供物の名②

「こんなん眺めて何が楽しいんだよ……」

 道の隅に咲く青い花を眺めている少年に、ヴァランは呆れ返ってしまう。

「ヴァラン、お前は楽しくないのか?」

「当たり前だろ。こんなもんただの花じゃねーか」

 目の前にあるのは、ただ道端に咲いているだけの花に過ぎない。売って金になるわけでもなければ、食料として役に立つわけでもない。そんなものに、ヴァランは価値など見出せない。

 この世で必要なのは金であり、力なのだ。ヴァランは、それを嫌というほど知っている。

「フフ、お前はそう言うと思っていたよ」

「お前なあ……!」

 好かぬ行為だと分かっていて付き合わせたのかと、顔を顰めてみせるも少年はどこ吹く風である。さて、どうだかな、と花を撫でてとぼける姿は実に小憎たらしい。

「つーか、こんな名前も知らねえような花に興味はねえよ!」

 いっそからかわれている気さえしてきたものだから、思わずそう怒鳴れば、少年の動きがぴたりと止んだ。いつになく珍しいその反応に、ヴァランは少年を凝視する。

「名前も知らない、か」

 唇の動きから彼が何か呟いたことは分かったのだが、急に吹いてきた風にかき消され、ヴァランはその言葉を拾うことができなかった。それでも、何か大事なことを聞き逃したような気がしてしまい、彼は少年に声をかけようとした。

「つき合わせてすまなかったな。帰るか」

 けれども、少年の言葉に遮られてしまい、ヴァランは頷くことしかできない。聞き逃したからとて、それをわざわざ訊き返す意味は、ヴァランにはないのだ。この少年のことを知っておく必要などない。ヴァランは、己の復讐のためにこの少年を利用するだけなのだから。

 そう考えて、ヴァランは胸中に浮かんだわだかまりを振り払う。

 他人に情を向けるべきではない、利用する以外のことを、考えるべきではない。

 そう、確かに、分かっているから。

 二人で来た道を引き返していると、そういえば、とふいに少年がヴァランを振り返った。

「まだ、持っていてくれたんだな」

 フフ、と嬉しそうに笑う彼に、何のことやら分からず首を傾げていると、ついっと腰に提げた袋を指し示された。くすんだ色をしている布の下には、あの日少年に手渡された黄金が眠っている。どうしても手放すことができず、袋に入れたままずっと持ち歩いてしまっているのだ。とっさに袋を押さえると、少年の唇からおかしそうな笑いが零される。

「ちょっとした賭けだったんだ。でも、よかったぜ。やはりお前は……」

「単に売るのにいいとこが見つからなかっただけだ!」

 少年の言葉を遮って怒鳴ったのだけれど、彼はなおのこと笑みを深めるばかりだ。心の中を見透かされているようで気に食わない。チッと舌打ちをし、ヴァランは早々に話題を切り替えることにした。

「つーか、てめえ、けっこう街に来てるみてーじゃねーか。前に息抜きがどうとか言ってたのはどうしたんだよ」

「ん? ああ。あれはもちろん冗談だが」

 けろっとした顔で言われ、頭の中で何かが切れる音がする。このクソガキめ、と彼の頭を掴んで力を込めれば、少年にまじまじと見つめられた。

「んだよっ!」

「いや、お前は他の者たちとは違うなと思って。皆、こういった手荒いことはしないからな。珍しい」

 口元を緩めている少年に、ヴァランは顔を顰める。世の中には、痛みを与えられることで快感を得る輩がいるらしい。ヴァランにはまったく理解できないことだし、関係もないことだとは思っていた。だが、まさかこんな子どもまでそういう趣味を持ち合わせているとなると、上層階級共の暮らしになおのこと嫌悪感が沸き上がってくるというものだ。

「おい、何勘違いしているんだ。オレはお前の態度が物珍しいだけで、別に喜んでいるわけじゃないぜ」

 うげえ、と顔を顰めたヴァランの反応に気付いて、少年がむすっとした顔でそう返してくる。失礼な、と言いたげであるが、どちらにしろ、ヴァランからすればあまり変わらないように思える。快感を得ているわけではないにしろ、痛みを与えられて笑っているというのは、変態に分類されるに違いない。

「つーかよ、いい加減名前くらい教えたらどうだ?」

「ん? 何のだ?」

 急に訊ねたヴァランに、少年は首を傾げて返す。どうも、何を訊ねられたのかがよく分かっていないらしい。妙なところで勘が良いくせに、こういう時はひどく鈍くなるのが小憎たらしい。

「てめえのだよ。最初ん時に、次会ったら名乗るつってたじゃねーか」

 別に、ヴァランとて是が非でも知りたいというわけではない。ただ、こうして幾度か時間を共有している今でもヴァランは少年の名を知らないままでおり、自分の名は相手に知られているという状況に、なんとなく不満があるのだ。折を見て適当に切り出そうかと思っていたのだが、それも、今日まで機会を掴めずにいたわけである。


