかかる弟分だった。

「だから言ったろ。ったく」

 しょうがないな、と悪態を吐きながらもヴァランの口元には自然と笑みが浮かんでしまう。

 こんな、何一つ気にかけることもなく、子供のようにはしゃぐ時間を過ごしたのは、いったいいつぶりになるのだろう。あの日の出来事がなければ、今でもヴァランはこんな時間を親兄弟と過ごせていたはずだった。

「すまない、ヴァラン」

 謝罪を述べる少年も口元が緩んでいて、結局お互いに顔を見合わせて笑い合った。

 こういう、ばかみたいな時間を、悪くないとヴァランは思うのだ。それはひどく滑稽なことであるのに、その胸を満たすのは充足感しかない。

 ああ、まったく滑稽だとも。

 神官の子どもと盗賊がこうして過ごしているなど、ずいぶんと笑えない、笑い話だ。


「友だちに、なれたらいいのにな」


 満ち足りた笑みの隙間から、するりと零れ落ちた小さな望みに、ヴァランは目を見張った。


 友だち、と脳がこだまを返す。


 それはなんと陳腐で愛しい幼さだろう。

 彼とヴァランとはかけ離れた存在で、傍にいるのはわずかに積み重ねていくだけの、ただこのひとときだけに過ぎない。

 それでも、この少年はそれを願うのか。

 そうありたいと、願ってくれるのか。

「――なれるわけ、ねえだろっ」

 妙なこそばゆさに反射的に言の葉が散った。けれども、それは少年を傷つけてしまうように思えて、何だか嫌だった。ゆえに募ろうとしたいいわけがヴァランの口から発せられる前に、少年の微笑みが宙を舞っていく。

「フフ、冗談さ」

 そうして、ただの一瞬も陰ることなく返ってきた笑みに、ヴァランは口を噤んでしまう。

 違う、と否定をしたいのに、声の出し方を忘れたかのようにうまく言葉を紡げない。少年が笑っている事実が、ヴァランの中に虚しさを生む。

「すっかり濡れてしまったな。少し乾かしてから帰ろうか」

 ヴァランの上から身体を退けた少年は、丘へ上がってびしょ濡れの服をぎゅっと絞った。

 ざあっと砂に吸い込まれていく淡い水の流れを見つめながら、遅れてヴァランも身体を起こす。

(クソっ)

 いらだっているのは、少年に対してではない。

 寂しさすら過ぎらないことが口惜しく、ヴァランは思わず手を伸ばしていた。

「ヴァラン……?」

「黙ってろ」

 抱きしめた身体は小さく、国の礎にするには頼りがない。

 こんな少年に、いったい何ができるというのだろう。

 名前も自由も、国の奴らに奪われたまま。それなのに、この少年はそれらを構わないと笑うのだ。

 幸福に、微笑むのだ。

 誰かに手を伸ばすことすら、知らない少年は。

「すまないな、ヴァラン……」

 背中に回った手が、赤子をなだめるようにヴァランを癒す。

 どこまでも、どこまでも人を慈しむ幼い手。

 その事実に、どうしようもなく胸が痛んだ。

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