供物の名①

 ふわりと、甘い香りが鼻腔をつき、ヴァランは足を止めた。微かに風に香る程度のその匂いは、ここ最近ですっかり慣れ親しんでしまったものであり、すぐにそれが誰だか分かってしまう自分に、ヴァランはつい舌打ちしたい気分に駆られてしまった。

「ヴァラン!」

 どん、と背中に走った衝撃に驚かず、ヴァランは名を呼ぶと同時に突進してきた、その少年を振り返った。

 最初に会った時と同じ、布で身体を覆い隠した彼の装いは、市井にいる分には別段珍しい格好ではない。見上げてくる赤紫の瞳には無邪気な色が浮かんでいて、ヴァランは大きくため息を吐いた。

 あの日に街で再会してから、この少年はこうして週に一、二度ヴァランに会いに来るようになった。妙な相手に懐かれたもんだと辟易するヴァランであったが、それでもなぜだか彼が自分の元へやってくることを拒めずにいる。

「おい、だからいちいちぶつかってくんなって言ってんだろーが。殺されてーのか?」

 腕を掴み上げ、低い声で脅しても、少年は悪戯好きの子どものように笑うだけである。これで年が四つ離れた程度だというのだから、ヴァランは少々頭が痛くなりそうだった。

 ヴァランの生きてきた世界は、力がすべてだ。

 人の悪意も知らぬような子どもなど、搾取され切り捨てられて終わる。誰も他者の心配をしはしないし、だからこそ、誰にも気を許してはいけない。

「お貴族サマの生活ってなあ、よっぽどお気楽なもんらしいな」

 これだけ頻繁に供もつけず街に降りてきているのだ。相当考えが甘いとしか思えない。とはいえ市井へ降りる時には装飾具を外してくる程度の考えはあるようなので、救いようのない能天気というわけでもないようだった。

「ああ、そうだな。お前たちに比べたら、な」

 ヴァランが皮肉を言っても通じない。バカにするでも、嘲笑うのでも、自嘲するわけでもなくそう平然と言ってしまうから、この少年の正体は掴めないのだ。

 その真意はどこにあり、一体何を考えているのか。

 気になりはすれど、神官の子など気にしたところで何になるというのか。いつでもその考えが浮かび、その度に思考が閉ざされる。

 知りたい、という欲求など持つわけがない。ヴァランが彼らに対して抱くのは、ただひたすらに憎しみのみだ。

 だから、これは少年を利用しようと思っているからに過ぎないのだ。隙を見せれば、この少年はすぐに気を許すから。

「おい……」

「そうそう、ヴァラン! さっき向こうの路地できれいな花を見つけたんだ! 見に行こうぜ!」

 この間から訊ねられずにいたことを口にしようとした途端、ふいに明るい声を上げて、少年がヴァランの腕を掴んだ。ぐいぐいと強引に手を引かれ、ヴァランは深くため息を吐く。

 毎度毎度、少年は街に降りてきては、こういうくだらない用事でヴァランを振り回すのだ。その行動はまったく自由奔放で、目を離せば何をしでかすのか分からない危なっかしさがある。まるで手のかかる弟を手に入れたような気分に浸ってしまいそうで、ヴァランは忌々しげに舌打ちをした。

「分かったから、引っ張んなっての! てめえは少し落ち着きやがれ!」

 いつまでも遠慮なく手を引いてくる、はしゃいだ様子の少年をヴァランは怒鳴りつける。路上の花など眺めて何が楽しいというのか。まったく上層階級にいる輩の考えは理解できない。

(ま、別にわかりたくもねえけどよ)

 共に過ごす時間に意味などないのだと、ヴァランは握られた手の先を見る。

 少年の手はヴァランのものより幼く力も弱い。今この場でその手を振り払うのは非常に簡単なことだった。

 それでも、振り返った少年が、心から嬉しそうに笑うのが、ヴァランにこの手を振り解くことを許してくれないのだ。

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