怨嗟の炎②
太陽が昇っては月と入れ替わり、夜を招いては朝を連れてやってくる。そんな日々を繰り返して、少年と会うこともなくふた月ばかりが過ぎ去った。
あの日以来、少年が姿を見せる気配はなく、街を歩いていても声をかけてくるのは取るに足りない連中ばかりだ。探しているわけではない。ただ、あれだけ頻繁に姿を見せに来ていたというのに、それがぱたりと止んでしまえば多少は気にかかるというもの。
――ヴァラン。
少年が呼んだ、己の名を、ヴァランは思い起こす。他の者が呼ぶそれと何ら変わらないはずなのに、なぜあれほどにふしぎな響きを持つのか。
ヴァランは考える。
目を閉じれば、真昼の空の下に、あの寂しそうな瞳が浮かんだ。
――……誰も、呼ばないんだ。
供物の名。尊き神の贄。
考えただけで胸の悪くなる話だ。犠牲を出して得るものの、何が尊いものか。
王家に滅ぼされたヴァランの同胞らと同じ。国の礎と称されてすべてを奪われている。己のために生きる権利すら、彼には与えられないのだ。湧き上がる苛立ちのままに問うた言葉に、少年はなんと答えたのだったか。
――構わないさ。オレはそのためにいるからな。
笑った、その顔に、ヴァランが覚えたのは憤りとと空しさだった。
平気なはずも、許せるわけもない。
それなのになぜ、少年は笑うのだろう。まるでこの世の幸福をすべて注ぎ込んだかのような、花のように柔らかな笑みを思う。
笑える、はずがないのだ。
すべてを奪われた後の苦痛を、絶望を、悔恨を。
ヴァランは誰よりも知っている。あの日々こそがヴァランを怨嗟の闇へと導いたのだから。
(ああ、そうか。だから……)
なぜ、ただすれ違っただけに過ぎない少年をこうも気にしてしまうのか。その理由は恐らく、彼がヴァランと同じものを抱えているからなのだろう。そうでなければ、こんな風に気にかけるはずがないのだ。
何の関係もない、他人のことなど。
――ヴァラン、か。いい名だな。
呼ばれるための名前があることを、あの時、彼はうらやましく思ったのだろうか。
誰もが与えられる名さえ奪われた、あの少年は。
「くだらねえ」
「何がくだらないんだ?」
思わず吐いた悪態に訊ね返す声がある。その聞きなじんだ声に振り向けば、そこには久方ぶりに目にする少年の姿があった。相変わらず目深に被いた白い布から、陽色の眼がヴァランをのぞき見ている。ふしぎそうな色を浮かべたその紅玉を前にして、ヴァランはほんの一瞬だけ息を詰めた。
「……どっから現れやがった」
湧き上がってきたのは、ヴァラン自身でさえも理解し得ない感情で。それを振り払うように口にした言葉は、いつもよりも迫力に欠けている。少年にも、それが分かってしまったのだろう。
「今日は元気がないな」
そう言って、何かあったのかと訊ねてくる。そんな彼の態度は姿を見せなくなる前と変わらない。それをどこか喜ばしく思う己に気付き、ヴァランは小さく舌打ちをした。
「何でもねえよ」
以前のようにぶっきらぼうに返せば、それ以上追及してくることはない。こういうところが居心地の良さを感じてしまう原因なのだろうかと、そんな考えがふと浮かび、ヴァランは眉根を寄せた。
盗賊であるヴァランにとって居心地の良い場所などどこにもない。
世界のすべてはヴァランが奪うべきものであり、王や神官の命はその最上位に属する。彼らの子どもであろうと変わらない。
ヴァランはすべてを奪わなければならない。
王の命も、地に溢れる生命も、すべてを闇へと捧げ、この地を暗黒に染めるのだ。それこそが、ヴァランの同族を屠った王族への、そうして彼らを許して崇め、のうのうと生きている民への復讐だ。
そのためには、この少年を利用してうまく王宮内の情報を探る必要がある。そうだ、この数週間少年を探していたのは、あくまで情報源としての話である。断じて――。
「ふた月も来なかったくせに、いまさら何か用かよ」
己の言いわけがましい考えに苛立ち、ヴァランが投げつけた言葉に、少年ははたりと目を瞬かせた。驚いたようなその表情に、ヴァランは眉間にしわを寄せていぶかしがる。
「んだよ」
「――いや、待っていてくれたのかと、思って」
「は、」
ふざけるな、とすぐに一喝しなかったのは失態だった。詰まらせた言葉は、ヴァランの中に疑念の種を落とす。
待っていたというのは確かな事実で、それはヴァランも認めるところだ。
待っていたのだ。王を弑し、世界を壊すための確かな鍵を、ずっと待っていた。けれどもそれは本当に、この少年を、だろうか。
「……オレ様がてめえを待つ理由なんざあるかよっ」
絞り出した言葉が、口内に苦味を広げていく。
ヴァランには分からない。自分は一体この少年をどうしようとしているのか。利用するだけなのに、なぜ、その境遇を考えてしまうのか。
少年が供物であろうと国に殺されようと、それはヴァランの預かり知らぬことである。気にするべくもない、瑣末な事情だ。ただ、この国への嫌悪が増すだけの話で。
そもそもが、この少年自体、その境遇を何とも思っていやしないのに。
「――そうだな。すまない、戯言だと思って、忘れてくれ」
そう、少年は静かに返してきた。はっとして見返した瞳には、悲哀も寂寥も浮かんではいなかった。
「そんなことより、あっちで面白そうな市があったんだ、行こうぜ!」
涼やかに言の葉を吐き出した喉は、すぐに明るい声を発し、柔らかな手のひらがヴァランの手を包む。そこに陰りは決してなく、何かを誤魔化す様子もない。
何かを間違えてしまった気がするのに、それが何であるか分からない。少年の浮かべる笑みはあまりに幼く、間違えたという感覚の方が、いっそ間違いではないかと感じられる。
それでも。
胸に詰まった凝りの存在を、手放してはいけない気がしていた。
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