「……ああ、あの時のことか」

 王宮での一件を持ち出せば、少年の顔からスッと表情が引いた。急激に変わった彼の雰囲気に、ヴァランは目を瞬かせる。

「そうだな。確かに、次に会った時にとは言ったが、名乗るとは言ってないぜ」

 ふざけるな、そう怒鳴ろうとすれば、少年の指でそっと唇を押さえられる。うっすらと口元に笑みを乗せて、片目を瞑ってみせた彼を前にして、ヴァランの背筋にぞくりと悪寒が走った。

 あの日、深い深い陰に呑み込まれそうになった感覚と似た何か。

 目の前にある深い赤を宿す瞳からは、口元の笑みとは相反して、一切の感情が排除されていた。

「……あのな、ヴァラン」

「あ?」

「神と同じ名をつけられるとしたら、それはどういう意味を持つと思う?」

「……んなの知るかよ。単にてめえも神と同じくらい偉いってことになんじゃねーの」

 ヴァランもそこまで詳しいわけではないが、どうも王様とやらは神に因んだ名をつけることがあるらしいと聞いている。御託はいいからさっさと名乗れという雰囲気を醸し出していると、少年の表情がふっと和らいだ。

「ふふっ。そうだな。そうだよな……」

 鈴の音のように軽やかな笑い声が、鼓膜を震わせる。ほんの少しだけ嬉しそうな声が、それでも悲しそうな表情が、どこか遠くを見るようなその瞳が、ヴァランの心臓を打ち鳴らす。

「おい、何だよ」

 彼の笑いの意図が掴めず訊ねるヴァランを、少年が眩しげに目を細めて見つめる。

「たぶん、そうだったんだ。きっとそう思っていたんだよ。彼の神の加護があるように」

 まるで、実際には違うのだと言いたげな口調だった。

「どういう意味だ?」

 思わず聞き返して、どくり、と心臓が鳴った。手を伸ばせばすぐそこにいる少年が、なぜだかひどく遠くに見える。とっさに彼へと手を伸ばしかけ、ヴァランはぐっとそれを押さえた。

 ――馬鹿みたいだ。こんな衝動に、駆られるだなんて。

 いやに、胸がざわついている。

 少年の口元に刷かれた笑みが深まる。神でも前にしているかのような畏ろしさが、ヴァランの身を包んでいる。馬鹿げている。そう分かっているのに、彼から目が離せない。柔らかに弧を描く唇が、やおらに動かされる。


 なあ、ヴァラン。


 そう、謳うように呼びかけられた。

「神の名を持つことは、神の供物であることと同義なんだよ」

 それは神の名であり、供物の名であり、人の名ではない。森羅万象、この世のあらゆるものは、神の名に根ざす。ゆえに、そこにはすべての物事の鍵となる意味が含まれている。たかが一個人の自由にできるものではないのだ。

 だから、とは少年は続けなかった。

「……誰も、呼ばないんだ」

 ただ静かに目を伏せて、そう微かな声で告げた。

 寂しそうな瞳。

 ただそれだけが、ヴァランが彼に対して思えたことだった。お前、と口にしようとして、けれども喉につかえた声は音にならずに消えた。

 一体何を紡げば良いというのだろう。それは一体、ヴァランにとっていかほどの意味を持っているというのだろう。

 言葉を捜して迷うヴァランに気付いたのだろうか。

「悪いが、名は教えられないんだ。名乗れなくてすまないな、ヴァラン」

 そう言って、少年は表情を和らげた。不恰好ではない、親しい相手に向けるような、慈愛のこもった笑みだった。それでもヴァランは、その笑みを寂しそうだと思ってしまった。

 神に捧げられた供物。

 それはつまり、この国の王、現人神の下に縛り付けられているということなのだろうか。ただ一人の少年の生を、その終わりすらを、この国の王が握っている。そう理解すれば、胸の奥から激しい嫌悪が込み上げてきた。過去のことも含め、どこまでも傲慢な王に怒りが沸いてくる。

 けれど、それ以上に。

「お前は、それで満足なのかよ」

 ヴァランは、自身でも知らぬ間に、そんなことを口に出してしまっていた。聞いたからとて、ヴァランがどうできるわけでもないのだ。それでも、胸中に浮かんだ疑問を失くすことはできなかった。

 少年は、ヴァランの問いに驚いたのか、目を瞬かせながら聞き返してくる。

「満足?」

「っ、だから、お前はそのままでいいのかって聞いてんだっての!」

 心底ふしぎそうに訊ねてきた少年に、ヴァランは苛立ったように叫んだ。大声を出され、きょとんと目を丸くした少年は、けれどすぐに花のような笑みを浮かべる。

「構わないさ。オレはそのためにいるからな」

 さ、もう行こうぜ。

 そう言って向けられたその背が今にも消えてしまいそうで、ヴァランはぎゅっと拳を握り締めた。

 なぜこんな思いを抱かねばならないのか。

 初めて得た他人への情に、ヴァランはひどく戸惑っていた。

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