怨嗟の炎④

 少年は、よく笑う。

 それは、ヴァランが少年と会ってすぐに知ったことだった。

 例えば通りで喧嘩に巻き込まれたり――顔を晒されそうになったところでヴァランが乱入して連れ帰った――、例えば路地裏で刃物を突きつけられて脅されたり――これもまたヴァランがすぐに気付いて連れ帰った――、そういうことがあっても、少年は涙一つ零さず怯えも一切見せなかった。

 まるでこの世のすべてを慈しむかのように微笑んでいる。何があろうと笑みを絶やさないその様は、薄気味悪いことこの上ない。

 そも、ヴァランにとて二度も殺されかけた癖に、こうして会う日にはそんなことなどすっかり忘れて、親しい間柄であるかのように名を呼ぶのだ。

「ヴァラン」

 鼓膜に滑り込む、たまの声。

 美しく響く音が紡ぐのは、今まで一度たりとて意識してこなかった己の名で。

 一体どうしてこうも澄んで聞こえるのかとヴァランはいつもふしぎに思う。呼ばれる度に心臓を包む、奇妙なぬくもりにも。

「ここじゃ、あんまでけえ声で呼ぶなよ」

 己を呼んでは子どものように袖を掴んでくる少年へ、ヴァランは忠告する。

 二人が今歩いているのは一番人が多く賑やかな通りだ。

 普段、少年が花を見に誘ったり、様子を見に足を運んだりする時に歩くのは、割合人の少ない通りが多い。恐らくは、その瞳が多くの者の目に触れることを厭ってなのだろう。ヴァランには、どうでもいいことであるのだが。

 ともかく、普段はそうして人通りの少ない道を行きながら、影から大通りの様子を窺うのが少年のやり方であった。しかし、今日は違う気分なのか、こうして役人までが通りそうな場所を二人で歩いている。うかつなことをして、追い回されるはめに至るのは避けたい事態だった。


 今はまだ、時が満ちていない。


 事を起こすべき前に足がつくようでは成せる実も成らないものだ。いくらヴァランの逃げ足が速く、兵士どもが使い物にならないとはいえ、さすがに街中で事を起こすのは面倒なのである。

 ヴァラン自身はともかく、少年を連れていくにはいささか分が悪い。

「ああ、分かってる」

 微笑む少年は聞き分けのよい返事をする。実際、非常に賢しい子どもなのだ、この少年は。

 年相応の子どもらしい言動を取るくせに、引くべきところは引いて踏み込まない。街の様子を探る目に宿っているものも、子どもと呼ぶにはどうにもふさわしくない。

 大地を愛で、人を愛で、他愛のない生き物たちの生活を愛でている。まるでこの国の母でもあるかのような慈愛の念を、ヴァランは時折そこに感じてしまっていた。

 それが錯覚であることはヴァランとて重々承知しており、ばかみたいな幻想にはいつでも否定を繰り返す。ヴァランの前にいるのは、国に捧げられた供物であり、ただの神官の子どもに過ぎない。国を背負うだけの覚悟など、まだあるはずがない。

 それならばまだ、この少年だけは――。

「どうした、ぼーっとして」

 気付けば、少年の顔が眼前にあった。

 いつの間にか立ち止まっていたらしく、通りの邪魔になるからと手を引く彼に連れられて道端へ寄る。触れる肌からはかすかに花の香りがしていて、それが高貴な者と称される輩と同様のものだと気付いている。


(オレは一体、何を……)


 何を、考えていたのだろう。憎むべき敵に対して、何を考えたのか。


 喉がひくりと震える。ざわざわと周囲の声が響いてきて、目の前にはよく知った少年が、壁を背にして立っている。見上げてくる赤い瞳は、心からの気づかいをヴァランに向けていた。

 盗賊であるヴァランと出会いながら、けれども"ヴァラン"という一個人を尊重して接してくる、王宮に住まう謎多き少年。そこに利用価値を見出しこそすれ、抱く情などあるべくもないだろうに。

「いつまで触ってやがる」

 低く唸るように口にして、ヴァランは腕を掴む少年の手を振り払う。離れたはずの手首に残る温度が、いやに生温い。まるで母のぬくもりのようだと、脳が錯覚を起こす。


 目眩が、するようだった。


「大丈夫か」

 振り払われた事実など微塵も気にせず、少年は純粋に問うてくる。己を見上げる静かな陽色の瞳に、知らず、手が伸びていた。深く被いた白い布から、くしゃりと頭を撫でる。驚いて反射的に目を瞑る少年の様子を目にして、ようやくヴァランの口角は緩んだ。

「何にもねえよ。お前には関係ねえ」

 関係ない。

 この少年は、何も、関係ない。

 ヴァランが気にかけるものは何一つなく、ゆえに生かすも殺すもヴァラン次第で決まる。それならば、今はまだ生かしておいたとて支障はないであろう。

 そう結論付けようとするのに、頭では警鐘のように闇が謳い続けている。

「けど、具合が悪いなら……」

「平気だっての」

 鳴り響く怨恨の念を無視し、ヴァランは少年の手を取った。それが先刻の己の行動と矛盾することには、決して気付かないふりをして。

「もう少しだけなら付き合ってやる。あんまはしゃぐなよ、オレの?」

 いつだったかの意趣返しにそう言ってやれば、数度の瞬きを繰り返した後、少年はまた、花が綻ぶように笑った。

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